第57話 二人の男達(1)
「それで、明日はどのような予定にしますか?」
宿に戻り、食堂の席で、アンソニーはそう口を開いた。目の前には、いつにも増してすごいご馳走が並べられている。一行の帰りを待ち構えていた女将が、シグルズの大盤振る舞いに感謝して腕をふるったのだ。
「そうだな、ここからなら一度ストールヘブンに戻って船に乗るのが一番早いのだが、そう上手くつかまるかどうか…」
と、シグルズは女将が差し出したゴブレットを受け取ると答えた。中に注がれた液体は無色透明だが、水ではない、独特のハーブと蒸留酒の匂いがする。
「これは飲んだことがあるぞ。サンクレール家の宴会で出てきた酒だ」
シグルズはあの時の、見た目は何てことないのに、飲むと喉が焼けるように熱くなるきつい酒のことを思い出した。それからついでに、成金商人の派手な娘達のことも。
「この辺りで最近人気のお酒なんですよ。命の水っていうんです。なんでも、昔は修道院の秘密のレシピだったとか。本当は夏至祭の時までとっておくつもりだったんですけど、何やら皆様もう帰っちまうような話じゃないですか」
シグルズは揺れる透明の液体を覗き込みながら頷き、香りを確かめると、ごくっと一口喉に流し込んだ。体の中からひりひりする飲み心地と独特の後味に顔をしかめたが、あらかじめ分かっていればそうひどくない。むしろ慣れれば癖になりそうな味わいだ。
女将は大きく息をつきながら続けて言った。
「神父様のこと、伯爵様に嘆願してくださるって町の連中に聞きましたよ。本当に、何から何まで世話になりっぱなしで…、ねえ、あんた」
いつの間にか女将の背後にやって来ていた宿屋の主人が、うなだれた様子で「ああ」と返事をした。
「こんな高貴な方々がこの町に来ることなんて滅多にないもんで。色々お見苦しいところをお見せしました」
と、主人は脂ぎった額を下に向けて、しおらしく頭を下げた。女将から相当なお灸を据えられたのか、いつもよりずっと元気がないように見える。髪の薄い頭には擦り傷までできていた。
「嘆願するといっても、口添え程度に一筆書くだけだ。別に俺が直接伯爵に言ってやろうってわけじゃない」
と、アンソニーは答えた。
「それに、こちらのお二人は急用でこれから王都へお帰りになるんだ。だから、俺達もお供しなくちゃならない。残念だが、しばらくお別れだ」
「ええ、ええ、もちろんですとも」
女将は頷いた。
「誰も皆様にこれ以上ご迷惑をおかけしようなんて思っちゃいませんよ。来てくださっただけで、こっちはありがたいんですから。お偉い方々はお金儲けと戦争のことしか考えてないと思ってたけど、そうじゃない方々もいらしたんだねえ」
あら、いけない、口が滑っちゃったかしら、と女将は慌てて口元を押さえ、笑って誤魔化した。シグルズはゴブレットを持った手で女将を指し示しながら、にやりと口の端を上げて、
「違いない」
と、答えた。女将は嬉しそうに笑い返すと、夫のほうに視線を投げ掛けながら言った。
「王都へ行く船のことなんですがね」
宿屋の主人も頷くと、妻に続けて話した。
「知り合いの商人が、もうそろそろ商売に出る時期なんですよ。旦那方も乗せてもらえるように話を通しておきましょう。結構立派な船でね、馬も乗るんじゃねえかなと思いますが」
「それは助かる」
間髪入れず、シグルズは顔を輝かせて答えた。アンソニーは、信用して大丈夫なのかと疑わしげな目を彼らに向けた。だが、女将は少々頬を上気させながら、しゃなりとして答えた。
「その人のことなら、私もよく知っていますよ。毛織物商です。王都だけじゃなく、西のギャラルストーンでも商売していて、高名な貴族の方々もたくさん顧客リストに名を連ねているようですよ」
シグルズは頷いた。ダルヘイム北部の羊毛は一級品だ。また、年間通して南部よりも気温の低いこの地域で暮らす人々は、古くから高い羊毛加工の技術を持っていて、特にタペストリーは寒々しい石の壁を美しく隠す芸術品として貴族達に重宝されている。
