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《狭間の国》のエマ ~捨て駒令嬢と蛇の神父様  作者: 夜中メグ
第一章

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第29話 相反する者達(2)

 シグルズらは《嘆きの塔》から東の方角へ馬を走らせていた。途中までは、もしかしたら自分達の見間違いであってほしいと淡い期待を抱いていたが、サンクレール邸に近付けば近付くほど、確信せざるを得なかった。今や、かの屋敷は恐ろしいほどの噴煙を上げ、地獄のように燃え上がっていた。

 不意に、背後から自分達のものではない馬の蹄の音が聞こえ、エマは振り返った。物凄い速さで追ってくる者達がいる。馬の駆ける音が幾重にも重なって追い上げてくる。


「シグルズ様…!」


 エマは叫んだ。ウィルダネス家の兵士達であった。

 連中はどんどん迫ってくる。大きな軍馬だ。逃げ切れるかどうか分からない。


「もっとスピードを上げろ!もっと!」


 シグルズは声を張り上げた。エマは腰を上げて(あぶみ)に立ち上がり、無我夢中で馬を走らせた。ケネスも、アンソニーも、額から汗を流しながら唇を噛み、ただただありったけの力で馬を走らせていた。


「逃がすか!!」


 先頭を切って猛追してくる男が、怒声を上げている。ブレンドンだ。両脇を固めている兵士が弓を構えているのが見える。


「振り向くな!」


 シグルズが怒鳴るや否や、顔のすぐ横を矢が飛んでいった。背筋がぞっとし、恐ろしさに手が震える。背後で、外したか、下手くそめ!と悪態をつく声が聞こえる。


「大丈夫だ、私がついている」


 シグルズはエマに並走し、励ますように声をかけた。エマは頷き、手綱をぎゅっと握り直した。


「教えてやろう、弓はこう使うのだ」


 シグルズは急旋回すると、弓矢を構え、力強く弦を引き、離した。矢は回転しながら真っ直ぐに飛び、ウィルダネス兵の軍馬に、一つ、また一つと命中した。前足を高く掲げて馬は暴れ、体勢を崩した軍勢は遅れをとった。


「さすが、シグルズ様!弓の名手!」


 アンソニーが得意気に拳を上げた。


「今のうちに、急ぎましょう!」


 ケネスが言った。エマは頷いた。そうだ、震えている場合ではない。恐怖心は馬に伝わる。とにかく今は走らなければ。


「その調子だ」


 追いついてきたシグルズが、わずかに微笑み、頷いた。


 やがて真っ赤に染まる屋敷が目前に迫り、いよいよ現実が突き付けられる時が来た。

 恐ろしいほどの炎だ。ここまで大きな火災は見たことがない。熱風が吹き付ける度に火の粉が舞い、肌をじりじりと焼き焦がす。屋敷の縁からこぼれるように人々が逃げ惑い、容赦ない殺戮が繰り広げられている。

 エマは声にならない声を上げた。口は開くのに、言葉が出ないのだ。なんということだろう。

 だが、ブレンドンらウィルダネス兵も、もうすぐそこまで接近してきている。逃げ場はない。

 シグルズはぎりぎりと歯を軋ませ、屋敷を睨み付けた。彼の横につけたアンソニーは、何かを見つけ、声を上げた。小さな灯りの数々が、物凄い勢いで近付いてくるのだ。


「シグルズ様、あれを…!」


 地響きのように、どかどかと馬の群れが駆ける音がする。凄まじい軍馬の群れだ。軍旗がひらめいている。エマは目を見開いた。その紋章には見覚えがあった。ヒルド族でも、サンクレール家でもない、フォース砦からティンカーへ向かう途中で見た、あの要塞に掲げられていた紋章だ。

 先頭を走る、大男の老人と目が合った。エマは圧倒され、幻でも見ているような気分だった。

 エマはやっとのことで口を開いた。


「おじいさま!」


 その時、男の目がカッと見開かれ、弓を引き、矢が放たれた。一瞬のことだった。


「危ない!」


 咄嗟にシグルズがエマの体を抱え、馬から転がり落ちる。


「シグルズ様!」


 アンソニーが叫んだ。矢はエマの横すれすれを通り抜け、背後にいたウィルダネスの男の肩に突き刺さった。


「ブレンドン様!」


 まさにブレンドンは弓矢を構え、エマを射抜かんとしていたところであった。ブレンドンは落馬し、側近の男達が駆け寄った。ウィルダネス兵は追跡をやめた。


「私はいい!女を逃すな…!」


 苦しみながら、悔しげにブレンドンは訴えた。その様子を確認した男の軍勢は、そのまま屋敷に突入していった。

 転がり落ちるように、シグルズはエマを巻き込みながら、海岸の急な斜面を下っていった。何とか途中で踏み止まり、シグルズは息をついた。胸の上でエマがぐったりとしている。


