第14話 それぞれの思惑(2)
翌日、幽霊が出るという夕暮れ時まで、一行はサンクレール家の館で過ごすことになった。先立って、ティンカーには《嘆きの塔》にシグルズ一行が祈祷に出かけることが伝えられ、人々は旅の司祭がこの地域のために精力的に活動してくれることを喜んだ。
「逃げられないように、先手を打たれたな」
と、シグルズは苦笑いした。アンソニーは馬をブラシで撫でてやりながら、そうですね、と返事をした。そんなことしなくても逃げたりなんかしないのに、連中の念の入れようには天晴れだ。
今朝はとても良い天気だ。このまま、パンとチーズとワインを持って、野原を馬で駆けて出掛けたい。こんな良き日に、唯一の予定が幽霊退治なんてあんまりだ。それに、兵士達に見張られているおかげで、城壁の中の狭い空しか見ることができないのだ。
「どこか遠く離れた場所へ出掛けて、のんびりしたい。そう思わないか?」
積み上げられた干し草の上に、ごろんと仰向けに横たわり、シグルズは愚痴をこぼした。アンソニーはほんの少し笑いを含みながら息をつくと、
「最近のシグルズ様は子供みたいですよ」
と、苦言を呈した。シグルズは空を眺めたまま、ぼんやりしている。
彼はもともと朝は苦手なのだ。昔から夜行性で、他の人間と同じように規則正しく、暗くなったら寝て、明るくなったら起きて、ということができない。どういうわけか、暗くなるほど目が冴えて、夜は眠れず、夜中ずっと起きているので昼は眠くてたまらない、そんな子供時代を過ごしていた。大人になってからは、それも随分改善したのだが。
シグルズは手を空に伸ばした。手首に嵌められた蛇の腕輪が太陽光に反射して、彼の不思議な青い瞳を一層鋭く照らした。
「それに、もう十分遠くまで来ましたよ。今夜を上手く乗り切れば、旅の終わりが見えてきます。頑張りましょう」
アンソニーは励ますように言った。シグルズはむすっとした顔で彼を見た。
「なんだ、子供扱いして」
「さっき俺が言ったこと、聞いてなかったんですか?」
アンソニーはぐるりと目を回した。
「もう結構。のんびりしたいなら、お部屋で昼寝でもしてきてください。夜は長いですよ」
シグルズは身を起こした。髪や背中に、干し草の屑がたっぷりとまとわりついている。顔を両手で覆い、手のひらの硬いところで目の回りをごしごしと擦ると、気持ちを切り替えるかのように立ち上がった。
「ちょっと、屋敷の中を一周してくる」
かしこまりました、小さく笑いながら、アンソニーは主人を見送った。
***
一方のエマは洗濯に勤しんでいた。昨日は大宴会だったので、洗い物がとにかく多い。テーブルクロスから、ナフキンから、リネン類がどっさりとあって、その上、ご主人達の着汚した衣類もある。エマはこんなに大量の洗濯物を扱ったのは初めてだった。大貴族のお屋敷や、お城に務めるメイド達は本当にすごい。
「石鹸があるのですか?」
エマは驚いて聞き返した。古参のメイドの一人が、得意気に返した。
「当然よ。ご主人様達のお洋服は高価だから、石鹸で洗うの。あなた、ハラルドソン家の侍女なんでしょう?石鹸を使っていないの?」
エマは言葉を濁した。メイドの女性はため息をついた。
「巡礼中なら仕方ないかもしれないわね。いいわ、一つあげるからお持ちなさい」
「本当ですか?」
エマは目を輝かせた。石鹸はとても高価で、モレイ男爵家では手が出せる代物ではなかったのだ。サザーランド伯爵のメイド達はきっと使っていただろうが、エマは石鹸なんて生まれて初めて見たかもしれない。
両手で包み込むようにして、麻のガーゼにくるまれた石鹸を受け取った。ずっしりと重い。清涼感のあるハーブの香りがする。
「良い香りでしょう。クローストン卿が商人から仕入れてきたのよ。舶来の品なんですって」
メイドはこそこそと、あんな顔して、こういう物の目利きだけは確かなのよね、とエマに耳打ちした。ただの得体の知れない狡猾な男だと思っていたら、意外なところがあるのだな、と思わずエマは感心せずにはいられなかった。
早速もらった石鹸でシグルズ達のシャツを洗ってみようと、別の洗い場へ向かうと、外壁にもたれるようにしてケネスがそこに立っていた。
「ケネス様」
エマは立ち止まって、彼のほうを見た。彼は一瞬こちらに目を向けたが、すぐにまた顔を背けると、何かを観察するように建物の隙間から向こう側を見た。訝しく思ったエマが、籠をおいて彼の背後に行くと、その視線の先には、クローストン卿その人がいた。兵士と何やら話し込み、忙しなく動き回るその男は、何やら苛々しているようにも見える。
「随分忙しそうにしていますね」
ケネスは言った。
「何か、想定外のことでも起こったのでしょうか」
