第25話 嘆きの塔(8)
崩れ落ちた壁を潜り抜けると、そこはもう一つの部屋であった。
美しく優美な曲線を描く調度品の数々が、そこが夫人用の寝室であったことを物語っていた。
殺伐とした主人の部屋と比べると、まるで、ほんの少し前まで誰かが使っていたように傷みがなく、きれいに整えられたままの布団や、きちんとしたチェスト、こぢんまりと可愛らしい書き物机や、ビロードのクッションが置かれた肘掛け椅子など、往時の暮らしぶりが分かるような美しい部屋だった。
正面の鏡台に自分の姿が映っているのを見て、シグルズは目をとめた。自分の顔の横に、崩れた壁と、別の女の姿が見える。シグルズは振り返った。壁に貴婦人の肖像画が掛けられていたのだ。
「これは…!」
彼は目を見開いた。白い肌に、大きな緑色の瞳、小さな鼻、赤い唇。ゆったりとたゆたう髪は茶色かったが、柔らかく、どこか物悲しげに微笑むその顔はエマと瓜二つだった。肖像画の隅には、ヘレナ・ヒルドと書かれていた。
シグルズは息を呑み、後ずさった。肖像画の女が、エマにそっくりな顔で彼を見下ろしているように見えた。アーモンド型の美しい瞳が、まるで彼に助けを請うているようだった。
シグルズは急いで部屋を飛び出した。扉は開け放たれたままだった。廊下の片方は壁で閉ざされていたが、もう片方は奥に続き、濃い闇の中に階段が見えた。その先から歌声が聞こえる。徐々に遠ざかっていく。考えている暇はない。
シグルズは走り、階段を駆け上がった。
入れ違いになるようにして、部屋の中にケネスとアンソニーがやって来た。二人は同様に、美しい夫人用の寝室を見渡して、扉が開いているのを見て、主人が屋上へ向かったのだと悟った。
ケネスが急いでそちらに向かおうとすると、アンソニーは立ち止まり、拳をぐっと握り締めて言った。
「ケネス様、さっきのシグルズ様のご様子…」
ケネスは振り向き、一瞬視線を壁に移すと頷いた。
「ええ、私にも見えました」
はっきりと、アンソニーの顔を見て、
「尋常ではない」
と、答えた。アンソニーは俯いた。握った拳に力が入る。
「もともと秘めたる力なのか…、それとも、あれが加速しているとでもいうのか…」
ケネスは首を横に振った。
「分かりません。ですが、今はそれどころではない。ご覧なさい」
ケネスは壁を指差した。アンソニーがちらりと目をやると、そこにはあの女の肖像画があった。アンソニーはのけ反り、目を見開いた。
「エマ!?」
ケネスは肩をすくめ、息をついた。
「彼女がこの女と何の関係があるのかは分かりません。ですが、彼女はいなくなり、シグルズ様は追った。私達も急ぎましょう」
アンソニーは頷き、二人は部屋を飛び出した。嫌な予感がしていた。謎めいた女の歌声、エマに瓜二つの肖像画、そして兵士の言う、呪い。
わずかに聴こえていた歌声がぴたりと止んだ。どうか間に合ってほしい、そう祈りながら塔の屋上に飛び出した。
「シグルズ様…!エマ…!!」
今にも駆け出さんとするシグルズの向こう側に、胸壁の上に立つエマの姿がある。幻だろうか、ぼんやりとした妖しげな緑の光が彼女を包んでいる。そして彼女の真上には、まるで誘うようにうごめく、光のベールに包まれた緑色の女性が見えた。彼女とよく似た顔付きの、肖像画の女だ。エマの目はうつろで、エメラルド色に光り、自分達の姿は映していないようだ。
「駄目だ!!」
「シグルズ様…!!」
シグルズが咄嗟に手を伸ばすのと、アンソニーらが駆け寄るのと、ほぼ同時だった。
シグルズは、自分が何をしたのか、その瞬間は何も考えていなかった。ただ塔の縁からこぼれるように落ちていく彼女を追いかけるように、自らも飛び込んだだけだった。
