第36話 夜明けの嵐(1)
階段塔は既に煙が充満し、すぐそこまで火の手が迫っているように見えた。
「突っ切ろう」
シグルズは言った。危険だし、階下がどうなっているか想像もしたくないが、それ以外に方法がない。
彼は後ろを振り返った。そこにはサンクレール家の若き当主が立っていた。
「先に行って待っている」
シグルズがきっぱりとした口調でそう言うと、彼は短く、
「ああ」
と返事をした。
シグルズらは階下に向け、一気に駆け下りた。
辺りはすっかり火の海で、どこをどう走ったものか、後になってみると全く覚えていなかった。
炎の中に、幾人もの人影が見えた。生きているのか、死んでいるのか、自分達を呼び、手招いているようにも見えたが、よく分からなかった。熱さも度を越えて痛みに変わり、息もできず、彼らは無我夢中で走り続けた。
途中で何度も建物が崩落するような轟音が聞こえた。だが、立ち止まっている暇など一瞬もなかった。トールがほとんどクローストン卿を担ぐようにして火の中を駆け抜け、滑り降り、その後を追うようにシグルズとケネスは必死についていった。
ようやく外に出たとき、息が吸えると思った安心感で、シグルズとケネスはどっと疲れて、もう一歩も動けなくなってしまった。仰向けに倒れ、駆け寄ってくる人々が何か言っているのをぼんやりと聞きながら、シグルズは浅い呼吸を繰り返し、屋敷を見上げた。
雷鳴が轟き、風が吹き荒れている。屋敷は炎に包まれ、ここまで戻ってこれたのが奇跡のようだ。
燃え盛る塔の頂上で、何かが揺れている。稲妻が走った。人々は歓声を上げた。
「ジョージ…」
若き当主がそこに立っていた。右手には槍、左手には戦旗を持っている。槍の先端にはヒルド族の長の首が突き刺さり、晒されていた。サンクレール家の家紋が風に翻り、戦いに勝利したことを示している。
「天は彼に味方したようだ」
座り込み、部下達に囲まれながらトールは言った。手のひらを上に向けると、ぽつぽつと冷たいものが空から落ちてきて、当たって弾けた。風は雨を呼び、やがて嵐となって炎を消すだろう。戦は終わったのだ。
「ジョージ様、万歳!!」
「サンクレール伯爵、万歳!!」
どこからともなく歓声が上がり、人々は声を揃えて叫び、炎の上に立つ少年を称えた。
シグルズは眉を下げて笑った。孤独だった少年は、一夜にして孤高の存在になったのだ。空高く舞い上がる、一羽の鷹のように。
「さあ、では私も目的を果たさせてもらおう」
差し出されたエールをぐびぐびと飲み干し、おもむろに立ち上がると、トールは言った。シグルズとケネスは彼を見上げた。
「まさか、忘れたとは言わせんぞ!私が何のために軍を引き連れてここまでやって来たのか」
シグルズとケネスは目を見合わせた。ジョージはまだ居住塔の上にいる。今や雨は本降りとなって燃える屋敷に降り注いでいるが、彼が下に戻ってくるまでにはまだ相当な時間がかかるだろう。孫娘を愛してやまないガン族の族長は、とても待っていられない様子だ。だが、シグルズとしても、エマやアンソニー、それに聖タール教会へ逃げ延びた人々の無事は気になるところであった。
彼は重い腰を持ち上げると言った。
「もちろんです、トール殿。さあ、まいりましょう」
***
その頃、聖タール教会では不安げな面持ちで人々が身を寄せ合っていた。
外はひどい嵐だ。まるでバケツをひっくり返したような、目もろくに開けていられないような大雨だ。外から入ってきたサンクレール兵が、びしょ濡れになって悪態をつく。彼は屋敷の様子を見に行こうとしたのだが、生憎の悪天候で、よく訓練された軍馬でさえすっかり怖じ気づいてしまってなかなか前に進めず、諦めて戻ってきたのであった。
