第12話 フォース砦にて(3)
食堂を出たハラルドソン司祭は考えていた。このフォース砦の主ジョン・サザーランドは、老齢ではあるが信用に足る人物と思って良さそうだった。アダムから直々に紹介されるほどの男だし、身寄りはなく、天涯孤独だ。悪巧みに手を貸すことで、何か恩恵を得られるような年齢でもない。天の定めに身を任せ、一日一日を波の音を聞きながら静かに命を減らしているだけだ。
もしかしたら、このままここにいるのが彼女にとっては最善なのかもしれない。故郷に近いこの場所で、彼の言うように、ほとぼりが冷めるまで砦にこもり、時期が来れば結婚して。そんな思いが頭によぎった。
そっと部屋の扉をノックする。はからずも相部屋となってしまったが、その相手から返事はない。眠っているのだろうか。
静かに入室し扉を閉めるが、人のいる気配がない。ひんやりと、夜風が頬をくすぐる。窓が開いているようだ。
「ミス・モレイ、そこにいるのですか」
やはり返事はない。眠っているのなら、風邪を引いてしまうのではないかと思い、戸締まりをするためにそっと衝立の向こうに近づいた。
「失礼します」
そう言って覗きこむが、彼女の姿はなかった。驚いて辺りを見渡すと、回廊へ続く扉が開いていた。その先に闇夜でも目立つ赤い髪を見つけ、シグルズは安堵に胸を撫で下ろした。
「風邪を引きますよ」
小さなその肩に、そっとタータンのショールをかける。彼女は驚いた様子でこちらに振り向いた。大きな緑色の瞳が一層大きく見開かれた。
「あなたは本当に夜抜け出すのがお好きなのですね」
ハラルドソン司祭は笑った。エマは恥ずかしそうに肩をすくめると、遠くを見つめた。月明かりに海面がきらきらと輝いている。
「サザーランド卿に言われたことを考えていたのですか」
司祭は尋ねた。エマはこくりと頷き、じっと海を見つめていた。
「ここはまるで陸の孤島ですね。窓の外は断崖絶壁、橋がなければ外の世界へ出ることはできず、まさに罪人が身を隠すにはうってつけの場所ですわ」
エマはため息をついた。その横顔は遠くを見つめていたが、自分の人生を悲観しきっているようには見えなかった。ただ、その身の行く末をどうすべきか決めかねている、そんな様子だった。彼は頷いた。
「ミス・モレイ、私達はこれからガンヒースの地を回る予定です。私達が旅の途中であることは話したでしょうか、フレイスヴァーグからガンヒースへ向かう道すがら、大司教に付き添いサザーランド伯爵の館へ立ち寄ったのです」
そうしたら、と言いかけて彼は言葉を濁した。エマは頷いた。彼は続けた。
「それで、あなたさえよろしければ、この後の旅に侍女のふりをして同行していただこうと思っていました。そして、フォートヒルの私の屋敷へ戻った暁には、正式に雇用させていただくのも良いだろうと」
ハラルドソン司祭は落ち着いて、言葉を選んで丁寧に説明した。男爵家や子爵家の令嬢が、名のある大貴族の家に奉公へ出るのはよくある話で、田舎者のエマにとってはこれ以上ない処遇に思えた。エマは身の丈以上の厚遇に恐縮し、言葉も出ずに司祭をじっと見上げていた。
「それは、その、身に余る光栄ですわ」
やっとのことでそう答えると、ハラルドソン司祭は優しく微笑んで、風に乱れ顔にかかった彼女の豊かな髪を指先で退けた。手首につけられた蛇の腕輪がひんやりと彼女の頬に触れた。
「ですが、私もサザーランド卿と同様、無理にとは言いません。これはあなた自身の人生に関わることです。あなたが決めて良いのです」
彼の言葉は端的で飾り気がなかったが、エマの胸にすとんと素直に落ちてくる。まるで昔から見知った大人の人に言われているかのような安心感。彼が神父様だからかしら。エマは少し気恥ずかしくなって俯いた。
「母も同じようなことを言っておりました」
お母様ですか、とシグルズは尋ねた。
「何年も前に亡くなったと、あなたのお父様より伺っております」
エマは頷いた。
「母は常々、私に、自分のことは自分で決めるようにと言い聞かせておりました。誰かに幸せにしてもらおうなどと思わずに、自分の幸せは自分で探さなければ、一生不幸なままだって。もちろん、今の私が幸せを追い求めようなど、考えてはいません。ですが、城主様のお話を聞いて、これが私の役割ならば、しっかりお役目を果たし、伯爵様や家族のためにできることをしたいと、今はそう考えております」
ですが、何をしたら良いのか分からず、途方に暮れていたのです。困ったように微笑んで、彼女はまた遠くの海を眺めた。
「お恥ずかしいことに、私、こんなに遠くまできたのは初めてなのです。いつもローランの町で、船を作る人々や、漁船に乗って遠くまで出かける人々を見ていましたが、私自身は生まれ故郷の外のことなど何も知らないのです。当然、一族のために血を流して戦った人々の生きざまなど、知るよしもありませんでした」
エマはため息をついた。無知で、自分の置かれた境遇に悲観することしかできなかったこの身が今は少し恥ずかしかった。殺人犯として追われることは恐いけれど、怯えながら逃げ続ける人生も嫌だった。
「伯爵様に捨て駒として選ばれたのなら、捨て駒らしく、お役に立てる道を探したいのです」
そう言って微笑む彼女は、頼りなさはあるものの、しっかりと自分の振る舞いについて考え始めているようだった。
ここへ来るまでの怯えて震えるだけの小娘はどこかへ行ってしまったようだ。ハラルドソン司祭は優しく微笑んだ。
「では、これからのことはまた明日、詳しく聞かせていただきましょう」
今にも風で飛びそうなエマのショールを押さえ、司祭は部屋の中へ彼女を促した。古い木造の回廊がギシギシと音を立てている。
「あと数分でもここにいたら、この通路ごと夜の海に落とされてしまいそうだ」
エマは笑った。先のことなんてまだ分からないけれど、少なくとも明日どうしたいかははっきりした。それだけでも今は十分だ。
「ありがとうございます、神父様」
しっかりと、ハラルドソン司祭の目を捉え、エマは微笑んだ。司祭は頷き、冷たい風の吹き込む窓を閉めた。そして衝立の向こう側へ回ると、振り返り、
「また明日」
そう言って、それぞれ眠りについた。




