第32話 相反する者達(5)
その頃、エマとアンソニーは、乳母のメアリーと小姓のマイケルを連れて、サンクレール家の屋敷から逃れ、西へと向かっていた。小舟はかなり揺れ、少々定員オーバーだったが、自分以外は皆軽いから大丈夫だろうとアンソニーは思っていた。
ジョージの指示で、逃げられる人々は聖タール教会に身を寄せることになっていた。この教会は既に廃墟となり、常駐の司祭はいなかったが、雨風をしのぐ程度には使えた。それに、こういう時、神様の存在を身近に感じられる教会というのは、力を持たない人々にとっては何より心強いものなのである。
雨が降りそうだな、とアンソニーは思った。幽霊退治に《嘆きの塔》へ向かったときは美しい月が出ていたものだが、少し前から急激に空は厚い雲で覆われ始め、冷たい風が吹いてきていた。遠くのほうが一瞬ピカッと光り、遅れて雷鳴が響き渡る。
「寒くないか?」
アンソニーが、屋敷のほうを見たまま、じっと固まって動かない三人に声を掛けた。大丈夫よ、とエマがこちらに顔を向け、小さな声で返事をすると、また彼女は遠ざかる屋敷に目を向けた。
心配なのだろう。中にはシグルズとケネス、ジョージ、それに彼女の祖父がいる。かなり屈強そうな戦士ではあったが、あのような大火事では不安にならないわけがない。
あれから消火が進むどころか、屋敷から離れれば離れるほど火の勢いは増し、今や海岸線全てが赤く染まって揺れているように見えた。燃え盛る炎が、まるで地獄からの使者のように両手を広げて、建物と、そこにいる人々全てを丸ごと飲み込んで沈めてしまうのではと、エマは恐ろしくてたまらなかったのだ。
「大丈夫、俺達の主人を信じよう」
アンソニーが強い口調でそう言うので、エマは頷き、わずかに微笑んだ。初老の乳母は、マイケルのまだ細く小さな体をぎゅっと抱き締めたまま、震えているように見えた。
ようやく聖タール教会が見えてきて、アンソニーは海岸に小舟をとめると、メアリーやマイケル、それにエマを順番に下ろしてやった。
既に岸辺には数隻の船が係留されていて、多くの人々は上手く逃げ伸びたようであった。十人くらいは乗れそうな中型の船が二、三艘あり、アンソニー達の乗ってきた小舟は中でも一番小さく粗末なものであった。
「メアリー!」「マイケル!」
教会に入るなり、中にいた人々が飛び上がってこちらにやって来た。口々に「よかったわ!」「心配してたのよ!」と女達が安堵の声を漏らし、騒ぎ立てる。彼女達の背後では、戦いに参加しなかった年寄りや、彼らに付き添って船を操縦してきた男達が、それぞれ床に座り込んだり、壁にもたれて立ったりして、そのちょっとした騒ぎを見つめていた。
「あら、こちらの方々は」
女の一人がエマとアンソニーに気がついた。二人は外で、人々が出入り口を塞いで騒いでいるのを見ていたのだ。
「ハラルドソン司祭のお付きの方よ。ここまで私達を連れてきてくださったの。アンナは…駄目だったわ」
そう言ってメアリーが首を横に振ると、女達は一斉に顔を曇らせて、うつむき、徐々に肩を震わせて、目元を手で覆ったり、しゃくり上げたりした。一体何人の罪もない仲間達が命を落としたことだろう。
そのうちに一人が顔を上げ、皆に中に入るように促した。そして、外の二人と目を合わせ、
「お二人とも、ここまで本当にありがとうございました。お帰りになったらこの有り様で、さぞかし驚かれたことでしょう。どうぞ、中へ」
と、深々とお辞儀をすると、二人を中へ迎え入れた。
「暗いですが、灯りをつけると敵に見つかります。しばらくは辛抱なさってください」
エマは落ち着かない様子で、腕を擦りながら内部を見渡した。
中は聖堂しかない質素な建物だった。ティンカーにいたときに過ごしていた、聖ファーガス教会より更にひどい有り様で、長椅子はなく、あるのは祭壇と十字架だけ。古い時代に造られ、戦争があり、放棄されたまま今に至っているようだった。
壁を見ると、冷たい灰色の積み石の表面が、まるで何かを塗りたくったように、一部こっくりと黒く変色していた。エマは目を逸らした。あれが、噂に聞いていた血の跡だろうか。暗闇ではっきりとよく見えないのが幸いだ。
「ところで、司祭様はどちらに?」
エマとアンソニーは顔を見合わせた。
「お二人は屋敷の中です」
アンソニーが答えた。なんですって?と女達は声を上げ、ざわめいた。
