第39話 ヘレナとエマ
ガン族の長トールがやって来たのは、それからしばらくたった、夕暮れ時のことであった。
その頃ちょうどシグルズとケネスはサンクレール家の屋敷の様子を見に出かけていて、エマは一人で聖堂の掃除をしていた。本当は彼女も行きたかったのだが、今はそのタイミングではないと諭され、留守を預かることになったのだ。
今夜の夕食の煮込みの見張りはアンソニーだ。それなら左手一本でもできる。
「おじいさま…」
扉の向こうから現れた大きな人影に気付き、エマは手を止めた。
トールは側近達に下がるよう片手で合図し、静かに中へ入ってくると、十字架の前で跪き、祈りを捧げた。そして、立ち上がると、エマに向き合い、両手を広げた。エマは手に持っていた箒を投げ捨て、駆け寄って抱きついた。トールは大きな体で、きつく孫娘を抱き締めた。
「おじいさま…!」
エマは子供のように、頭をぐりぐりと祖父の胸に押し付けて泣いた。ずっと我慢していたのだ。サザーランド伯爵の館で家族と別れて以来、久々に会う肉親だ。今までピンと張り詰めていた心の糸が、ゆるゆるとほどけて、肩の力が抜けるよう。
本当は、昨晩、もっと早くにこうして抱き合いたかったのだけれど、堪えていた。強がりは彼女の得意業であり、時に短所でもある。
トールは優しく孫娘の顔を見つめると、はっきりとした口調で言った。
「エマ、私と一緒に来い。話は聞いている。あの男に拐かされたのだろう?村に来れば、私や仲間がおまえを守ってやれる。また平和に暮らせるぞ」
エマはきょとんとして祖父の顔を見ると、首を傾げた。
「おじいさま、何か誤解なさっているわ」
トールは訝しげに眉根を寄せた。
「私は拐われたのではないわ。サザーランド伯爵のお屋敷で濡れ衣を着せられそうになったのを、シグルズ様が助けてくださったのよ」
どういうことだ?と、首をひねり、トールは孫娘の言う事が理解できていない様子だった。たしかに部下の話によると、あのシグルズ・ハラルドソンという男は、司祭でありながらその美しい容貌で女を惑わし、世間知らずな田舎娘を誘惑して連れ去ったと聞いていたのだが。しかも、恋路を邪魔する求婚者を、文字通り、この世から消し去ってしまう、悪魔のような邪悪な男だとも。
それを聞いたエマは呆れ返り、頭を抱えた。目眩がするようなひどい醜聞だ。人の口に戸は立てられないとはよく言ったものだが、ここまで噂が一人歩きしているとどうしたものかと思ってしまう。自分が悪女になるのは良いが、助けてくれた恩人が不当に扱われるのは嫌だ。
エマは指を立てて祖父に物申した。
「いいですか、おじいさま。あの方は私の命の恩人なのです。私はもう少しで無実の罪で捕まり、死ぬところでした。でも、あの方はご自分の名を傷つけてまで私を助けてくださったの。私はあの方に感謝しています。だから、おじいさまも、あの方の名誉を汚すような真似は絶対にしないと約束して」
かわいい孫娘にそのようにきっぱりと言い切られ、トールはたじろいだ。事の真相はさておき、この気の強さは本当に母親譲りだ。いや、ガン族の娘は皆そうなのだ。皆、利かん気が強くて、頑固で、一度こうと決めたら絶対に譲らないところがある。
トールは子供時代のエマの母ジェーンを思い出し、頭を掻いた。
「…血は争えんということか」
むっとしたエマの頭を、トールはぽんぽんと叩いた。
「なんです、子供扱いして」
いや、とトールは笑った。
「子供扱いなんてしていない、おまえは素晴らしい女性になった。ジェーンとそっくりだ」
本当に?と今度は目を輝かせて、彼女は祖父を見た。彼女にとって母は、ずっと憧れの、一番素敵で、一番尊敬している女性なのだ。
「そうだとも」
トールは頷いた。
「それに、ヘレナともそっくりだ」
エマはあんぐりと口を開け、信じられないといった様子で首を横に振った。
「おじいさまも、ヘレナと私が似ていることはご存知だったのね」
