第26話 嘆きの塔(9)
バタバタと慌ただしく階段を駆け下りていく。ウィルダネス家の軍は、松明の数からしてさほど多くはなさそうだった。サザーランド家と交渉の最中である手前、一族を上げて大っぴらに進軍してくるわけにはいかなかったのだろう。少数の部隊を編成してやって来たようだった。
だが、それでも、正面からまともに出くわしてしまっては勝ち目がないのは明らかだ。どうにかして、彼らがここに到着する前に外へ出なければならない。火の手が上がるサンクレール家の状況も気掛かりだ。早く戻らなくては。
はやる気持ちを抑え、来た道を戻っていく。エマは初めて閉ざされていたヘレナの部屋の肖像画を見て愕然とし、ジョージのことを思い出した。彼が見たのはこの絵だったのだ。エマは胸が苦しくなった。
ーーージョージ様、どうかご無事で!
無惨に壊れた執務机を避けながら、シグルズが破壊した壁を抜け、隣の部屋へ移ると、五人の兵士達がまだ縛られたままになっていた。
エマは彼らを見つけ、足を止めた。ケネスとアンソニーはさっさと先に行ってしまった。シグルズも部屋から半分ほど外に出たところだったが、彼女が立ち止まっていることに気付き、振り返った。
「エマ、来い!」
エマはためらった。このままこの兵士達をここに置いていったら、突入してきたウィルダネス兵に殺されてしまうかもしれない。兵士の男は、すっかり生を諦めたように、どろんとした眼差しで、ゆるりと顔を上げた。
「シグルズ様、この人達が…!」
シグルズは首を横に振った。
「放っておけ、この者達は失敗した。戻ったところで、どうせろくな目に合わん」
そう言って、エマの腕を引こうとしたが、彼女はそれを拒んだ。
「でも、命は助かるかもしれません。このまま縛られていたら、死んでしまうわ」
お願いしますと、少しの迷いもなく、真っ直ぐに見つめてくる彼女の目を見て、シグルズは頭を抱えた。
「ああ、まったく!」
そして、転がっていた兵士の剣を拾うと、半ばやけくそになって彼らを拘束していた縄を切った。
「どうだ、おまえ達が幽霊だと恐れていた女は!美しいだろう!彼女に感謝するのだな」
兵士達は鬱血して痛む腕をさすりながら答えた。
「ええ、本当に」
シグルズはエマの手を取り、走った。大急ぎで四階へ駆け下りると、アンソニーがこちらを見上げて待っていた。
「シグルズ様、間もなくウィルダネスの連中がやって来ます!」
シグルズは手っ取り早く一番近い部屋、厨房に入ると、窓から階下を見下ろした。屋上で確認したときは点々としか見えなかった松明の灯りが今や間近に迫り、いよいよこの塔の扉を突き破らんとしていた。
「くそっ、随分張り切って来たものだな」
シグルズは悪態をついた。このまま急いで階下に下りても、間違いなく入口で鉢合わせしてしまう。
「兵の数は…、せいぜい四十か五十…。私兵だな」
軍の規模を確認すると、シグルズはちらりと横に目をやった。ここは厨房だ。釜戸があれば、換気のための大きな窓もある。ケネスと目が合った。彼は頷いた。
「その下は二階建ての別棟です。厩舎もすぐ横に」
シグルズは頷いた。これしか方法がない。
「連中が入ってくるのと同時に飛び降りるぞ」
「この高さからですか!?」
冗談でしょう、とアンソニーが額に手を当てた。
「間違えて地面に着地しないよう、気をつけろ」
ケネスが外を確認する。
「間もなく突入です!」
シグルズはエマを連れて窓枠に飛び乗った。背後では、やるしかないか、という、ほとんどやけくそのアンソニーの声が聞こえる。
「これを飛ぶのですか」
シグルズとともに窓枠に足をかけたエマは躊躇した。足元には木でできた別棟の三角屋根がある。そこまでは一階分ちょっとの差しかないとはいえ、ここは四階だ。上から見るとなかなかの高さで、頬にあたる冷たい風が、より一層恐怖感を煽るようだった。
「そうだ、塔のてっぺんよりマシだろう」
シグルズはかすかに笑いながらそう言って、エマを抱き抱えた。
「落ちたくなければしっかりつかまれ」
有無を言わさぬ物言いに、エマはシグルズの首に必死になってしがみついた。汗と混じって香の匂いが鼻につく。だが、何か他のことを考える間もなくシグルズは窓から飛び降りた。
足元は斜面になっていて、さすがに人一人を抱きかかえたまま上手く着地することはできず、しかも運の悪いことに、長いこと放置されていた木製の屋根はすっかり腐っていて、そのまま突き破るように二人は屋根を破壊し小屋の中へ落ちていった。
「ああ、なんてこと…。シグルズ様、大丈夫ですか」
エマはあちこち痛む体をよろよろと起こし、シグルズを見た。幸い、下はケネスとアンソニーが探索していた、藁のマットレスと山盛りのリネンであった。彼女の下敷きになっていたシグルズは、ため息をつきながら笑った。
「…この私を押し倒すとは、あなたもなかなか大胆な女性だ」
「そういうつもりでは…!」
エマは顔を真っ赤にしてシグルズをなじった。すると、横で別のうめき声が聞こえ、二人は顔を上げた。
「…あれ、あの女と、司祭じゃないか?」
先に捕らえられ、眠り薬を飲まされていた三人の兵士達であった。今の衝撃で目を覚ましたのだ。
「くそ、こんなところでイチャつきやがって…!」
状況をまるで飲み込めていない兵士達は、まだ命令に忠実に二人を捕らえようともがき出す。だが、動きたくとも、きつく縛られていて身動きがとれない。足をジタバタとさせ、悶えている。
そこへ、ケネスとアンソニーが塔から屋根に飛び降りてきた。二人は軽い身のこなしで屋根に開いた穴から部屋の中へ降りてきて、倒れているシグルズと彼に馬乗りになっているエマを見た。
「…お邪魔でしたか?」
冷たい目でケネスが見下ろす。シグルズは肩をすくめた。
アンソニーがぎろりと睨んだので、兵士達は押し黙り、大人しくなった。
「お二人とも大丈夫ですか?さあ、急ぎましょう」
アンソニーは二人に手を貸し、一同は厩舎へ走った。




