第7話 ティンカーの町にて(6)
礼拝堂の横にある、粗末なあばら屋が当面の彼らの寝床だった。教会の建物自体はこの数日間で目に見えて美しくなったが、こちらの小屋は手付かずだった。隙間だらけの藁葺きの屋根からは、ぽたぽたと雨水が垂れてくる。
「くそ、こっちも直しておくんだったな」
アンソニーが悪態をつきながら、椅子の上に立って内側から応急処置を施している。外はすっかり雨が降り出していた。日も沈み、真っ暗だ。
エマは帰らぬ二人が気になっていた。心配そうにちらちらと窓の外を見る。釜戸の上で、鍋がぐらぐらと揺れて煮立っている。
具合を見るために鍋の蓋を開けたとき、ちょうど小屋の扉も音を立てて開いた。ずぶ濡れになった男二人がそこに立っていた。
「シグルズ様、ケネス様!」
エマは駆け寄り、二人を中に招き入れた。急いで立て付けの悪い扉を閉め、シグルズのびしょ濡れになったローブを預かる。アンソニーも椅子から下りてきて二人を出迎えた。
「随分時間がかかりましたね」
ああ、とシグルズは答えた。エマはてきぱきと服を暖炉脇に掛け、二人を火の側に勧めて、麻布を持ち、シグルズの髪をほどいて拭き始めた。あの、市場でアンソニーに「頭を拭くための布」と言われた麻布だ。半分は自分のシュミーズにしたが、残りの半分は主達の体を拭くための手拭いにしたのだ。あの時は馬鹿にされたようでむっとしたが、たしかにこの柔らかな手触りは貴い方々の体や髪を拭くのにぴったりかもしれない。
隣に腰を下ろしたケネスが、私もずぶ濡れなんですがね、と何もしないアンソニーを見上げて刺のある口調で言った。
「男に拭いてほしいですか?」
アンソニーが小馬鹿にしたような口振りで言う。
「俺達もこう見えて忙しかったんですよ」
見てください、と応急処置をした天井の雨漏りを指差す。ケネスはため息をついた。
「待っていてください、今ケネス様も拭いてさしあげますから」
エマは大急ぎでシグルズの長い髪を櫛で梳かした。絹糸のように細くて長い彼の髪は絡まりやすく、長旅のせいもあってもつれていた。シグルズは上を向いて、エマの顔を見上げた。
「気持ち良い。もっとやってくれ」
できれば温かい麻布で顔と首と背中も拭いてくれ。そう言って、まるで甘えた少年のようにねだるので、エマは困ってしまった。アンソニーは白い目でシグルズを見て、ケネスは布を拾って自分で頭を拭き始めた。
「シグルズ様、お留守の間にお客が来ましたよ」
すっかりさっぱりとしたシグルズの目の前に、アンソニーがずいっと封書を差し出した。サンクレール家の印璽を確認すると、シグルズは中身を取り出した。
「晩餐会か」
アンソニーが顔を出す。
「いつですか」
「一週間後だ。我々がここにいることを嗅ぎ付けたらしい」
「特に隠そうとしていらっしゃるようには見えませんでしたがね」
シグルズは笑った。
「良いじゃないか、晩餐会。サンクレール家の実情を探る絶好の機会だ」
アンソニーは肩をすくめた。
エマは神妙な面持ちだった。晩餐会には良い思い出がないからだ。嫌でもサザーランド伯爵邸での事件のことが思い出される。招待されたのはシグルズだが、そこで何も起こらないなんて言い切れない。
エマの様子を見たシグルズが、彼女の腕に手を添えて言った。
「エマ、あなたも来なさい」
エマは驚いた。
「まさか!私は行けません。お尋ね者の私が晩餐会なんて…!」
「だからだ」
シグルズは立ち上がった。
「狙われているのがあなただから、ここに一人にはしておけない。ケネスとアンソニーには共に来てもらうつもりだ。ジョージ・サンクレールは、私がハラルドソン家の者だと薄々気がついている。サザーランド伯爵邸でのことは彼の耳にも入っているだろう。つまり、彼は私達が何者か既に知っているということだ」
