第4話 ティンカーの町にて(3)
アンソニーとエマは市場へ買い出しに出てきていた。シグルズからの言付けで、食べ物と酒、リネン類、蝋燭、それからエマの必要なものを洗いざらい買ってくるように、とのことだった。
「必要なもの、と言われても…」
エマは困惑していた。確かに着の身着のままで出てきてしまったのだが、とりあえずショールはあるし、衣服は誤魔化しながら何とかすればいいと考えていた。何より何も持たずにここまで来たのでお金がなく、旅の間、貴重な食べ物を分け与えてもらえるだけでも十分だと思っていたのだ。
「何言ってるんだ、女なんだから色々あるだろう」
アンソニーが両手いっぱいに荷物を持ちながら言った。
「でも、私、無職なのよ」
エマが口を尖らせて言うので、アンソニーは思わず吹き出した。
「まさか自分で買おうと思っているのか?」
彼は声を上げてゲラゲラと笑った。エマは顔を赤くして、じっとりとした目で彼を睨む。一通り笑い終えると、彼は目尻に涙を滲ませながら言った。
「じゃあ、シグルズ様に言っておいてやるよ、お金がないから貸してくださいって」
「もう、からかわないで!」
エマがアンソニーの肩を拳で叩く。
「いてて、悪かったよ」
アンソニーは身をすくめながら謝ったが、やはりその顔は笑っている。
「だけど、ずっとその服だけ着ているわけにはいかないだろう。シグルズ様を何だと思っているんだ?女一人の衣食を満たすことくらいわけないさ」
というより、ちゃんとさせておかないと俺が怒られるんだぞ、とアンソニーは偉そうな素振りで言った。
「わかったわ、選ぶから付き合ってくれる?」
エマはため息をついて答えた。たしかに、シグルズのような高位聖職者に付き従って歩くのに、みすぼらしい格好では品位がないと思われるかもしれない。それに、男ばかりの旅路だからきっと裁縫道具もないだろう。もしかしたら女の自分が役に立てるかも、とエマは気持ちを切り替えて、針や糸や鋏を探すことにした。アンソニーは「了解」と返事をして彼女についていった。
市場は中央広場を中心に展開されており、そこでは小麦やパン、チーズ、魚、酒など、生活に必要なものが一通りそろうようになっていた。織物や、職人が作った装飾品、道具類などを売る露店は別の通りにあり、それだけ見ればティンカーは本当に普通の町で、目立って悪いところがあるようには見えなかった。たしかに女子供の姿は目につくが、威勢の良い男達もたくさんいるし、小綺麗な服装をした商人もそれなりにいた。
「これにするわ」
裁縫道具を求めた後、エマは一枚の織物を手に取り言った。
「なんだそれ、頭でも拭くのか?」
アンソニーは彼女が取った麻布を見下ろすと、怪訝な顔をして尋ねた。生活に必要なリネン類は先程買い足したはずなのだが。
「違うわよ!」
エマは憤慨した。
「これを仕立てるの」
アンソニーは、ええっ、と驚き拒絶した。
「駄目だ、そんな安物!頭を拭くためならいいが、着る物にするならもっと色が綺麗で質の良いものを選べ」
おまえ、センスないなあ、とアンソニーはがっかりし、白い目でエマを見た。店先で店主が苛立った顔をしてこちらを見ている。エマはむっとした。
「染めてある織物は高価なのよ、知らないの?それに、私はこの手触りが気に入ったわ」
エマはアンソニーの意見は無視して、その薄茶色をした、飾り気のない、安物の麻布を買い求めた。アンソニーは仕方なく金を払い、もう一反、深緑色に染められた上質な毛織物を購入した。特に深く考えたわけではなかったが、なんとなくエマの瞳の色のようだなと思ったからであった。
二人が帰路につくため歩き出すと、突然、建物と建物の間から一人の子供が飛び出してきた。背後からその子供の名を呼ぶような、女の声が聞こえる。子供は立ち止まることなく、エマの足にぶつかり、転んでしまった。
