第6話 ティンカーの町にて(5)
ティンカーの町からは、二つの象徴的な建物が見える。
一つはサンクレール伯爵邸。切り立った海岸の上にそびえ立つ、要塞のような館だ。争いの絶えないこのガンヒース地方では、主の住まう館も籠城戦に耐え得る堅固な建物でなくてはならない。長い年月をかけ、改築に次ぐ改築を繰り返してきた館は、さながら悪魔の住みかのごとく摩訶不思議で入り組んだ形をしていた。
二つ目は《嘆きの塔》。こちらはサンクレール伯爵邸より西の方角にある、五階建ての高い塔だ。古くはヒルド族の居住地であったが、何十年も前に起こったガン族との戦いにより、今は放棄されている。
《嘆きの塔》と呼ばれるのには理由がある。それは、ガン族との戦いのきっかけとなった出来事に由来していた。
今から何十年も前のこと。ヒルド族の族長の息子テレンスは、ガン族の娘ヘレナを欲しがっていた。彼女には既に婚約者がおり、テレンスの誘いを拒んだ。だが、諦めきれなかったテレンスは、ヘレナの結婚式の夜、彼女の住む集落を包囲し、結婚相手の男はもちろん、多くの住民を殺害し、彼女をヒルド族の塔に連れ去った。
テレンスはヘレナを部屋に閉じ込め、強引に我が物にした。だが、彼女は、テレンスがいくら豪華な贈り物をしても、甘い言葉を囁いても、夜な夜な暴力的に襲いかかっても、決して屈しようとはしなかった。そして、誘拐から一年が経とうかというある日、塔の最上階から身を投げて、とうとう死んでしまったのだ。
それから呪いがかかったかのようにヒルド族はみるみる衰退し、塔は打ち捨てられ、一帯は荒れ、やがて人々の間で《嘆きの塔》と呼ばれるようになったのだ。
彼女が地面に倒れた場所には、何者かによって小さな石碑が建てられたと言われている。そして、朽ち果てた塔の中では、今もなお彼女の霊が故郷を探してさ迷っているとかーーー。
「怖いこと言うなよ」
アンソニーがひきつった顔でエマを見た。エマはじっとりとした目で怯える彼の様子を蔑んだ。
「ただの言い伝えよ。戦いがあったのは事実だけど、幽霊なんているわけないわ」
エマはガン族に伝わる《嘆きの塔》の話をしていたところだった。実際に行ったことはなかったが、この話は母からよく聞いていたのだ。
「聖職者の付き人なのに幽霊が恐いとは致命的ですね。シグルズ様、解雇なさるなら今のうちですよ」
ケネスが呆れたように見下してくる。アンソニーは慌てて「エマが急に脅かしてくるから」と言い訳をし、シグルズは困ったようにハハハと笑った。
一行がティンカーの町に到着してから一週間が経とうとしていた。最初の数日間は、一目でも神父様に会いたいと、町中の人々が殺到して大変な騒ぎになったが、どうもしばらくはここにいるらしいと分かってからは今はだいぶ落ち着いてきた。これだけ騒ぎになって何もせずに立ち去ったら、司祭としての沽券に関わるとシグルズが主張したからだ。
懸念していた治安判事のほうは、本当に追ってくる気配はなかった。エマはサザーランド邸での事件に巻き込まれてから初めて、同じ場所に腰を据えて過ごすことができていた。
「ウィルダネス家はどうしているのかしら」
シグルズとケネスがそれぞれ外出してしまったので、エマとアンソニーは忙しなく礼拝堂で働いていた。
神父様二人がいないので教会に訪ねてくる人々は少なかったが、そういうときだからこそ、礼拝堂の掃除や修復作業、次の典礼の準備など、手をつけ始めたらキリがないくらいたくさんの仕事が二人を待っていた。
エマは床や壁や祭壇や、あらゆるところを美しく磨き上げたし、アンソニーは隙間だらけの壁や天井をできる限り修理した。いつ旅を再開するかはわからなかったが、滞在中にできる限りのことはしておくつもりだ。通りがかった町の人達が、二人にありがたがって感謝の言葉を述べていく。
