第1話 出立
翌日、一行はフォース砦を後にした。
「年寄りの落ちこぼれた貴族より、若く美しい神父様のほうが良かったと見える」
ジョンは威圧的な口調でそう言ったが、どこか不貞腐れたような様子だったので、エマは思わず笑ってしまった。
「せっかくのお申し出を無下にしてしまい申し訳ありません。ですが、既にサザーランドから追い出されたこの身です。せっかくの機会と思い、できることをやってみたいのです」
ジョンは頷いた。そして、早く行けとばかりに杖を振り上げた。
馬がいなないた。ハラルドソン司祭と従者のアンソニー、そしてエマは、丁重にお礼を告げ、城を後にした。
「やれやれ、アダムに手紙を書かねばならん。ペンと紙だ」
執事が恭しくお辞儀をして、ジョンは城の中へ戻っていった。
一行はフォース砦から一番近い町、ティンカーへ向かうことになった。
ジョンは彼らのために三頭の馬を用立てていた。エマは乗馬などはお手の物だったので、ハラルドソン司祭は一緒に騎乗できないことを残念がった。エマが、冗談はおやめください、と赤くなると、司祭はからかうように笑った。アンソニーは呆れて肩をすくめ、エマに不便はないかと尋ねた。道中は不思議と和やかであった。
「ティンカーへ出てしまえばもうガンヒースです。サザーランドの治安判事も領地の外までは追ってこないでしょう」
司祭は安心させるようにそう言った。
「しかし、あなたのような淑女がただ我々の旅に同行しているというのはやはり違和感がありますので、昨日お話しした通り侍女のふりをしていただくのが良いでしょう」
エマは頷いた。もとより旅が終わったらハラルドソン家に雇用してもらうのが当面の目標だ。自分の生活がかかっているのだから、今から色々と勉強しておくのが得策だろう。
「ミス・モレイと呼び続けるのもおかしいですから、あなたのことはエマとお呼びしても?」
ハラルドソン司祭が丁寧に許可を求めると、エマは小さな声で、はい、と返事をした。
「神父様のことは何とお呼びすれば?」
「アンソニーと同じ呼び方で構いませんよ」
ちらりとアンソニーのほうを見やると、彼はにやりと笑って、
「シグルズ様、エマはシグルズ様のお名前を忘れたそうです」
と大きな声で言うので、エマは慌てて弁解しなくてはならなかった。
司祭の名前はシグルズ・レナード・ハラルドソン。忘れるわけはない。王都でも指折りの名家の出身で、聖アンドレアス教会の首席司祭なのだから。
「大丈夫です、シグルズ様」
エマは冷や汗をかきながら返事をした。年の近いアンソニーは、普段は優秀な付き人だが、時々こうやってふざけることがあるらしい。彼はたじたじになったエマを笑い飛ばした。
休憩を挟みながら海沿いにゆっくりと馬を歩かせていくと、点々と続く農家の粗末な家々の先に、切り立った崖の上に立つ、堅牢な要塞のようなものが見えてきた。人の出入りはそれほど見られなかったが、その掲げられた紋章にエマは見覚えがあった。
「ガン族だわ」
シグルズは振り返ると、
「ご存知で?」
と、尋ねた。エマは頷いた。
「亡くなった母がガン族だったのです。ローランの近くに集落があり、母は族長の娘でした」
そうだったのか、とシグルズは頷いた。エマは要塞の頂上で誇り高くひらめく一族の旗を感慨深く眺めていた。
子供の頃はよく、ガン族の集落に家族で遊びに行ったものだ。大人達は何か大事な用があったのかもしれないが、子供だったエマとフィリップにとっては祖父母の家に遊びに行く感覚だ。ダルヘイム北部では、ガン族は《北の大陸》から渡ってきた好戦的な古い一族だと恐れられているが、集落に住む人々は皆親切で優しかった。だが、母が亡くなってからは、会うこともすっかり少なくなってしまった。
「おじいさま、お元気かしら」
ぼそっと小さく呟くと、アンソニーが「何か言ったか?」とこちらに目を向けた。
「なんでもないわ」
ガン族の屈強そうな兵士が一瞬ちらりとこちらに視線を向けた。だが、特に気にする素振りはなさそうだ。シグルズは静かに砦の様子を見ると、落ち着いた口調で言った。
「ご存知かと思いますが、ガン族の要塞からさらに北へ進むと広い平原に出ます。そこでかつて激しい戦いがあったのです」
