第58話 二人の男達(2)
その後、自室へ戻り、エマは頭を抱え込んだ。
ーーー部屋へ来い、ですって?一体、何を考えていらっしゃるのかしら。
エマはどすんとベッドに腰を下ろした。あの一瞬だけ見せた甘い笑顔を思い出すだけで、顔が熱くなって胸がドキドキしてくるようだ。あの笑い方は本当にずるい。世の中の女性達がみんな彼の言いなりになってしまうのも、今となってはよく分かる。
でも、と彼女は大きく深呼吸をすると、ざわめく心を落ち着かせるように目を閉じた。
ーーー身支度を手伝うために部屋へ行くなんて、侍女なら当然のこと。深い意味なんてあるわけないわ。
と、エマは、アダムス司祭の部屋でシグルズが言っていた、「私の部屋に来ればいい」という言葉を、頭の中から追い払うように、首を横に振った。
それに、実際のところ、エマはとても後悔していた。昨晩、シグルズと二人で庭で過ごしてしまったことは、完全な失態だった。仮にも、自分の主人になろうかという人に対して、あんなことなどしていいわけがなかった。あれでは「侍女にふさわしくない」と言われても当然で、彼女は自分の行いをひどく恥じていた。
そっと、唇に指先を当ててみる。ほとんど夢のようだった。澄みきった夜の空気と、ひんやりとした風。暗がりで銀色に見える彼の髪は星屑のように輝いていて、青い瞳が熱っぽく自分を見つめていた。腰を抱く手は強く、重なる唇は熱く柔らかく、香の混じった彼のにおいに頭がくらくらしてーーー。
エマは無意識に視線を横に逸らした。誰が見ているわけでもないのに、恥ずかしくてたまらない。こんなの、駄目に決まっている。いつから自分はこれほど分別のない女になってしまったのだろう。
ーーーそうよ、もしかしたら、やっぱり雇うことはできないとか、一緒に連れていけないとか、そういう話をなさるおつもりかもしれないわ。
そう考えると、今度は急に肝が冷えてくるような気がしてきた。しばらく身分を隠していたせいで忘れかけていたが、何しろ、シグルズは独身の誓いを立てた聖職者なのだ。将来の大司教が女性関係でスキャンダルなんて起こしていいわけがない。
エマはシグルズが高名な司祭様だと思い返すにつれ、ますます深く恥じ入った。
ーーーシグルズ様は誰にでも優しいお方。勘違いしては駄目。一時の雰囲気に流されてしまっては、あの方の元では働けないわ。
エマは気持ちを切り替えるように、パンと頬を両手で叩くと、口を一文字に結び直した。ほんの少し、胸がちくりと痛んだが、気がつかないふりをした。そして、彼の部屋に行く前に少し頭を冷やそうと、アダムス司祭の部屋から持ち出した日記を開き、目を落とした。
パラパラと何頁かめくってみる。あの時、たしかにトールという名前を目にしたはずだった。だが、どこに書いてあったのか、この短い時間でざっと探すだけでは、すぐには見つかりそうになかった。それに、そのトールが本当にエマの知っているトールかどうかも分からない。
でも、試しにある日の一文を読んでみると、日付は大体二十年と少し前。彼女の祖父がまだもう少し若い頃で、彼女自身も生まれる前かどうかという頃だ。
欲しい言葉はなかなか見つからない。しかし、どうやらこの年、ロイ・アダムス司祭はウォーデンに留まっていたらしいことは分かってきた。ラウズカークや、ハンナヴォーといった、ウォーデンの主要都市の名が何度か登場していたからだ。
祖父がその頃ウォーデンにいたのかどうかは分からない。いたとしても旅行ではないだろう。二十年前といえば、ダルヘイムとグリトニー連合王国の間で戦争が起こった時期と重なる。ガン族がその戦いに加勢したと聞いたことはなかったが、一族の長である祖父なら何かしら巻き込まれていたとしてもおかしくはない。
ーーーでも、戦争は国境近くで起こったはずよね。ウォーデンとは真逆だわ。
エマは目を皿のようにして次々頁をめくったが、残念ながら時間切れだった。トントン、と誰かが扉をノックする音が聞こえ、彼女はハッとして、慌てて日記を鞄に隠した。
「エマ、いるか?」
声の主に、エマはホッとして「はい」と返事をした。一瞬、シグルズではないかと思ったのだ。だが、扉を開けてそこに現れたのはアンソニーだった。
彼は少々ばつが悪そうに頭の後ろを掻きながら、いつになくはっきりしない様子で、ボソボソと言った。
「…よかった、まだいたんだな」
ええ、とエマは取り繕うように返事をしながら立ち上がり、つかつかとアンソニーのほうへ歩み寄った。
「何か用?」
アンソニーは一瞬だけエマの目を見ると、すぐ逸らし、どうにも居心地が悪そうに、右へ左へと視線を泳がせている。
