第15話 それぞれの思惑(3)
年老いたメイドの女はジョージの乳母で、名をメアリーといった。彼女はジョージが生まれるよりずっと前からこの屋敷で働いており、彼の母が輿入れしてきたときも、初めて子を身籠ったときも、いつもメアリーは寄り添い、見守ってきた。この館の中では、一番古参の使用人だった。
「私のせいで申し訳ありません」
と、メアリーは謝った。
エマは彼女の私室で蹴られた肩を手当てされていた。小さな寝台に腰掛け、上衣を脱ぎ、シュミーズの肩を下ろして、冷たい水を絞った布を当てて冷やす。じーんと染みてくるが、内出血には冷やすのが一番だ。腫れて痛みが悪化しては、これからの予定に支障が出てしまう。
「いいえ、私こそ、でしゃばってすみません」
エマは俯いて謝罪した。メアリーは首を横に振った。
「ジョージ様をお嫌いにならないでくださいね」
メアリーはため息をつくと、呟いた。エマが顔を上げると、年老いた乳母は皺の深い目尻を一層深めながら悲しげに微笑んだ。
メアリーは最近のジョージの素行を心配していたのだ。赤ん坊の頃から彼を育て、見守ってきた彼女は、両親を失ってからの彼の姿にずっと心を痛めていた。
「幼い頃は、本当に素直で、わんぱくで、甘えん坊の、可愛い坊っちゃんだったのです。いつもお姉様方の後をついて回って、それはそれは可愛がられて、目に入れても痛くないというような有り様で」
エマは微笑んだ。
「ですが、五年前、お父上が亡くなられて、後を追うようにお母上もいなくなって…。それから、何もかも変わってしまったのですわ」
メアリーはぽつぽつと吐き出すように話した。母の葬儀での、一人ぼっちになってしまったジョージの姿。クローストン卿のこと。サンクレール家のこと。徐々に荒み、剥き出しの刺のようになってしまった彼の心がメアリーは心配で、たまらなく辛かった。
「このところ、お二人の溝はますます深まっているように感じます。ジョージ様も、近頃は私のことをすっかり避けるようになってしまいました。このままでは、この家は必ず駄目になってしまいます」
メアリーは真っ直ぐにエマの目を見ると言った。
「私は藁にもすがる思いで、フォートヒルの遠いサンクレール家の分家に手紙を書きました。ですが、それがジョージ様のお気に障ったようです」
メアリーは肩を落とした。エマは小さくなった老女の丸い背中を優しく擦った。
どことなく、この古参の乳母は、エマの故郷のマーサを思い出させた。彼女のことを思うと、エマの胸はぎゅっと締め付けられて苦しくなる。何があっても、いつも味方をしてくれた、母のような優しいマーサ。彼女が自分にしてくれたことは、あの時は当たり前で何も感じることはなかったが、今こうして離れてみるとよく分かる。彼女の存在が、自分にとっていかに大切で大きかったかということに。
「嫌いになんかなれませんわ」
エマは寄り添うように答えた。
「あの方はたしかに気難しいけれど、悪い人には見えませんもの」
エマにとってジョージは、畏怖の対象というより、独りぼっちで寂しくて、一生懸命虚勢を張っている十五歳の少年だった。強く見せようとするのは、本当は自分が弱いと分かっているから。二人きりの時に気を許してしまうのは、それだけいつも心がピンと張り詰めているからだ。
エマにとって、本当に底知れぬ恐ろしさを感じるのは、むしろクローストン卿だ。彼は表では上手く領地を治め、当主たるジョージを立てているように見えるが、実際のところは、いつでも崖の上から突き落とす用意ができているように思える。この古参の乳母が、心配のあまり分不相応なことをしてしまった気持ちも分かる。
「お嬢様も、私のせいでご主人様に叱られてしまいましたね」
メアリーは、思わず滲んだ涙を指先で拭いながら、エマに優しく声をかけた。エマは、自分はお嬢様じゃないと言いかけた。だが、ハラルドソン家のような高貴な方にお仕えしているのだから、彼女も身分の高いご令嬢なのだろう、とメアリーは思っていた。
エマはたしかに落ち込んでいた。シグルズに、あんなに冷たい目を向けられたのは初めてだったからだ。しょんぼりと肩を落としたエマに、メアリーは言った。