サザーランドとウィルダネスが牽制し合っているように、ガン族もまた近隣のヒルド族と因縁の関係にあった。最後の抗争は何十年も前、まだエマの母が生まれるずっと前であったが、当時は双方ともかなりの死者を出し、このままでは存続の危機とも言われたほど人口を減らしてしまった。それにより、ガン族はサザーランド領まで撤退する他なかったのだが、ヒルド族との確執が終わったわけではなかった。
「今は争いは落ち着いていますが、ここで私達が目立っても良いことはありません」
そう言うと、シグルズはさっと馬を走らせた。アンソニーとエマもそれに続く。兵士がじろりと視線を送ってくるのを感じたが、彼らはそのまま走り去った。
海沿いにしばらく馬を走らせていると、いくつかの湖を通りすぎ、瓦礫のような古代の遺跡を通りすぎ、やがて川の向こう側にだだっ広い平原が見えてきた。
「ティンカーまでもう少しだが、馬を走らせすぎてしまったな。この辺りで少し休憩しよう」
「ちょうど川もありますね。俺、馬に水を飲ませてきます」
「私も行くわ」
一同は歩みを止めて馬から降りた。走り疲れた馬達は、次々に川面に首を突っ込み、美味しそうに水を飲んだ。
エマは広い平原を眺めた。この美しい場所で何十年も前に激しい戦いが行われたことなど、にわかには信じられなかった。
エマは母が話してくれたことを、断片的にだが、思い出していた。ガン族とヒルド族の戦い。互いを存続の危機にまで追いやるほどの大きな戦になってしまった、きっかけとなった事件のこと。記憶が正しければ、ティンカーの町から程近い場所に塔があるはずだ。悲劇の舞台になってしまった塔、そして教会。
手際よく馬達の世話をするアンソニーとエマの様子を見ながら、シグルズは尋ねた。
「アンソニー、最近のサンクレール家の様子はどうだ」
アンソニーは肩をすくめ、答えた。
「どうもこうも、5年前に戦争が終わったばかりですからね。大抵の有力者は死んでしまったし、今は領地の回復に専念しているのではないでしょうか」
ただ、とアンソニーは言葉を濁した。
「今、事実上ガンヒース地方を治めているのは、サンクレール家の当主ではなく、前々代伯爵の私生児だそうです。現当主がまだ成人前の子供なので、後見人を買って出たようです」
正当な後継者でもないのに、人材がいないのを良いことに権力者面しているともっぱらの噂です。アンソニーはこそこそと付け足した。
「そうか、それは注視する必要があるな」
シグルズは言った。エマはふと気になって尋ねた。
「あの、差し支えなければ、なぜガンヒースへ行くのか伺っても…?」
シグルズとアンソニーは顔を見合わせた。シグルズは肩をすくめ、アンソニーは手を後ろで組み、エマのほうに向き直った。
「巡礼ですよ、私は司祭ですから」
エマは眉間にしわを寄せた。アンソニーは乾いた笑いをこぼすと視線を外した。
「良い隠れ蓑でしょう?」
ますます分からないという顔のエマを、シグルズは困ったように見つめ、笑った。
「そういうことにしておいてくれ、また追々話すから」
エマは少し考えた末、わかりました、と返事をした。今話せないと言うなら仕方がない。それに、エマはまだ使用人として正式に雇われたわけではないし、そもそも出会って数日の娘に何でも正直に話すほうがおかしいだろう。
ーーー信頼していただけるように、頑張らなくちゃ。
エマはとりあえず、司祭の言うところの「巡礼」が滞りなく進むように、使用人らしくなろうと思うのであった。
しばらく休んだ後、一行は再び北へ向かって馬を歩かせた。左手はどこまでも広がるなだらかな平原、右手は海。似たような石造りの粗末な家屋がぽつんぽつんと、時折思い出したように現れ、人影はほとんどなく、羊だけがせっせと草をはんで生活しているように見える。
やがて、海岸線の間に小道が現れ、その先に船が停泊しているのが見えた。この辺りは古くからヴァイキングが訪れ、《北の大陸》ノースガルド帝国との交易が盛んなのだとシグルズが教えてくれた。しかし、泊まっていた船に人影はなく、もう長いこと放置されてきたようだった。
湖をまた横目に見ながら細い川を渡ると、海に突き出た岩山の上に、崩れかけた城のようなものが建っていた。
「あの建物はその昔、ノースガルド帝国の統治時代からあったようです」
シグルズが言った。
「あれが見えればティンカーはもうすぐですよ」
すると本当に道らしきものが見えてきて、次第に家屋の数も増えていき、行き交う人々の姿も見え始め、一行はようやくガンヒース地方ティンカーにたどり着いた。