エマは怪訝に思って両手を腰に当て、彼の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、何かあったの?」
アンソニーは真っ直ぐにこちらを見つめてくるエマを、ほんの少しだけ照れくさそうに見つめ返すと、小さな声で、
「シャツを」
と、言った。
「明日、着ようと思って。昨日もらっていくのを忘れたから」
アンソニーは言い訳がましく答えた。本当はわざと置いていったのだが、上手く誤魔化して、それらしく聞こえるようにして。案の定、エマは「ああ」と合点がいったように頷くと、ちらりと後ろを見て答えた。
「そうよね、私も忘れていたわ」
そして、サイドテーブルに置きっぱなしになっていた男物のシャツを取り上げると、すぐにこちらに戻ってきて、すっとそれを差し出した。
「ありがとう」
ぎこちなく微笑んだ彼女に、アンソニーはたどたどしく礼を言った。なんとも微妙な空気だ。昨日のことは忘れるという約束だったはずなのに、二人ともまだ心のどこかで引っ掛かっていた。
アンソニーは、はあと、ひとつため息をつくと、観念したように口を開いた。
「その…、シグルズ様の部屋へ行くのか?」
エマは一瞬ぴくりと眉を動かすと、何でもないというふうに、再び腰に手を当て、すました顔で答えた。
「ええ、お呼びですもの」
アンソニーもまた片眉を上げた。そして、彼女と同じように、全然動揺なんてしてないと装って、ぶっきらぼうに言い返した。
「仕事だからな」
「ええ、そう、仕事だから」
そう言って、エマは肩をすくめ、これで用件は終わり?という顔をした。だが、アンソニーは、まだ何か言いたそうに口を開き、その場をなかなか動こうとしなかった。そして、ひどく言いにくそうに、上手い言葉が見つからない、といった具合に顔をしかめながら、ようやく、
「俺も一緒に行こうか?」
と、一言だけ言った。
エマは一瞬、面食らったような顔をして、それから少しその意味を考え、やがて、面白そうに笑い出すと答えた。
「一緒に行くって、シグルズ様の部屋へ?」
アンソニーは肩をすくめた。
「私はかまわないけど…、シグルズ様はどう思うかしら」
くすくす声を上げて笑うエマを見ながら、アンソニーは忌々しそうに唇を噛んだ。本当は、彼女にシグルズの部屋へ行ってほしくなかったのだ。だが、そこに何の意図もなく、侍女として行こうとしている彼女に、嫉妬心から行くなと言うのは公私混同もいいところだ。だから、「行くな」ではなく、「一緒に行こう」になってしまった。保護者じゃあるまいし、なんともとんちんかんな提案だ。
エマは笑っている。久しぶりに自分に向かってこんなふうに笑うのを見た気がする。格好悪い。だけど、笑っている彼女は可愛い。だから、彼は悔しかった。
「きっと、すごく嫌がるだろうな」
と、アンソニーは半ばやけくそのように答えた。エマは「そうね」と頷き、
「まさか、あなたまでついてくるとは思っていないでしょうね」
と、笑いながら言った。
「じゃあ、決まりだ。一緒に行こう」
エマは口元に手を当て、上目遣いでアンソニーを見ながら、こらえきれない笑い声を隠すように答えた。
「分かったわ、今荷物を持ってくる。きっとあの方、寝支度を手伝ってほしいんだと思うの」
「だったら、尚更ついていかなきゃな。おまえが自分の部屋に戻るのを見届けるまで、俺は絶対離れないぞ」
それを聞いて、エマはまた声を上げて笑った。
「あなた、父親にでもなったつもり?」
アンソニーはムッとして答えた。
「おい、俺はシグルズ様よりずっと年下だ。せめて、兄と言ってくれ」
それに、とアンソニーは部屋の外へ出ようとするエマを遮って、ほんの少し切なさを込めた目で彼女を見下ろすと言った。
「ここでは…、夫婦だろ?少しくらい、それらしく振る舞ったっていいじゃないか」
エマはぴたりと立ち止まり、ぐっと近付けられた彼の顔を見た。普段は凛々しい眉がわずかに下がっている。彼の髪は、どうやら彼女に負けず劣らずのくせっ毛のようだ。旅の間に伸びた黒髪がウェーブを描いて揺れている。黒曜石みたいな瞳は、あの双子の幽霊とは違って熱を持ってきらめき、彼女の姿をはっきりと映し出している。
エマは一度目を逸らしたが、再び彼の顔を見ると小さく微笑み、答えた。
「そうだったわね」
そして、無骨な頬にかかった黒髪を耳にかけてやりながら、
「行きましょう、ついでにあなたの髪も整えてあげるわ」
と、言った。アンソニーはホッとしたように微笑み、
「ついでに、は余計だろ」
そう言って、彼女の背中に手をやると、優しく部屋の外へ促し、静かに扉を閉めた。