「大丈夫、ご主人様は怒ってなんかいませんよ」
メアリーはエマの背中をぽんぽんと叩いた。
「それに、あんなにはっきりと物申すことができるあなたはとても眩しいわ」
そこへ、扉をノックする音が聞こえた。二人は顔を上げた。メアリーはエマのほうを向いて、にっこり微笑んだ。
「ほらね、言ったでしょう」
そして、彼女はエマの肩にショールを掛けると返事をし、扉を開けた。そこにはシグルズが立っていた。彼は少し戸惑ったような顔をして、寝台に腰掛けるエマに目をやった。
メアリーは一礼して席を外した。
「…具合はどうだ、蹴られたと聞いたが」
寝台の横の椅子に腰を下ろし、シグルズはぶっきらぼうに尋ねた。エマはたじろいだ。彼の目はもうあの時のように冷たくは感じなかったが、それでもいつもの調子とは違って見えたからだ。かろうじて、彼女は、
「大丈夫です、大袈裟です」
とだけ答えた。シグルズは小さな声で、そうか、と言い、二人の間には沈黙が流れた。
「祈祷は来なくてもいい」
しんとした部屋の中、吐き出すようにシグルズは言った。エマはバッと彼のほうを見ると、今にも泣き出しそうな顔で反論した。
「行かせてください。私では何のお役にも立てないかもしれませんが」
エマのスカートを握る手が震えた。
「もう勝手な真似はしません。お願いします」
そう言って、彼女は頭を下げた。シグルズは目を逸らすと、がしがしと頭を掻いた。そして、ふうと長いため息をつき、答えた。
「役に立たないなんて思ってない」
彼は両手を膝の上で組み、神経質そうに親指を動かした。
「先ほどはすまなかった、つい気が立ってしまって」
そう言いながら、ちらりとエマの顔を横目で見た。彼の青い瞳が、不安そうに揺れている。
「いえ、私こそ申し訳ありませんでした」
エマは視線を落とした。
「いいんだ」
シグルズは答えた。
「だが、主に仕えるというのはそういうことなのだと理解してほしい。使用人のことを人とも何とも思っていない貴族などごまんといる。私はあなたに傷ついてほしくない」
彼の真摯な物言いに、エマは素直に頷いた。シグルズは優しく微笑んだ。いつもの、穏やかな彼に戻っていた。
「肩を怪我したのか?」
シグルズが心配そうに尋ね、エマは首を横に振った。
「本当に大したことありません、ちょっと足が当たっただけですから」
「見せてみろ」
「いえ、でも」
「いいから」
シグルズは引く気配がない。仕方なくエマはショールを下ろし、肩を晒して、冷たい当て布を押さえていた手を下げた。エマの白い肩が赤く鬱血していた。
「腫れているではないか」
シグルズは嘆いた。エマは身をよじり、
「大丈夫です、もうだいぶ痛みも引いてきましたから」
と答えたが、シグルズは眉根を寄せると悲しそうに首を横に振り、おもむろに彼女の肩口に唇を寄せた。
「シグルズ様!」
椅子がガタンと音を立てて倒れる。驚いて身を引こうとしたが、シグルズの片方の手がエマの手を上から押さえ、もう片方の手はしっかりと腰を抱いているので逃げられない。
彼の少しかさついた唇がエマの肩を撫でていき、柔らかい舌がしっとりとなぞる。エマはぞくぞくと身震いしてくるのを感じ、身をすくませた。頭を乱暴に掻いたせいで、乱れた絹糸のような金の髪が彼女の胸にはらりと落ち、くすぐった。
シグルズはため息をつくと、身を起こした。そして、真っ赤になって俯く彼女に、そっとショールを掛けてやった。
「これはキスじゃないからな」
シグルズは目を背けながら言った。
「早く治るように、おまじないだ」
夕刻まで休んでいて良い、そう言うと、シグルズは立ち上がり、倒れた椅子を直して出ていった。
心臓が爆発しそうに高鳴って、エマは顔を上げることができなかった。頭が真っ白だ。掛けられたショールをぎゅっと握りしめ、部屋の扉が開いて、また閉まる音がするのを、自分の爪先を見つめたまま聞いた。
入れ違いに部屋に戻ってきたメアリーは、そんなエマの様子を見て、「あらあら」と優しく微笑むのであった。