「ごめんなさい、大丈夫?」
エマが手を差し出すと、裏通りから母親が飛び出してきて、何も言わずに慌てて子供を抱き上げて戻っていった。
エマは呆気にとられて、彼らが去ったほうをに目を向けた。そこはまるで別世界のようだった。暗く、狭い路地を埋めるようにうずくまる人々。多くが女や子供、それに年寄りで、先程の母親と子供もその中に紛れていた。彼らはその辺に落ちていたような布切れや麻袋をありったけ被って寒さをしのぎ、一見すると人間かどうかも分からないという有り様で、腐った食べ物や、それを餌にするネズミ達でひどい臭いが辺りに立ち込めていた。
呆然とその光景を眺めていると、
「どいて、どいて!」
後ろから物凄い勢いで荷台を引いてやって来た女達に、エマは思い切り体当たりされてよろけてしまった。横を歩いていたアンソニーが助ける間もなく、エマはバランスを崩して、浮浪者のうずくまる裏通りに倒れ込んだ。
「痛…」
肘をさすりながら手をついて身を起こす。
「大丈夫か!」
背後から慌ててアンソニーがやって来た。
「大丈夫よ。ごめんなさい、ぼんやりしてたから」
アンソニーは荷物を置いてエマに手を貸し、立ち上がらせようとした。
だが、そんな二人を上から誰かの影が覆った。横にいた老人がゆっくりと顔を動かす。浮浪児が一人立ち上がった。気配に気がついたアンソニーが顔を上げると、そこには身なりの良い少年が立っていた。
「邪魔だ、どけ」
年の頃は十四か十五くらいだろうか、逆光であまりよく見えないが、大人と呼ぶにはまだあどけなさの残る、しかし大人顔負けの威厳ある様子で、少年は二人を見下ろしていた。手には何か大きな袋を抱えている。威圧的な態度に、エマは一瞬身をすくませた。
「伯爵様!」
子供のうちの誰かがそう言った。驚いて少年の顔を見ると、
「俺は伯爵じゃない」
そう言いながら、厳しい表情にほんの少しの優しさを滲ませて、少年は袋の中からパンを取り出し子供に分け与えた。すぐに浮浪者達がわっと押し寄せ、我先にと袋の中に泥だらけの手を突っ込んでいく。あっという間に中身は空になり、最後は空っぽになった麻袋を誰かがさっと持っていった。
そしてまた裏通りは静かになった。
エマとアンソニーが呆気にとられていると、少年はまたじろりとこちらに視線を向けた。浮浪者達がもくもくと食べ物を口に頬張る音だけが聞こえる。エマは背中に冷や汗が伝うのを感じた。気のせいか、この威圧的な少年に、上から下までじろじろと見られているような…。アンソニーの、エマの肩を抱く手にぐっと力が入った。
やがて、少年は、ふんと素っ気なく顔をそむけると、二人の横を素通りして表に出ていった。
胸の動悸を押さえていると、先程ぶつかってきた子供がすたすたとやって来て、エマの袖を引っ張った。
「それもくれるの?」
子供はエマの持っていた食べ物の入った籠を指差した。後ろから「これ!」と母親がたしなめるような声が聞こえた。
「おやりよ」
アンソニーがエマを見て微笑んだ。エマは頷き、籠の中からパンやチーズ、果物を出して、子供に差し出した。
「ありがとう!」
薄汚れた顔で、きらきらと輝くように子供は笑った。母親は感激して、何度も頭を下げ感謝の言葉を述べた。
二人が表通りに戻ると、少年の姿はもうどこにも見えなかった。
「ごめんなさい、私が不注意だったせいで」
エマは軽くなってしまった籠を持ち直しながら言った。アンソニーは肩をすくめ、
「問題ない、パンとチーズならまた買えばいい。それより、どこも怪我しなかったか?」
大丈夫よ、とエマは答えた。
「さっきの人、誰だったのかしら」
アンソニーは一つ息をつくと言い放った。
「ジョージ・サンクレールだよ、きっと」