「エマ!大丈夫か」


 エマは呻きながらゆるゆると顔を上げた。シグルズはホッとして表情を緩ませた。


「お二人とも、大丈夫ですか!?今まいります!」


 アンソニーが駆け付け、膝を曲げて、斜面を滑り降りるようにしながらこちらへ向かってくる。エマは身体中がじんじん痛むのを押さえながら、シグルズに尋ねた。


「どういうことなのですか?何故、おじいさまが…、ガン族の軍がここに来ているのですか!?」


シグルズはエマの肩を掴んで答えた。


「クローストン卿の反乱を予感したジョージが、ガン族に援軍を要請していたのだ」


「何故、ガン族に?ヒルド族の敵だからですか?」


「それもそうだが…、あなたがいたからだ」


 エマは驚いて目を丸くした。意味がよく分からない。つまり、祖父は自分がここにいることを知って、他人同士のいざこざにわざわざ軍を出したとでも言うのだろうか。


「シグルズ様、あれを!」


 エマが思いあぐねていると、アンソニーが屋敷の背後を指差した。サンクレール家は、荒々しい海に切り立つ岬の上に建っている。陸地のほうはぐるりと幕壁に囲まれているが、屋敷の裏手は海なのだ。


「メアリーだわ!」


 エマは声を上げた。崖のような岬の中央付近に、まるで巨人がそこだけ手で掘ったような深い窪みがある。岩がごろごろ散在する波打ち際には小さな小舟があり、その小舟のすぐ横で、老女と子供が数人の男達に囲まれていた。子供は懸命に老女を守ろうとしているが、力の強い男達に対してなす術もない。


「ヒルド族だな」


 シグルズは背中の矢筒から矢を一本取り出すと、素早く男達に向けて放った。一本は男の肩に命中し、もう一本は腕の肉を切り裂いた。躊躇なく放たれた矢が次々正確に男達の身体を射抜き、連中は散り散りに逃げていった。

 敵が退散するのを確認すると、シグルズは弓を抱え、さらに斜面を滑り降り、ごつごつとした岩場を軽快に駆け抜けて老女のもとへ向かった。いつの間に下りてきていたのか、その後をケネスが落ち着いた足取りで、けれども早足でついて行く。


「お怪我は?」


 シグルズが急いで駆け寄ると、メアリーと小姓は抱き合い、がたがたと震える体を庇いながら、力なく答えた。


「私達は大丈夫です。でも、彼女が…」


 シグルズは老女の小さく丸い背中を支えた。彼女の背後に目をやると、一人の侍女らしき女が血を流して仰向けに倒れていた。


「メアリー!」


 エマもアンソニーの腕を借りながら斜面を下り、走ってこちらにやって来た。エマは倒れている女を見て、口を押さえた。石鹸をくれた、あの侍女だった。


「どうしてこんなことに…」


 メアリーは俯き、涙を流した。シグルズはむせび泣く老女の背中をさすって慰めた。城は赤く、あらゆる窓から炎と煙が吹き出しているように見えた。

 ジョージはまだ中にいるのだろうか。人々は逃げおおせたのだろうか。シグルズはできるだけ落ち着いた口調でメアリーに話しかけた。


「ジョージ様はまだ中に?」


 メアリーは静かに頷いた。


「ええ、いらっしゃいます」


彼女は、小姓を抱き寄せながら、


「クローストン卿と戦うおつもりなのです。わたくしも最後までお供したいと申し上げたのですが、この子を連れて逃げるようにとおっしゃって…」


と、答えた。小姓も言った。


「ジョージ様はクローストン卿の策略に随分前から気がついておいででした」


そして、メアリーの服をぎゅっと掴むと声を荒げた。


「クローストン卿はひどいです!今まで一緒に働いてきた仲間達を、こんなふうに殺したりして!僕も戦いたい!ジョージ様は一人であいつに立ち向かう気なんだ!」


 唇を噛かんで、必死に涙をこらえる少年をなだめながら、シグルズは二人を避難させるべく、エマに彼らを託した。アンソニーが既に小舟の状態を確認し、水面に浮かべ、片足と(かい)で動かないように固定しながら、まずは老女の手を取った。


「お気をつけて」


 メアリーが乗り、次いで小姓が乗り込んだ。


「エマはお二人について差し上げろ」


 分かりました、と返事をして、後ろ髪を引かれながらも、エマはアンソニーの手を取り、乗り込んだ。シグルズは空になった矢筒と弓をアンソニーに投げ渡し、ケネスと何やら二言三言交わしてこちらを向いた。


「私達は中へ行く」


 エマは息を呑んだ。シグルズの背後でケネスが肩をすくめている。


「大丈夫、サンクレール家の当主は一人ではない。ガン族の援軍が入った」


小姓はパッと顔を輝かせた。


「では、勝てますよね!」


 当然だ、とシグルズは励ますように頷き、アンソニーに出るよう促した。アンソニーは岸を蹴り、ゆっくりと小舟は動き出す。頼んだぞ、というシグルズの声が聞こえる。

 エマは何も言えなかった。こんな大惨事の中、戦火に飛び込んでいくなど普通は考えられない。でも、中には祖父がいる。それに、ジョージも。ただ巻き込まれただけのシグルズに、彼らの命を助けてほしいと願うなんて卑怯だ。

 シグルズは外套を脱ぎ、海水をざぶんと頭からかぶって、口を布で覆いながら屋敷の中へ消えていった。ケネスも仕方なくといった様子で、同じように彼についていく。


「シグルズ様達を信じよう」


 アンソニーが強い口調で言い、エマは老女と少年を守るように抱き締めながら頷いた。不安しかない。しかし、今はこの二人を守ることを一番に考えなくてはならない。

 ちらちらと赤い火の粉が飛び交う中、小舟は再び西へ向かった。

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