それから、もちろん羊毛は服地にもなる。ただ、北部の人々は、その気候の厳しさから、滑らかで繊細な織物にするよりも、暖を求めてショールやニットにしてしまう。だから、北の商人のほとんどは原料を都市部に持ち込み、工場に卸すことで利益を得ていた。
「この時期は織物より毛のほうが多いかもしれねえな。何しろ毛刈りが終わったばかりでしょうから。少々狭いかもしれませんが、その辺りは大目に見てくだせえ」
と、主人は付け足した。
そういうわけで、フォートヒルへ戻る算段もついて、一行はヘルギの最後の夜を存分に飲み食いして楽しんだ。
女将は相変わらず、次から次へと物凄い量の食事を運んできて、テーブルの上はさながら大宴会の様相を呈していた。肉や魚やチーズや、裏庭の菜園でとれた野菜、それから果物、最終的には大きなケーキが丸々一個、特製のミックスベリージャムとともに運ばれてきて、誰もが今日は何の日だったっけと考えずにはいられなかった。だが、もちろん、魅惑的なケーキとジャムの匂いに抗える者はなく、全員できっちりと分け合って食べた。
エマはお城の宴会よりすごいご馳走だわ、と思った。彼女は、何度かサザーランド家の夜会に出席したことはあるものの、何しろ緊張と周囲の視線が気になって居心地が悪く、どんなに素晴らしいディナーを目の前にしても、ちっとも食欲なんて沸かなかったからだ。でも、今は存分に食べたい気分だった。考えなければならないことは山ほどあるけれど、誰かと一緒に楽しく食卓を囲めることは幸せだ。
やがて、ついに腹も膨れて、もうこれ以上は何も入らないとなった頃、シグルズはようやくお開きにしようと立ち上がった。
「素晴らしい食事だった。だが、明日の移動に備えて、そろそろ休むとしよう」
そして、口元を拭い、やれやれと緩慢な動作で立ち上がると、椅子の背に掛けておいた上着を取り、席を立った。それを見たケネスも、黙って立ち上がり上司の後を追い、アンソニーもジョッキに少々残っていたエールをぐいっと一息に飲み干すと立ち上がった。
「お休みなさいませ」
奥から女将が出てきて頭を下げた。シグルズは立ち止まり、言葉通り、山程の料理を作って彼らの腹を満たした女将の労をねぎらった。女将は慎ましく、その言葉を受け取り満足そうにしていた。
それから、シグルズは振り返ってエマの姿を探した。彼女は今まさに散らかった椅子をテーブルに押し込み、慌てて彼らについて行こうとしていたところだった。
シグルズはふっと微笑むと、彼女のほうへ戻ってきて、皆が見ている前で堂々と耳打ちした。
「後で私の部屋に来るように」
一瞬、彼女のエメラルド色の瞳が大きく見開かれ、彼の海のような不思議な青い瞳とぶつかった。時が止まったような感じだった。皆がこちらを見ていた。
ーーーまた、この目だわ。
心臓が一度だけ、どくんと鳴った。動揺したエマは即座に返事をすることができなかった。だが、シグルズは彼女の返事を待つこともなく、甘さを含んだ笑みを少しだけ見せると、先に階上へ上がっていってしまった。拒むことなどあり得ないと、彼の目がそう言っていた。
男達はぞろぞろと上へ引き上げていった。だが、女将は、階段を上る途中のアンソニーが、物凄い形相でシグルズを背後から睨み付けているのを見逃さなかった。
そういえば、以前にも、この男がそんな顔をしているのを見たことがあったっけと、女将は思い出していた。エマが悪い商人に拐われたと知ったあの晩だ。だがあの時は、同じように恐い顔をしていても、もっと取り乱した様子だった。彼女を失うかもしれないという、恐怖も入り交じったような表情だった。それが、今はまるで嫉妬に狂った一人の男の顔に見える。そして、女将は昨晩、宿の裏庭から、一人だったはずの彼女が金髪の男と戻ってきたことも知っていた。
なんてことだろう!これはまた、えらく面倒な男達に好かれちまったもんだね。
何の言葉も返せないまま、下を向いて椅子を片付け食堂を立ち去ろうとしている彼女に、女将はすっと近寄ると小声で話し掛けた。
「どんな事情があるのか知りませんけどね、何があっても私はあなたの味方ですよ」
そして、ぽんぽんと、大きくふくよかな手でエマの肩を叩くと、女将はそっと厨房の奥へと消えていった。