エマは言葉に詰まった。サザーランド領から出れば少しは安心できると思っていたのに、現実はそう甘くはないようだ。
だが、そんな彼女を安心させるように、シグルズは優しい声で諭した。
「心配するな、私がついている。聖アンドレアスの首席司祭で、ハラルドソン家の私がいる限り、相手も無闇に手を出すことはできないのだ」
シグルズはエマの両肩をしっかりと支えると、体を屈めて彼女の顔を覗き込んだ。結っていない、梳かしたばかりの長いプラチナブロンドの髪が、さらさらと肩に流れ落ちる。
「良いな、私から離れてはならんぞ。自分の身を守りたければ、常に私と行動を共にすること」
エマはおずおずと目を上げると、小さく頷いた。
その晩の夜更け。あばら屋の外で、シグルズは雲間からぼんやりと滲み出る月の光を眺めていた。雨は小雨から霧に変わりつつあり、白っぽく靄のかかった、なんとも言えない空気が辺りを包んでいた。
エマはもう衝立の向こうで寝息を立てていた。ケネスも今頃眠っているか、さもなくば、瞼を閉じてこちらの動向を伺っていることだろう。
「卑怯ですよ、シグルズ様」
ふいにアンソニーが出てきて悪態をついた。
「私から離れるな、なんて。あなたと一緒にいるからエマが隠れられなくなってしまうんでしょう」
シグルズは苦笑いをこぼした。この優秀な従者は何でもお見通しなのだ。
「それに、わざと目立つように教会で司祭らしく働いたりして、サンクレール家から動くのを待っていましたね?」
シグルズはぐうの音も出ない。
「そうだな、その通りだ」
アンソニーはどっかりとシグルズの隣に腰を下ろした。
「俺に命じてくださればよかったんですよ。エマを連れて先にフォートヒルに戻れ、って。そうすれば彼女が危険にさらされることもなかったのに」
シグルズは少し思案して、
「そうなんだが、おまえにもいてもらわないと困るんだよなあ」
と、こぼした。
「お世話係が必要ってことですか?」
アンソニーはむすっとしながら、照れ隠しをするように悪態をついた。
「それもそうだが、私も敵が多いからな…」
シグルズは肘をつき、手のひらに顎を乗せて呟いた。そりゃそうだ、とアンソニーは心の中で嘆息を漏らした。シグルズはダルヘイム王国でも指折りの名家の出身で、嫡男であり、聖アンドレアス教会の首席司祭であり、その上、この容貌だ。敵がいないわけがないだろう。
アンソニーは小姓として仕えていた頃から、彼の苦悩は嫌というほど見てきた。家族との葛藤も、社交界での気苦労も、大学でひたむきに学問に励む姿も、それから、嫡男なのに、結婚しないで聖職者になる道を選んだことも。だからこそ、アンソニーは彼の力になりたいと思ったし、今回の旅も絶対に同行すると決めていた。
エマが旅に加わったのは意外な展開だったが、シグルズが連れていくと決めたなら、自分はそれに従うだけだ。だが、不幸にも陰謀に巻き込まれただけの憐れな娘を、これ以上無闇やたらに危険にさらすのはあまり賛同できなかった。
「まあ、いいですよ」
アンソニーは立ち上がった。
「どうしてもエマを連れていくっておっしゃるなら、俺が彼女を守りますから」
シグルズはアンソニーを見上げた。
「彼女は私から離れない予定なんだが?」
アンソニーは得意気な顔をすると、
「だから、お二人まとめて俺が守るってことです」
と息巻いた。シグルズは思わず吹き出すと、
「いつからおまえは用心棒になったんだ」
と、破顔せずにはいられなかった。