「戦の状況は分からんが、この大雨なら火事もこれ以上ひどくなることはないだろう」
これ以上と言ってもなぁ、とアンソニーはため息をついた。彼らが屋敷についた時には、もう手遅れなくらい火が敷地全体に回っていたのだ。この雨をもってしても鎮火にはまだまだ時間がかかるだろうし、炎がすっかり消え去る頃には、屋敷も跡形もなく燃え尽きているかもしれないな、と彼は思った。
「ジョージ様は大丈夫だろうか…」
誰かがぽつりと呟いた。
「大丈夫に決まってる!」
マイケルが立ち上がり、威勢良く反論した。
「司祭様達が助けてくださってるんだ!ガン族も来たって言ってたし、絶対大丈夫だ!」
そうですよね、と同調を求められ、アンソニーは「ああ」と小さく微笑み頷いた。マイケルは鼻息荒く、満足そうに頷くと再び床に腰を下ろした。メアリーが彼の肩を優しく抱き寄せた。
アンソニーは彼のすぐ側で横になり眠っているエマの髪をそっと撫でた。つい先程までの出来事が嘘みたいに穏やかに寝息を立てている。
「その娘…、何者なんだい?」
女の一人が、ぼそっと小さな声で尋ねた。ここにいる人々の誰もがきっと同じことを思っているだろう。
「何者でもない、俺達と同じ、ただの人間だよ」
アンソニーは視線を合わせずに答えた。女は頭を抱え、首を横に振った。
「ただの人間にあんなことができるもんか。おかげで助かったのは間違いないけどね」
でも、恐ろしいよ、そう言いかけて彼女は口をつぐんだ。隣のもう一人の女が肘で彼女をつついたからだ。
人々がそう思うのも無理はないと、アンソニーはため息をついた。自分だってこんなことを経験したのは初めてだ。様子がおかしくなったのは《嘆きの塔》へ行ってからだ。それまでは彼女はいたって普通の、真面目で働き者のただの女の子だった。
メアリーが、隣でうとうと微睡み始めたマイケルの肩を撫でながら口を開いた。
「私はね、神様が起こしてくださった奇跡だと思いますよ」
人々は顔を上げた。メアリーは雷雨の中、薄暗い影を落としている十字架を見上げ、続けた。
「だって、ここは教会ですもの。どんな奇跡が起こったって私は驚きませんよ」
そうね、メアリーの言う通りだわ、と女達は半ば無理矢理に自分自身に納得させるように頷いた。わけの分からないことはいくら考えたって無駄なのだ。なぜなら神様のお考えになることを理解しようなんて、人間には到底不可能だからだ。女達は顔を見合せ、神妙な面持ちで十字を切り、祈りを捧げ始めた。
メアリーはアンソニーのほうを見て、微笑んだ。アンソニーは老婆の気の利いた計らいに感謝し、微笑み返した。
やがて疲れ果てた人々が身を寄せ合い、微睡み始めた頃、外で物音がしてアンソニーは瞼を開いた。
何か言い争っているような声がする。またウィルダネスだろうか。外ではサンクレール兵が交代で見張りをしているはずだ。アンソニーは左手で剣の柄に手をかけると、急いで走り寄り、ほんの少しだけ扉を開いて様子を伺った。
すると、そこに見えたのは山のように屈強な大男と、その向こうには見慣れたプラチナブロンドの髪がびしょ濡れになって稲光に照らされ光っていた。
「シグルズ様!」
アンソニーは勢いよく扉を開けて彼らを出迎えた。よかった、無事だったのだ。安堵に思わず頬が緩む。
「…と、こちらの方は」
ぎろりと鋭い眼光でこちらを見下ろしている男を見て、アンソニーは口をつぐんだ。
「おまえか、司祭の従者というのは」
男はずいっとアンソニーのほうに近寄ってくると、しゃがれた、凄みのある声で尋ねた。
彼が言い淀んでいると、背後からシグルズが顔を出して言った。
「アンソニー、無事で何よりだ。こちらはガン族の族長のトール殿だ。エマは中にいるか?」
