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《狭間の国》のエマ ~捨て駒令嬢と蛇の神父様  作者: 夜中メグ
第二章

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第55話 足跡を辿って(2)

 もうすぐ日が暮れようとしている。夏の夜は始まるのが遅く、終わるのも早い。太陽はいつまでも頭上でさんさんと輝いているので、下手をすると時間の感覚を忘れてしまう。白い陽光が色をつけ始め、オレンジ色になって西側を照らすようになったら、それはもう随分遅い時間ということになる。もう少ししたら、夜のお告げの鐘が鳴るだろう。

 エマはハッとして立ち上がった。


「どうした、何かあったのか?」


 背後から、ベッドに半身を起こして座っていたシグルズが笑いながら声をかけた。


「いえ、なんでもありません」


 エマは恥ずかしくなって、再び静かに椅子に腰掛けた。つい日記を読むのに没頭してしまって、シグルズとケネスがいたことを忘れていたのだ。ケネスはちらりとこちらに目をやるだけで、我関せずといった様子でマイペースに読書を続けている。傍らには読み終わって山と積まれた本と、その上にちょんと置かれたカップと皿。気を利かせたナルが、三人に軽食を持ってきたのだ。


「どうだ、何か分かったことはあったか?」


 上着もブーツも脱ぎ捨てて、ベッドにだらしない格好で埋もれていたシグルズが、裸足のままこちらにやって来て尋ねた。よく見たらシャツのボタンも胸元まで開いている。こんなひどい身なりでもどこか品の良い色気を感じてしまうのは、この人のずるいところだとエマは思った。自分の父が同じようにして近寄ってきたら、すぐに「服を着てちょうだい!」と怒鳴ってしまうところなのに。

 エマはなるべく目を合わせないようにしながら、首を横に振った。


「何も、何も見つかりません」


 シグルズが、ひとつに束ねたプラチナブロンドの髪をさらさらと肩越しに落としながら、エマの手元を覗き込んでくる。喉仏のある首と、その下のごつごつとした鎖骨が上等なシャツの隙間からちらりと見えて、エマは頬を赤らめた。

 何もない、というのは嘘ではなかった。エマはロイ・アダムスの日記を古い順から漏れのないように目を通していたが、書いてある内容のほとんどは期待外れだった。もっと、彼の三人の子供たちーーー蛇と、狼と、死の乙女、彼らについて書かれていると思っていたのに、その中身といえば、天気や、作物の出来、家畜の様子、町の人々の暮らし、読んだ本の感想など、およそ三百年もの間生きている不死の男の書くことではないように思えた。

 私でも書けそうだわ、とエマは嘆息した。だが、それでもやはり、時々は家族のことも綴られていた。多くはあの双子の幽霊、ナルとヴィーの働きぶりについてだが、稀に妻も登場した。それは亡き妻への渇望にも似た想いで、エマは心を揺さぶられた。あの男は本当に妻を愛していたのだ。元は大司教という立場を忘れて、一人の女を愛するただの男がそこにいるような気がした。

 ただし、悲しいことに、年を追うごとにその妻を想う一節は消えていった。日記を書き始めた初期の頃は毎日のように書かれていたのが、数ヶ月後には一日置きに、半年後には数日置き、そして一年後には一週間に一度、三年後には月に一度、という具合に確実に減っていた。試しにざっと飛ばして百年前の日記を開いてみると、そこにはもう全く彼女が存在する気配はなく、旅日記のようなものに様変わりしていた。


