第54話 足跡を辿って(1)
「どうかなさったのですか」
日の光が細く差し込む、狭くて埃っぽい書庫で、シグルズは手元の本を開いたまま、小さな窓の外をぼんやりと眺めていた。
奇妙な双子の幽霊が退室してから、彼らはずっとこのアダムス司祭の部屋にこもっている。いまだ謎だらけの、ロイ・アダムスとその子孫の呪いの系譜について、何か理解を深めることはできないかと探っているのだ。
「いや、なんでもない」
と、シグルズは答えた。長い金色の睫を伏せ、再び手元の本に目を落とすが、どこか心ここにあらずといった様子だ。エマは嘆息して、それ以上は何も聞かずに自身の作業に没頭することにした。
司祭の部屋は本の山だ。どこから手をつけたら良いのか分からない。最も怪しいのは日記だが、何しろ三百年分もあるのだ。これを最初から最後まで読もうと思ったら、ひと夏まるまる使ったって足りないだろう。
その上、彼女の高貴な仲間達は一致団結とは程遠く、一人は頭痛がするといってどこかへ消え、一人は自分の好奇心を満たす本しか読まず、さらに残りの一人はこの有り様だ。もはや誰も頼りにならない。仕方なく、エマは一人でせっせとロイ・アダムスの三百年分の日記と格闘していた。
「もっと早くここに来ていれば…」
ふと、シグルズの呟くような声が聞こえ、エマは顔を上げた。本に埋もれていたカウチを発掘して腰掛けていたケネスも、わずかにちらりと目を上げた。
二人の視線に気がついたシグルズは、誤魔化すように小さく笑うと言った。
「すまない、独り言だ。色々と考えてしまってな」
「伯爵のことですか」
ケネスが尋ねると、シグルズは本を胸の上に伏せて頷いた。大きく息をついて、散らかったベッドに深く沈み込む。行儀悪くブーツを足先で脱ぎ捨てると、エマが立ち上がって靴を揃えにやって来た。
「倒れる前にここに来ていれば、何か変わっていたのかと」
シグルズは寝そべりながら、靴の汚れを払い、きれいに整えて置いていたエマを手招きすると言った。
「何も変わりませんよ」
と、ケネスは興味なさそうに答えた。
「伯爵が倒れたことと、ロイ・アダムスは無関係です。遅かれ早かれ、そうなるさだめだったのですよ」
「そうかな」
シグルズは求めに応じて側に寄ってきたエマを見上げて微笑み、手を伸ばした。エマも困ったように笑い返した。シグルズは彼女の手を握った。
「そうですよ。過去を振り返ってぐずぐずするのはやめていただけませんか。気が散るでしょう」
背後からケネスの軽蔑するような視線を感じる。シグルズは「冷たい奴だ」と文句を言いながらも笑っている。
「たまには愚痴をこぼしたっていいだろう」
「あなたはそればかりなんですよ。物思いに耽っている暇があるなら、働いたらどうですか」
「父上の顔が浮かんできて、集中できない」
「そのお父上は一体どんなお顔であなたを見るでしょうね。いい大人が聞いて呆れます」
「良い顔はしてないだろうな」
「でしょうね」
ケネスは肩をすくめた。エマは何も言わず、ただ黙って苦笑していた。シグルズも本当に困った顔はしていなかった。
「ひとつ私から助言するとしたら」
と、ケネスは言った。シグルズはエマの腰に手を回し、自分のほうへ引き寄せようとしていた。
「後悔先に立たず。人の忠告はよく聞くことです。その手をお離しなさい」
シグルズはちらりと横目でケネスを見た。バランスを崩したエマが、ベッドの横で膝をつき、主に覆い被さるような格好になっている。
もうちょっとだったのに。シグルズは鼻先まで迫っていたエマの顔が離れていくのを渋々見送った。エマは真っ赤になって眉を吊り上げながら、
「お疲れなのでは?」
と、声を上げた。
「そうかもしれない。昨日はあなたを想うあまり、よく眠れなかった」
シグルズは名残惜しそうに手を伸ばしながら、笑って答えた。エマはキッと睨み付けると、彼の胸の横に滑り落ちた本を拾い上げた。毒薬に関する本だ。彼女はちらりとシグルズを見た。彼は頭の後ろで手を組んで、彼女を見つめている。なんともいえない、穏やかでいて、切なさと悲しみの混じった眼差しだ。
エマはため息をついて、本を広げるとシグルズの顔の上に伏せて置いた。
「少しお休みください」
この格好で?とシグルズは心の中で尋ねた。分厚い本に遮られて視界が真っ暗だ。それに、古書にありがちの、湿気てカビ臭いにおいがする。
「眠れば少しすっきりしますから」
そう言って、エマは埃っぽい毛布を引っ張り出してバサバサと叩くと、彼の胸の上にかけた。
シグルズは黙って目を閉じた。たしかに少し眠い気がする。顔の上に乗っているのが毒薬の本というのは妙な気分だが、狭い部屋の小さなベッドで、エマや仲間の気配を感じながらうとうとするのは心地が良い。
エマは腰に手を当て、息をついて微笑んだ。ケネスはもう、自分だけの世界に戻っていた。
彼女は振り返って、日記の詰め込まれたオークの机を眺めてみた。改めて見てもすごい量だ。目眩がしてくるほどの。アンソニーが恐れをなして逃げ出したのも、分からなくもない。
だが、途方に暮れていても仕方がないので、エマは再び椅子に腰掛けた。何か、たった一文でもいいから、これからの旅の助けになることが書かれていないかと期待していた。
***
一方、教会の裏手では、アンソニーと双子のナルとヴィーが人々の様子を伺っていた。
「しつこい人達ですね、司祭様はいないって言ってるのに」
ヴィーが暗闇色の目をぐるりと回しながら言った。