合点がいったように頷くと、アンソニーは答えた。
「いますが、彼女は今眠っていますよ」
返事を聞くやいなや、トールはずかずかと中へ入っていった。彼の供をしていた二人のガン族の戦士も後に続いていく。アンソニーは慌てて近くにいたサンクレール家の男達に言付けた。中から悲鳴のようなどよめきが聞こえてくる。
アンソニーはシグルズとケネスに尋ねた。
「お二人がここにいらっしゃるということは、つまり…」
シグルズは頷いた。
「ああ、ヒルド族は撃退した。クローストン卿も捕らえた。ジョージも無事だ」
そうですか、とアンソニーの顔が安堵に緩んだ。
「それより、外の兵士達は一体…」
シグルズが教会の外の様子を見て、アンソニーに尋ねる。何人もの兵士達が気を失ったまま縛られ、それを見張るように数名のサンクレール兵が立っており、少し離れた場所には、既に息絶えているのだろうか、数人の兵士が仰向けに寝かされ、きれいに並べられていた。
アンソニーが答えようとしたが、中から「エマ!!」と叫ぶ声が聞こえて彼らは急いで教会の中に入った。
「エマ、しっかりしろ。どうしてこんなことに…」
見ると、トールが大きな背中を小さく丸めて、眠る孫娘の顔を見下ろしていた。戦場の様子からは想像できないくらい弱々しい声で、老人はそっと彼女の頬を撫でて嘆いた。隣ではメアリーが慰めるようにトールの肩を擦っていた。
「大丈夫ですよ、ちょっと疲れて眠っているだけ。じきに目が覚めますよ」
トールは項垂れて「ああ」と小さく返事をした。びしょ濡れのシグルズ達が中に入ってきて、アンソニーに訳を尋ねた。
「何かあったのか?」
アンソニーが口を開こうとすると、トールが物凄い剣幕で立ち上がり、彼の胸ぐらを掴んだ。
「説明しろ!!なぜエマは目を覚まさない!?」
アンソニーがどう説明したものか言い淀んでいると、騒ぎに目を覚ましたマイケルが、顔を擦りながら、彼らを見て言った。
「戦乙女だよ」
トールは少年を見下ろした。
「エマは戦乙女だったんだ。不思議な力で敵を皆やっつけてしまった。死んだ兵士達の魂も、きっと今頃神様のところに昇っていってると思うよ」
それで力を使い果たしたんだ、すごい戦いだったからね、とマイケルは大欠伸をした。ついでに「僕もね」と付け加えて。
トールはアンソニーを掴む手をゆるゆると離すとマイケルに近寄った。アンソニーはゲホゲホと咳き込み、シグルズが彼の背中を擦った。
トールはマイケルを覗き込むと尋ねた。
「それは本当か?」
マイケルは頷いた。
「嘘なんかつくもんか。皆見たよ。緑色のきれいな光に包まれて、女神様みたいだった」
トールは目を見開いた。アンソニーが言った。
「グリーン・レディがまた現れたのです。彼女にとり憑いていたようでした」
シグルズは目を丸くした。あの時たしかに矢が当たって消えたと思っていたのに、塔から離れたこの場所でまた現れたというのだろうか。
トールは再びずかずかとアンソニーのほうへやって来た。思わずアンソニーは身構えたが、トールは真っ直ぐに彼の黒い瞳を見据えると尋ねた。
「また、とは?」
アンソニーはたじろぎながら答えた。
「《嘆きの塔》へ行ったのです。我々はそこで亡霊と遭遇し、ちょっとした騒ぎになりました」
トールは尊大な態度でゆっくりと頷くと、言葉を選びながら呟くように答えた。
「グリーン・レディは誰かに乗り移ったりなどしない。ましてや、エマを危険な目に合わせたりなど、するわけがない」
そして、息を吸うと、吐き出すように続けた。
「ヘレナは私の母なのだ」
人々がざわめくのと同時に、呻くような声を上げ、エマがゆっくりと目を開いた。