彼はわずかに口の端を上げた。クローストン卿の指示を受けた兵士達は敬礼をして、それぞれの方向に走っていく。大袈裟に肩でため息をついて、やがてクローストン卿もどこかへ去り、見えなくなってしまった。
ケネスはエマのほうを向くと、彼女を一瞥して言った。
「何か用があって来たのでは?」
シャツや衣類で山積みになったエマの洗濯かごを彼は指差した。エマははっとして、目を落とした。うっかりケネスのほうが気になって、洗濯のことを忘れかけていたのだ。
ケネスは腕を組み、ため息をついた。
「ご自身の立場を忘れてもらっては困りますね」
そうでした、と苦笑いをしながら、エマはケネスの顔を見た。灰色の目が冷ややかに彼女を見下ろしている。
「シグルズ様のこともそうですよ。少し優しくされたからって、思い上がることのないように」
そう言うと、彼はもう彼女には目もくれず、さっさと歩いてどこかへ行ってしまった。
「…分かってるわよ」
エマはぽつりと呟いて、両頬をパンパンと手のひらで叩くと、気合いを入れて洗濯を始めた。
石鹸の威力はすごかった。いつもは押しても揉んでも叩いてもなかなか落ちない肉や魚の油汚れも、面白いほどするする取れていく。こんなによく取れるなら洗濯も楽しい。それに何より、良い香りだ。これでシーツを洗ったらどんなに気分良く眠れるだろうと、エマは想像しただけでうっとりしてしまった。こんなに素敵な代物を、あの厳めしいクローストン卿が仕入れてきたというのだから驚きだ。
エマが気分良く洗濯をして干していると、離れた場所から何か声が聞こえてきた。女性と、若い男のようだった。その声に聞き覚えがあったエマは、洗濯かごと石鹸を端に片付けると、声のするほうに駆け寄った。何か、言い争っているような、普通ではない感じがしたのだ。
「勝手なことをするな!」
そこにいたのは、やはりジョージ・サンクレールだった。彼のすぐ目の前では、一人の女性がうずくまって、自分の頭を庇っていた。エマは目を見開いた。
「申し訳ございません!」
女のほうには見覚えがなかったが、グレーの髪を結い上げ、白い帽子をかぶり、きちんとした青灰色のお仕着せをきた年老いた女は、それなりの地位のメイドのように見えた。
ジョージはかなり憤っているようだった。必要以上に女を怒鳴り付け、強く叱責しているように見える。昨日二人きりで話した時の、少年らしい顔つきをした彼とは全く別人だった。
「政治のことをよく知りもしないくせに、女が口を出すな!」
ジョージはほとんど崩れ落ちていた女に足を向けた。そして、思い切り蹴り付けようとしたので、エマは咄嗟に飛び出してしまった。
固い革のブーツの靴底が、もろに彼女の肩に当たる。エマは呻いて倒れ込んだ。
「おまえ、何のつもりだ!」
ジョージは激しく憤った。エマはじんじんと痛む肩を庇いながら、キッと彼を睨み付けた。
「あなたこそ、何てことをなさるの!」
彼女の背後で、年老いた女のメイドが狼狽えている。ジョージは完全に頭に血が上ったかのように、真っ赤な顔をして怒鳴った。
「その女が勝手なことをするから叱責していたのだ、邪魔をするな!」
だが、頭に血が上っていたのはエマも同じだった。黙っていればいいのに、こういう時、彼女はいつも負けじと言い返してしまうのだ。
「何よ、偉そうに!」
エマはジョージに啖呵を切った。
「当主なら何をしてもいいと思ってらっしゃるの!?こんなか弱い女性を蹴ることが、人の上に立つ方のやることですか!?」
ジョージは激昂したようだった。エマははっとしたが、もう遅かった。彼は腰に下げられた鞘から、すらりと剣を抜いた。背後で女が声にならない悲鳴を上げた。斬られる。そう思って、エマはぎゅっと目を瞑った。
だが、剣は振り下ろされなかった。恐る恐る目を開けると、そこには見知った男が立っていた。凍りつきそうなほど冷たい目でジョージの手首を押さえつけているのは、シグルズだった。
強い力で腱を握りしめられ、手に力の入らなくなったジョージは剣を落とした。
エマはほっとしたが、彼女を見下ろす彼の目も、恐ろしいほど冷ややかだった。エマは思わずぞっとして体を震わせた。
「どうやら私の侍女があなたに無礼を働いたようですね」
感情の読めない静かな声でシグルズは言った。
「彼女に代わり、お詫びいたします。どうかここは私に免じて場を収めていただけませんか」
シグルズがジョージの手を離しながらそう言うと、彼はあからさまに舌打ちをし、剣を拾って鞘に収めた。そして、
「下女をよくしつけておくように」
と言って、去っていった。
エマは震えが止まらなかった。
「あの…」
何か言おうとして口を開いたが、
「勝手な真似をするな」
そう言って、シグルズはくるりと踵を返して去ってしまったので、エマは何も言えなかった。