トールはため息をついた。彼女は本当のところは何も知らなかったのだ。というより、彼女の母が話さなかった、と言うほうが正しいかもしれない。
眉をひそめ、訝しげな顔をするエマを見て、トールはやれやれと聖堂に並べられた長椅子に腰を下ろした。戦の時は疲れ知らずの屈強な戦士だが、そうでない時は、ただの少し偉いだけの老人なのだ。寄る波には勝てぬものだ。
トールは手を広げて話し始めた。
「噂というのは実に当てにならんものでな、人々は都合の悪いことは皆なかったことにしたり、尾ひれはひれをつけて面白おかしく話をすり替えたりしてしまう」
それを、おじいさまが言う?とエマは、シグルズの噂話を真に受けた自分を棚に上げて話す祖父を睨み付けた。トールは肩をすくめて言った。
「おまえが聞いた話は、多分、間違ってはいない。大体が人々の話す通りだ。ただ、そこには大事なことが一つ抜けていてな」
エマは彼の言葉を待った。
「ヘレナはヒルド族に拐われる前、婚約者との間に既に子供をもうけていたのだ」
トールの言葉に、彼女は再び口をあんぐりと開けねばならなかった。祖父はころころと変わる孫娘の顔を小さく笑いながら見て、続けた。
「未婚の母だったのだ。だから、怒った父親に長らく結婚を許されていなかった。彼女は一族の長の娘だったから。だが、ようやく周囲の説得に応じ、族長である父親が結婚を認めた頃、ヘレナはヒルド族の男に拐われてしまった」
彼は言葉を選びながら、端的に話した。
「婚約者の男はヘレナのために戦い、命を落とした。ヒルド族によって、村には火がつけられたが、乳母が子供を守り、命からがら逃げ出した」
そして、彼は黙って話を聞く孫娘の目をじっと見つめ、その子供とは、誰のことだと思う?と尋ねた。
エマは、まさか、と目を見開いた。祖父は優しく、だが、どこか寂しげに頷いた。
「私は両親をヒルド族によって奪われた。だから、ヒルド族のことは絶対に許せないし、これからも許すつもりはない」
トールははっきりと答えた。
「ただ、おまえのような、か弱く、罪のない娘が争いに巻き込まれるのは二度とごめんだ」
エマは初めて知る事実に愕然とした。今まで《嘆きの塔》のヘレナは、非業の死を遂げた、ただの可哀想な娘で、同じガン族の血は流れていても、彼女にとっては赤の他人であった。だが祖父の話が本当ならーーーもちろん、エマは祖父の話す事はいつだって信用しているのだが、ヘレナは彼女の曾祖母だ。
それなら合点がいくではないか。彼女がヘレナに瓜二つだということも、《嘆きの塔》で彼女に語りかけようとしてきたことも。
エマは母に言われたことを思い出していた。ガン族の族長の娘は、燃えるように赤い髪をして生まれてくるのだという。ヘレナも、母ジェーンも、エマも。彼女はモレイ家の娘だったが、それでもその兆候は顕著に現れた。曾祖母との不思議な縁を感じずにはいられない。
「おじいさま、おじいさまも一つご存知ないことがあるわ」
なんだと、祖父はエマの顔を覗きこんだ。エマは俯いて両手を組み、しばらく考えていた。だが、やがて顔を上げると、祖父の緑色の目をしっかり見つめ、微笑んだ。
「私も、ヘレナも、ちっとも弱くなんかないわ」
彼と同じ、エメラルドのような緑色の瞳が真っ直ぐに祖父の目をとらえている。彼女は言った。
「だって、ヘレナは絶対にヒルド族には屈しなかったし、私もウィルダネスの兵士と戦ったんだから」
これには祖父も笑わずにはいられなかった。
「まったくだ、私はとんだ思い違いをしていたようだ!」
そして、再び孫娘を強く抱き締めると、噛み締めるように言った。
「ガン族の真の戦士は、女のほうかもしれん」
痛いわ、と腕の中でエマが笑いながら訴える。いつの間にこんなに大人になってしまったのだろう。娘に抱かれ、まだ小さな子供だった頃の彼女を思い出し、嬉しいのやら、寂しいのやら、トールは胸が掻き乱されるのを感じた。