「それをケネス様が調べていらっしゃるんだと思うよ」
アンソニーが答えた。
「ケネス様が?」
エマは聞き返した。
「あの方はそういうの得意だから」
そう言ってアンソニーはフードを被る真似をした。
「聞くところによると、まだ大きな動きは出ていないらしい。サザーランド伯爵はかなりきちんと段階を踏んで先方に事件のことを伝えたし、争うつもりはないと明確に宣言している。ウィルダネスのほうも、本心では報復したいが、息子が不当に侵入してしまった手前、行動を起こすことができないんだろう」
エマは頷いた。軍事力も、領地の広さも、ウィルダネスよりサザーランドのほうが格上なのに、なぜブライアンがサザーランド伯爵の屋敷に侵入することができたのか、本当に不可解だ。男一人の侵入を許すほど、伯爵邸の警備は甘くない。
あれからもう何日も経ったのに、ブライアンの最期の姿が今でもまだ脳裏に焼き付いている。一人でなくて本当によかった。シグルズやアンソニー、ケネスがいるからこそ、時折思い出しても、夢に出てきても、また何とか気持ちを落ち着けることができていた。
考え込むエマの頭を、アンソニーがぽんと叩く。
「手が止まってるぞ。考えたって仕方がない。俺達は俺達のやるべきことをやろう」
そうね、とエマは笑って答えると、再び掃除を始めた。
やがて、徐々に辺りが暗闇に染まり始め、アンソニーはエマに声をかけた。
「そろそろ終わりにしよう。日没だ」
エマは頷き、片付け始めた。アンソニーは屋根の上に登っていたが、するすると慣れた手付きで下りてきて、梯子を片付け、礼拝堂の扉に手をかけた。
「シグルズ様達、遅いわね」
扉を閉めるアンソニーにエマは声をかける。アンソニーは、ああ、と頷いた。
今日は夕焼けは見えない。空が厚い雲に覆われているのだ。空気が湿っぽい。雨が降りそうだ。
「薪を運んでおこうか」
アンソニーがそう言ったとき、教会の前に小綺麗なお仕着せを着た男が一人、馬に乗ってやって来た。
「あなたが司祭様ですか?」
首を傾げながら男は尋ねた。
「いや、俺はただの使用人だ。司祭様に何の用だ?」
男は懐から封書を一通取り出すと、アンソニーに手渡した。
「サンクレール家のジョージ様より直々に預かってまいりました。司祭様にお渡しください」
「たしかに」
アンソニーはちらりと封書に目を落とすと、それを受け取った。男はすぐに踵を返し、去っていった。
「サンクレール伯爵様から?」
後ろからエマが顔を出す。ああ、とアンソニーが答えた。
「正確には…まだ伯爵ではないが、まあ、でも、ご当主からだな」
封書にはしっかりと伯爵家の印璽が捺してある。エマは少し前に路地で出会った、鋭い目つきの少年のことを思い出した。本当にあの彼がサンクレール家の当主だったのだろうか。
「シグルズ様に何のご用かしら」
まさかもう身分が知れたのではないかと、エマは内心ドキリとした。アンソニーは肩をすくめた。
「さあな。とりあえず、巡礼中の司祭に敬意を払って…ってことだろうが」
そう言うと、彼は聖堂の扉を閉めた。そしてそこにもたれるように背中を預け、腕を組むと、
「サンクレール家のご当主が直々に接触してくるとなると、身分ははっきり示さなければならないな」
と、ため息混じりに答えた。そうよね、とエマは小さな声で答え、胸の前で手をぎゅっと握り合わせた。アンソニーはエマの様子に気がつくと、眉を下げて微笑んだ。
「心配するな。何があっても、おまえは堂々としていればいい」
そして、さあ、お二人が帰ってくる前に飯の支度をするぞ、とエマを促し礼拝堂の外へ出ていった。




