第38話 戦いの後に
ゆっくりと歩みを進め、ティンカーに着いたのは日も高く昇ってきた頃だった。町は相変わらず騒がしかったが、普段より人気は少なく、一部の人々だけが忙しなく、あっちに行ったりこっちに来たり、動き回っているようだった。
聞けばサンクレール家の消火活動に人々は駆り出されているのだと言う。そして屋敷の再建が進むまで、当主やその側近がティンカーに身を寄せるので、残った者達は慌てて貴いお方の居を整えるため、駆けずり回っているということだ。
「ジョージ様はあまり気にしないと思うけど」
エマは軽い身のこなしで、馬から飛び下りながら言った。手を貸す?と冗談めかして、片手でもたもたと馬から足を下ろしているアンソニーに手を差し出した。彼は右手が使えなかったので、帰路はエマの後ろに乗ってきたのだ。もちろん、馬を操縦していたのはエマだ。
「いいよ」
アンソニーは不貞腐れたように答えた。背後で「そうだぞ、あなたの後ろに乗れただけで十分だ」と不平を訴えるような声がする。
二日ぶりに戻った聖ファーガス教会は、随分久しぶりで懐かしく感じた。一生懸命手入れした聖堂はまだきれいなままで、太陽の光を反射してきらきらと光っていた。あばら屋は、もしかしたら昨夜の嵐でとんでもないことになっているかもしれない。恐る恐る様子を伺うと、案の定ひどい雨漏りで室内はびしょ濡れだったが、ベッドの下に隠しておいた荷物は無事だった。
エマはふうと胸を撫で下ろし、きれいな木綿の布と酒瓶、それに添え木になりそうなものを取り出すと、アンソニーの右手の手当てを始めた。傷口に酒をどぼどぼと流すと、彼は顔をしかめて大声で呻いた。それを見たシグルズとケネスは顔を見合わせ、そそくさと退散していった。
「ねえ、アンソニー、大変だったわね」
傷口を清潔なガーゼで保護し、添え木をして包帯でぐるぐる巻きにしながら、エマはぽつんと呟いた。彼女は医者ではないので、故郷でマーサに教わった簡単な処置の仕方しか知らないが、それでも彼の手がパンパンに腫れて痛くて動かないのを見るに、骨が折れているかヒビが入っているのは間違いなかった。
アンソニーは苦笑いをしながら、おどけたように答えた。
「ああ、でもこれくらいで済んだのは本当に運が良かった。下手したら今頃、俺もあの世にいたかもしれないし」
エマは小さく笑って「駄目よ」と言った。
「あなたが時間を稼いでくれたおかげで、運良くサンクレール兵が来て助けてくれたけど、毎回そう上手くいくとは限らないんだから。もう絶対、あんな真似はよしてちょうだい」
「だけど、おまえだって人質になろうとしてただろう」
「それは…」
エマは言い淀んだ。
「それは、あの人達の狙いが私だったから」
エマは肩を落とした。彼女は本当は罪悪感を感じていたのだ。ウィルダネス兵が攻めてきて、アンソニーが一人で外に飛び出していったあの時、彼女は彼のことが心配でたまらなくて、つい、ウィルダネスの急襲はクローストン卿のせいだと人々に言ってしまったのだ。もちろん、それは嘘ではないのだが、自分のせいでたくさんの人を危険に晒しておいて、その原因を全部人に押し付けてしまったことに悶々としていた。元凶は自分だったのに。
黙って後片付けを始めたエマに、アンソニーは言った。
「おいおい、まさか自分が悪いとか思ってないだろうな」
彼女の肩を左手でぐいっとこちらに寄せて、無理矢理その顔を覗き込む。彼女は頼りなさげな表情をしていたが、彼ときちんと目を合わせると答えた。
「だったら、何?」
アンソニーは首を横に振って、
「やめろ、そんな考え。おまえは一つも悪くない。悪いのはクローストン卿だ。俺も、おまえも、ただ生きるために正しいことをしただけだ」
少々危なっかしくはあったけど、と答えた。エマは困ったように笑うと頷いた。
「そうね、あなたの言う通りだわ」
そして、そっと肩に乗せられた彼の手を振り払うと、再び片付けを始めた。
戦とは、なんて気分の悪いものなのだろう。勝利したと分かったときの高揚感は一瞬で、あっという間に後悔やら罪悪感やらで胸がいっぱいになってしまう。自分はまだ大切な人達を誰も失わずに済んだけれど、誰かを失くしてしまった人々は、一体どんなに苦しんでいることだろう。ブローラで平和に暮らしていたときは、こんなこと考えたこともなかった。
それに、とエマは胸に手を当てた。
ーーーあの時のあれは一体何だったのかしら。
エマは馬に乗って教会を飛び出したときのことを思い出していた。あの時、彼女はたしかに正気ではなかった。だが一方で、彼女は起こったこと全てをきちんと正確に覚えていた。あれは確かに自分自身の意思だった。ただ身体が不思議な力に支配されていて、どこからともなく湧き出てきた奇妙な使命感によって、彼女は亡くなった兵士達をどこか遠い場所へ送り出し、そうではない兵士は深い眠りにつかせていたのだった。
エマはぞっとした。本当はあの時、生きた兵士の魂を抜いてしまうこともできたからだ。だが、手をかざした瞬間、わずかにブレーキが働いて、そこまでするべきではないと感じたから思い止まっただけのことだった。そうでなければ、今頃自分はウィルダネス兵全員を殺していただろう。
ーーーなんてこと、一番恐ろしいのは私自身だわ。
エマはぶんぶんと首を横に振った。もう忘れよう。きっと、ヘレナに会ったから不思議なことが起こっただけだ。あんなのは本来人間に為せる業ではない。たまたま、奇跡が起こっただけなのだ。
エマは気合いを入れるように、両頬をパン!と叩いた。背後でアンソニーが怪訝な顔でこちらを見ていた。
「さあ、働くわよ!こういうときは仕事が一番!」
ええー、とアンソニーが不満を漏らす。
「俺は休みたいよ、くたくたなんだ」
休んでいていいわよ、とエマは腰に手を当て、言った。
「ただし、お布団はないわよ。雨でびしょ濡れなんだから」
やっぱり雨漏りを先に直しておくべきだったかとアンソニーは恨めしげにあばら屋の隙間だらけの屋根や壁を見た。だが、右手は今こんな状態だし、しばらく大工仕事はできそうにない。
エマは笑った。
「誰か、手の空いてそうな人に頼んでみるわ。と言っても、皆お屋敷のほうで手一杯だろうけど」
アンソニーは肩をすくめた。
「大丈夫、シグルズ様やケネス様よりは役に立ちそうな人を連れてくるわ。あなたはその健康な両足で、シーツと毛布を洗っておいてちょうだい」
そう言い残して彼女は出ていった。アンソニーは、ぷっと吹き出しながら、片手で汚れたリネン類を集め、井戸のほうへ歩いていった。