彼女の体を片手で受け止め、もう片方の手でかろうじて縁石を掴む。落下の衝撃でエマはずり落ちたが、何とかその細い手首をつなぎ止め、今や二人は塔の縁で空中にぶら下がっていた。シグルズの片手ひとつに、二人の重みが全てのしかかっていた。
「シグルズ様!」
我に返ったエマが自分の置かれた状況に気付き、叫んだ。シグルズは苦悶の表情で必死に塔の縁にしがみついている。エマは下を見た。くらくらするような高さだ。こんなところから落ちたら、二人とも間違いなく命はないだろう。
「シグルズ様、いけません、手を離してください!」
エマがそう訴えるが、シグルズは歯を噛みしめながら堪えている。絶対に離すつもりはないようだ。エマはごくりと唾を飲み込んだ。
ドタドタと音がして、胸壁の向こうからアンソニーが顔を出した。
「シグルズ様!!」
アンソニーは胸壁の上に飛び乗ると、シグルズの腕を急いで掴み、渾身の力をこめて引き上げた。主人の大きな体が半分ほど持ち上がったところで、エマが細い手を伸ばし、何とか縁石にしがみついたので、ケネスが彼女の体を引っ張り上げた。
「大丈夫ですか」
三人とも、床に這いつくばり、息も絶え絶えだった。エマは胸を押さえながら、シグルズに駆け寄った。足のつく感触に一気に安堵する。
「シグルズ様、大丈夫ですか!?」
うつ伏せに倒れていた彼を仰向けに抱き起こす。シグルズは力を使い果たし苦しそうだったが、何とか二人とも助かったようだ。彼の左手からは血が滲んでいた。
「シグルズ様、お手が…!」
そう言って自身のスカーフを外し、シグルズの手に巻き付けようとしたが、彼女の手を彼の大きな手がぱっと掴んだ。
「…無事でよかった」
崩れるように、深いため息をつく。絶対に落とすまいと、あまりに力を込めて握りしめていたので、彼女の白く細い手首にはくっきりと赤い跡が残っていたが、そこにいるのが紛れもなくエマ本人であることを確認し、シグルズは力が抜けるようだった。
「なんだって、こんなことに…」
アンソニーは呼吸を整えながらため息をついた。エマは目を泳がせながら、首を横に振った。
「ごめんなさい、よく分からないの。気がついたらここにいて…」
シグルズが体を起こし、何か言いかけたが、ケネスの声にかき消されてしまった。
「シグルズ様、あれを…!」
ケネスが外を指差した。この《嘆きの塔》よりずっと東のほうが、やけに明るく光っているように見える。夜明けにはまだずいぶん早い。それに、煙も上がっているようだ。
「あの方角は…、サンクレール家の屋敷では…!?」
一同は目を見開いた。よろよろとまだおぼつかない足でシグルズは立ち上がる。エマは慌てて彼を支えた。シグルズは痛む左腕を庇いながら、悔しそうに唇を噛んだ。
「そうか、真の狙いはあちらだったのだな」
ケネスとアンソニーは主人のほうに振り返った。
「シグルズ様、ヒルド族はここにはいません。恐らく連中は…」
ああ、とシグルズは頷いた。
「どうやら我々が幽霊退治にかまけている間に、クローストン卿は事を起こすことにしたらしい」
忌々しい男め。シグルズは歯を軋ませ、厳しい表情で火の上がるサンクレール家を睨み付けた。瞳がまた青く、渦を巻いて光り出す。アンソニーが何か言おうとして、今度はエマが遮った。
「何か来ます!」
胸壁から身を乗り出すようにして、エマが声を上げた。急いでそちらに向かうと、この塔に向かって点々とした光が列をなしていた。
シグルズは目を凝らした。軍だ。騎乗した兵士達が物凄い速さでこちらに向かっている。
「しまった、ウィルダネスだ!」
シグルズは言った。エマは驚いた。
「クローストン卿が手を回していたのだ。急がなければ。奴らが来る前に脱出するぞ!」
一同は急いで階段を駆け下りた。




