第5話 釈明の夜
その晩、モレイ家はサザーランド伯爵邸に客室を借り、泊まることになっていた。
晩餐会が早くにお開きになったせいでやることがなく、近隣に住まう貴族の中にはいそいそと帰宅する者もあったが、モレイ家とランス家の人々はまだ屋敷に留まっていた。
その後、ブライアンを捕らえたとの報告は上がらなかった。ちょうど夕暮れ時であったので、すぐに暗がりに紛れて見失ってしまったのかもしれない。
エマは晴れない心のまま、豪華すぎる寝台の上に一人転がっていたが、とても眠る気分にはなれず、気だるそうに体を起こすと、膝を抱えてため息をついた。
ブライアンはなぜ危険を犯してまでこの屋敷に忍び込んできたのだろう。彼女に会うためだけに来たとしたら、代償が重すぎる。もしかしたら晩餐会の喧騒に乗じて拐かすつもりだったのかもしれない。あのままハラルドソン司祭が来なかったら、一体どうなっていただろう。エマは恐ろしくなり、体をすくめた。
しばらくそのままじっとしていたが、そうしていればいるほど、あれこれ考え込んで心が千々になっていくような気がしたので、エマはぶんぶんと頭を横に振って立ち上がった。そして上着を羽織り、タータンのショールを肩にかけると部屋の外に出た。
父に言われたことを忘れたわけではないが、このまま部屋にいても到底眠れそうにないし、少し気分をすっきりさせたかったのだ。
廊下に出ると、もう誰もいなかった。少し前までは使用人達が静かに行き交っていたが、彼らも自室に引き上げたようだ。ビリヤードに興じていた紳士達ももういない。どの部屋もひっそりと静まりかえっている。
エマは空っぽのビリヤード台に手を置いた。窓際には飲みかけのグラスがすっか忘れられて置き去りになっている。窓の外は暗闇だ。壁に掛けられた豪奢なタペストリーが、月明かりにほんのり照らされてぼやけて見える。
何者かの足音が聞こえ、エマはびくりと体を震わせた。恐る恐る振り向くと、それはすっかり見慣れた神父様であった。
「あなたでしたか」
ハラルドソン司祭はそう言って、小さく笑った。エマはブライアンではなかったことにほっとしたが、それでも彼を目の前にすると、まだどこかぎこちなくなってしまうのであった。
「神父様、あの時は助けていただき、ありがとうございました」
エマはしどろもどろになりながら、頭を下げた。
「良いのです。一人でこちらへ?」
ハラルドソン司祭は優しい声で尋ねた。エマは俯いたまま頷いた。
「あの、部屋から出ないほうが良いことは分かっています。ただ、一人で部屋にこもっていると、つい考え込んでしまって」
ハラルドソン司祭は頷いた。
「責めているわけではありませんよ。怖い思いをなさったのですから、眠れないのは分かります」
彼は周囲を見渡し、
「それより、本当にお一人で?誰かと会ったりしませんでしたか」
と、尋ねた。
「本当に一人です。ここへ来るまでどなたにもお会いしませんでした。皆眠っているのですわ」
「そうですか、それなら良いのですが」
どういう意味かと聞き返すより先に、ハラルドソン司祭がエマのほうへ近寄ってきた。思わず後退りするエマだったが、司祭は困ったように微笑むと彼女に向かってひざまずいた。
「偶然でも、もう一度あなたとお会いできてよかった。昼間のことをきちんと謝罪したかったのです。あなたにご不快な思いをさせてしまいました」
エマは驚いた。
「そんな、おやめください、神父様。お立ちになって。お詫びしなければならないのは私のほうです。司祭様ともあろうお方に、とんだご無礼を働いてしまいました。本当に恥ずべき振る舞いであったと反省しております」
「いえ、恥ずべきは我々のほうです。神に仕える立場でありながら、あのようなこと。主と信徒に対する裏切り行為と言われても仕方ありません」
「何をおっしゃるのでしょう。大司教様と司祭様に対して、そんなことを言えるわけがありません。お願いです、本当にお立ちになって。こんなの我慢なりません」
嘆願するように両手を差し出すと、ハラルドソン司祭は顔を上げ、眉を下げて微笑んだ。そして差し出されたエマの手を取り、恭しく口付けすると答えた。
「あなたの寛大なお心に感謝します」
エマの顔は、まるで火が吹いたように真っ赤になった。神父様がこんなふうに膝をついて手にキスするなんて聞いたことがない。それに彼の動作は、まるでそんなこと何でもないと言わんばかりに、嫌味ひとつなく、優雅で洗練されていて、ほとんど貴公子のようだった。
ゆっくりと手を離されると、エマは両手を胸の前で抱え、俯いた。なんだかとてつもなく恥ずかしい。穴があったら入りたいくらいだ。パッとしない田舎娘が、高貴な身分の司祭様にこのようなことをさせて、ブライアンが知ったらきっと大笑いするだろう。それとも、フォートヒルの貴族達は皆こうなのだろうか。
ハラルドソン司祭の柔らかい視線から目を逸らし、エマはたじろいでいた。司祭もこれほど彼女が恥ずかしがるとは思わず、困ったように眉を下げていたが、その眼差しは優しかった。昼間の威勢の良さからは想像できない姿だったからだ。
「ミス・モレイ、よろしければお名前をお伺いしても…」
そう言いかけたときであった。壁の向こうで、何かが激しく破裂するような音がして、エマはびくりと体を震わせた。ハラルドソン司祭もハッとしてそちらに顔を向ける。不吉な気配がした。今の音は、まるで発砲音のような…。
「…何かしら、今の音」
エマが恐る恐るアーチ型に抜けた壁の向こうに顔を出す。コツンと足先に何かが当たって、手を伸ばした。ハラルドソン司祭が声を上げた。
「いけません!」
エマは足元に落ちていたものを拾い上げた。ずっしりと重く、固く、冷たいのに熱い。それは、銀の銃であった。
エマは頭が真っ白になった。なぜこんなものがここに落ちているのだろう。
背後からハラルドソン司祭が慌てて駆け寄ってきた。何かを言っているが、よくわからない。エマの視線はその先にあった。そこに倒れているのは、ブライアンだった。血を流し、ぴくりとも動かず、まるで仕留められた熊か何かのように黒い大きな塊になって転がっていた。
「ミス・モレイ、見てはいけません!」
ハラルドソン司祭が自らの手で彼女の視界を覆った。わけが分からなかった。なぜブライアンがここにいるのだろう。なぜ血を流して倒れているのだろう。様々な疑問が頭の中を巡ったが、何も考えられなかった。ただ、ハラルドソン司祭の大きな肩に力強く抱かれて視界を遮られ、既に脳裏にこびりついたその光景を反芻することしかできなかった。
ゴトンと重たい金属音を立てて、美しい銀の銃が手元からこぼれ落ちた。