ーーー当然よね。私だってもうお母様のことを毎日思い出しているわけじゃないもの。


 それでも、三百年という途方もなく長い年月の間に、愛した女を忘れ、永遠ともいえる人生を孤独に生きるあの男の気持ちを思うと、エマは胸が苦しくなってたまらなかった。


「大丈夫か?顔色があまり良くないな。疲れたのではないか?」


 シグルズがそっと彼女の髪をかき上げながら、気遣わしげに言った。

 エマは彼の青い瞳を見た。一瞬、彼がロイ・アダムスに重なって見えた。顔も、声も、瞳の色も、全然似ていないのに。


「そうかもしれません」


 エマは誤魔化すように目を逸らすと答えた。夕焼けに染まる小さな窓の向こうに、教会の門が見える。田畑の合間を縫って、馬に跨がった一人の男がこちらに向かってきていた。


「アンソニーだ。戻ったのだな」


 と、シグルズが言った。アンソニーが町役場に話をしに行ったと聞いたのは、昼前のことだったか。


「上手く話をつけてきたのなら良いが」


 そう言いながら、上手くいったに決まってると信頼しきった顔でシグルズは呟いた。


「行こう。今日はもうお開きだ。宿に帰ろう」


 シグルズはベッドに腰掛けてブーツを履いた。それを見たケネスも、やれやれといった表情で本を閉じ、立ち上がる。


「ここが気に入ったなら、おまえは戻らなくてもいいぞ」


と、シグルズは悪戯っぽく笑いながら言った。ケネスは嘲るような目で上司を見ると、


「そうしたいのは山々なんですがね、生憎、最近はお目付け役がいないとすぐに品を欠く行為をする方々がいらっしゃるので」


と、意味深にエマのほうに視線を送りながら答えた。エマは身構えたが、シグルズは大袈裟に肩をすくめて笑い飛ばした。


「おいおい、まさか今夜は私と一緒に寝るとか言い出すんじゃないだろうな。勘弁してくれよ」


 ケネスはじっとりとした目で上司を見た。


「そんなの、こちらから願い下げですよ。ただでさえ、昨夜は面倒くさい男のせいで寝不足なんです。今夜は一部屋増やしてもらいましょう」


「その必要はない」


 シグルズはすっとエマのほうへ近寄ると、彼女の肩を抱き寄せ、こめかみにキスをして言った。


「あなたが私の部屋に来ればいい」


 逆でもいいかな、とシグルズは甘い声色で囁いた。エマの顔は、今にも火が吹き出しそうなほど真っ赤になった。

 ケネスは恐ろしく冷たい目で睨み付けながら言った。


「私の話を聞いていましたか?」


 聞いていたとも、とシグルズは大手を振って答えた。


「お目付け役が必要なんだろう?まさか覗きが趣味とは思わなかったが、おまえがそうしたいなら仕方ない」


「そんなわけないでしょう」


 ケネスは頭を抱えた。アンソニーがこの主人にいかに苦労しているのか、よく分かる気がした。彼に関する数々の問題の中で、最も厄介なのは、輝くような美貌でも、社会的地位でも何でもない。かといって、ああ言えばこう言う、この口減らずな態度自体でもない。子供みたいに悪気のない言い逃れやわがままも、この男なら許せてしまうというのが一番の問題だった。

 その上、時にお人好しで、頑固で、優柔不断で、放っておけば自分一人で何もかも背負ってしまう。良くも悪くも、目が離せない人間なのだ、シグルズという男は。


「もう結構です、早く下へ降りましょう。あなたの従者が待っていますよ」


と言うと、ケネスは部屋の扉を開けて外へ出ていった。「そうだな」とシグルズは上着を片手に答えた。


「あまり待たせると、また怒られてしまうな」


 最近、あいつ怒りっぽいんだよな、とシグルズは苦笑いしながら付け足した。誰のせいですか、とケネスは冷たい視線を上司に向けた。

 さっさと退室していく二人の男の後ろ姿を見ながら、エマは慌てて片付けをしていた。散らかした本を適当に端に寄せ、ナルが持ってきたカップや皿をひとまとめに籠に詰め込んだ。だが、あまりにも急いでいたので、彼女は肘で本を数冊、床に落としてしまった。後で読もうと思って机に積んでいた、ロイ・アダムスの日記だった。


「ああ」


 エマは苛立ちながら、しかしそのままにはしておけないので、仕方なく籠を置いて日記を拾い集めた。元の場所に戻しておくのを忘れた自分が悪い。エマはため息をつきながら、散らばってしまったそれらを集め、机の下にきちんと順番に揃えて入れた。

 ところが、その中の一冊に彼女は目を奪われてしまった。それは落下の衝撃で開いて床に落ちていて、彼女は何気なくそこに書かれていた文章を読んだだけだった。

 彼女は膝をついてそれを手にとった。緑色の、エメラルドのような瞳が大きく見開かれた。信じられないといった面持ちで、彼女の目はそれに釘付けになった。


「なぜ、おじいさまの名前が書かれているの…?」


 その時、背後から人の気配を感じて、エマは慌てて日記を閉じた。


「エマ、大丈夫か?何をしている?」


 シグルズだった。彼女がなかなかついてこないので、気になって戻ってきたのだ。


「なんでもありません、本を落としてしまって」


と言って、エマは読んでいた日記を背中に隠し、立ち上がった。


「そうか、手伝おう」


 シグルズは穏やかに笑うと、腰を落とし、散らばった日記を拾い集めた。そして、全部まとめて片手に抱えると、「しまいづらいな」なんて文句を言いながら机の下に突っ込んだ。エマは申し訳なさそうに、「ありがとうございます」と答えた。後ろ手に、隠していた一冊を、服の下にごそごそと潜り込ませていた。


「おいで、暗くなってきた。手を」


 そう言って、シグルズは自分の上着と食器の入った籠をひょいと持ち上げると、片方の手をエマに差し出した。エマは頬を赤らめながら、遠慮がちにその手をとった。シグルズは嬉しそうに微笑むと、しっかりと彼女の手を握ってロイ・アダムスの秘密の書庫を出て、暗くて狭い螺旋階段を彼女とともに降りていった。

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