「仕方ないだろう。前触れもなく突然消えたりしたら、そりゃみんな驚くに決まってる。しかも金を持ち逃げされた連中もいるんだ。黙ってなんかいられないだろう」
と、アンソニーは答えた。
あれから少し時間が経ち、教会に詰め掛けた町の人々の大半は諦めて帰ったが、それでもまだ何人かは残ってうろうろしていた。ヴィーがしっかりと門を閉じて錠を下ろしたために、人々は教会の敷地内にまで入ってくることはなかったが、それも時間の問題と思われた。なぜなら、残った人々の多くは金品を教会に寄付していたので、それを取り返すまでは到底諦めそうになかったからだ。
「うーん、たしかに、急にいなくなったのは良くなかったかもしれません」
「そうだろう」
「今まで旅に出るときは、ちゃんと理由をつけてから行くようにしてたんです。だから、こんなふうに騒ぎになったのは初めてです」
そうか、とアンソニーは頷いた。
「あの男は、ずっとここにいたわけじゃないんだな」
ヴィーは小馬鹿にするように肩をすくめて答えた。
「当たり前でしょう。年をとらない人間が三百年もずっと同じところで暮らしていたらおかしいじゃないですか」
「まあ、たしかに」
少々むっとしながらも、アンソニーは納得して頷いた。ヴィーはナルと顔を付き合わせ、確認しながら説明を続けた。
「だからというわけではありませんが、父上は何年か司祭を続けると何年かは旅に出て、また戻ってきては司祭をして、また出かけて、を繰り返しているのです」
アンソニーは疑惑の目を二人に向けた。
「金は?まさか、毎回町の連中から巻き上げてるわけじゃないだろうな」
「さあ」
「さあっ、て…」
ヴィーはそんなの知らないと言わんばかりの表情で答えた。
「あの通り、父上は頭も良いし、口も達者ですから、お金なんて何とかなるんでしょう」
それに、男前ですしね。ヴィーは自慢気に腰に手を当てた。アンソニーはがっくりと肩を落とした。まるで詐欺師じゃないか。なんで聖職者には、こうもろくな奴がいないのだろう。
アンソニーの胸中など知るよしもないヴィーは、ちらちらと門の前で話し合いをしている人々を見ながら続けた。
「しばらくは様子を見ておきましょう。そのうちお役人達が来るかもしれませんが」
「そうしたらどうするんだ?」
ヴィーはじっとアンソニーを見上げた。なぜだか嫌な予感がして、彼は首を横に振って声を荒げた。
「俺はやらないぞ!」
「なぜです?あなただって狼の血を引く者でしょう。家族のようなものじゃないですか」
「誰が家族だ!気味の悪いことを言うな!」
「僕の心臓から送り出された血液があなたの中にも流れてる」
「やめろって!」
「お願いします」
ヴィーはずいっとアンソニーに顔を近付け、迫った。暗闇色の光のない瞳が、瞬きひとつせず、食い入るようにこちらを見つめている。彼らの正体を知ってしまった今、それは見れば見るほど不気味で、アンソニーはたじろいだ。
「あなたのほうから、何か上手く言ってください。僕達はここから出られないし、このまま門を破られて、教会を壊されたりしたら困るんです」
そう言うヴィーの目は切実で、アンソニーは関わりたくないと思いながらも断れなかった。それに、ナルもすがるような顔でじっとこちらを見ていたので、こうも正面から二人の幽霊に詰め寄られては、彼にはなすすべもなかった。
アンソニーは別棟の三階を見上げた。あそこには今、エマと二人の男達がいる。まだ下りてこないところを見ると、あれからずっと呪いを解くための手掛かりを探しているのだろう。そんなものが本当にあるのかどうか、あったとしても探し出すのにどれほどの時間がかかるのか、彼には全く見当もつかなかったが、あの部屋を荒らされては困るなということだけははっきりしていた。
「わかったよ」
アンソニーはため息をつきながら言った。
「町役場に行って話をつけてくる」
「本当ですか!?」
ヴィーとナルは目を輝かせた。といっても、彼らの目には光などなかったので、そういうふうに見えたというだけの話だが。
「ありがとうございます!」
二人は両手を握り合わせて喜んだ。なんだか妙な気分だった。どうして俺は幽霊なんかに協力しようとしているんだ?
だが、どうせあの三人はまだまだ下りてこないだろうし、いつまでもこの双子の相手をしているのも気が引ける。このヴィーという奴は、幽霊のくせして、とにかくよく喋るのだ。ナルも一人で相手をするのは大変だろう。声を失ったのがヴィーならよかったのに。
ちらりとナルのほうを見やると、彼は嬉しさの中にもちょっぴり申し訳ないという気持ちを滲ませて、控えめにこちらを見ていた。
思った通りだ。やっぱり常識がありそうなのはこっちのほうだ。幽霊に常識を求めるのもおかしいけれど。
「あなたは血筋や呪いのことはあまり気にしていないのですね」
と、馬を連れ出し、出掛ける支度をするアンソニーを見つめながらヴィーは言った。
「他のお仲間はみんな父上の部屋に興味津々なのに」
アンソニーはふいっと顔を背けると、素っ気なく答えた。
「別に気にしてないわけじゃない」
そして、ひらりと馬に跨がると、続けて言った。
「ただ、興味ない。それだけだ」
アンソニーは馬を歩かせ、門のほうへ向かった。ナルが急いで走っていって、錠を上げて片方を開放した。険しい顔で話し合いをしていた人々は、一斉に彼を見た。
アンソニーは敷地の外に出ると言った。
「俺はメイウェザー家のアンソニーだ。ここにいてもあなた達の財産は戻ってこない。一緒に町へ戻って役場に話をしに行こう」