「ジョージ様の救出に向かったのです。ガン族の援軍も来ています」
人々は、わっと声を上げた。
「ああ、なんとお礼を申し上げたら良いのでしょう。クローストン卿がジョージ様をよく思っていないのは気付いておりましたが、まさかこんな恐ろしいことをしでかすとは誰も予想できなかったのです」
彼女の背後にいた女達も口々に同調した。
「ええ、そうです!クローストン卿は平民の味方だと思っていたのに、私達、裏切られたのです!」
「まさか、ヒルド族を連れてくるなんて!」
「結局、あの男も戦争好きの貴族達と変わらなかったのよ」
人々は好き勝手に、むせび泣いたり、怒ったり、叫んだりした。
人間というのは勝手なものだな、とアンソニーは苦笑した。今まで信じていたものが違うと分かった途端、手のひらを返すように攻撃し出すのだから。
だが、それも仕方がないことだ。クローストン卿の暴挙は誰にとっても許されることではない。反乱を成功させるようなことなど、あってはならないのだ。
マイケルは口を一文字にして、女達が騒ぐのを聞いていたが、やがて意を決したように立ち上がると言った。
「ジョージ様はずっと前からクローストン卿の陰謀に気がついていました。ガン族に援軍を頼み、僕達を逃がしてくださったのです。サンクレール家の真の主人はクローストン卿ではなく、ジョージ様です。僕はこれからもあの方にお仕えしたい!」
人々はしんと静まり返った。小姓であるマイケルの、子供であるがゆえに、素直で、真っ直ぐな言葉が胸に突き刺さるようであった。
やがて、静寂を破るように、座り込んでいた老人の一人がぽつりぽつりと話し出した。
「もう何十年前になるか…。わしがまだほんの小さな子供だった頃、ここでガン族とヒルド族の争いがあった」
エマは振り返り、彼を見つめた。老人はどこを見るでもなく、ぼんやりと足元に視線を落とし、ただの独り言のように言葉を続けた。
「長い戦争の最中、もうやめにしようと、それぞれ五人の騎士を出し合い、ここで話し合いをすることになった。だが、ガン族が先に五人の騎士を送り、聖堂で祈りを捧げていると、ヒルド族は約束を破り、十人の騎士を連れてきた。聖堂に入ってきたヒルド族は、不意討ちでガン族の騎士を皆殺しにし、話し合いは決裂した」
老人の声が静かな聖堂に響いた。
「そして今、再び、我々の美しい屋敷で両族は殺し合っている。決して許されぬことじゃ。サンクレール家は野蛮な一族を野放しにしてはならぬ」
外で物音がして、アンソニーはわずかに扉を開け、外を伺った。
前方に小さな明かりが見えてきた。ぽつぽつと、ほんのわずかな光だが、こちらに近寄ってくるように見えた。アンソニーが、声を上げた。
「誰か来る!」
人々は震え、抱き合った。エマはアンソニーの横に駆け寄った。小さな灯りの数々が、物凄い勢いで近付いてくる。
「くそっ…!ウィルダネスだ!」
ウィルダネス?なぜ?と人々がざわめく。冷や汗が額を伝う。地響きのように、どかどかと馬の群れが駆ける音がする。
「見られていたんだ」
アンソニーはぎりぎりと唇を噛んだ。
「どうしたらいいの?」
エマはすがるような目でアンソニーを見た。アンソニーは扉をしっかりと閉め、背中をつけて息をついた。
迂闊だった。指揮官を討ったことで気が緩んでいたのだ。連中は密かにこちらの動きを監視していたのだろう。狙いはエマだ。だが、もちろん渡すつもりはないし、ここで敵が来るのを待って全員で死ぬつもりもない。
アンソニーは心を決めると、エマに向き合った。彼女の細い両肩をしっかりと掴み、はっきりとした口調で言い放った。
「俺が囮になる。おまえはここにいる人達と一緒に扉を守れ。いいと言うまで絶対に開けるなよ」
エマの心臓がどくんと高鳴った。嫌な予感がして彼女は首を横に振った。
「嫌よ!なぜあなたが囮になるの!?向こうは馬に乗っているのよ、危険だわ!」
「大丈夫だ!」
アンソニーはエマの肩を強く揺さぶり、声を荒げた。
「数はだいぶ減っていた。なんとかなる。こうするしかないんだ」
エマはアンソニーの目を見つめた。彼は本気だ。エマは言葉が出なかった。伸ばしかけた手が宙を掴む。
アンソニーは彼女が制止しようとするのも聞かず、扉の外に飛び出した。人々は呆気にとられた様子で、男が一人、暗闇の中に消えていくのを見送った。




