第53話 ロジャー、ハラルドソン家の男
フォートヒルの、目も眩むような白銀色の美しい邸宅で、ロジャー・ハラルドソンは一つ大きなくしゃみをした。
「大丈夫ですか、お風邪では?」
ビロードのゆったりとしたカウチに腰掛け、両隣に座る小さな男の子二人に絵本を読み聞かせていた女が、気遣わしげに声を上げた。
「うーん…、これは兄上が噂をしているな」
ロジャーは鼻の下をこすりながら苦笑した。
「お義兄様が?」
女は言った。そうだ、とロジャーは立ち上がりながら答えた。
大きな両開きの窓を開き、外の芳しい空気を胸に吸い込む。今朝は抜けるような青空だ。心地よい風が若き主人の頬を撫でる。
「今はどちらにいらっしゃるのかしら。そのお手紙は、お義兄様からのものなのでしょう」
ああ、とロジャーは手に握っていた一通の便りに視線を落として答えた。
「兄上はまだガンヒースにいるらしい。サンクレール家の例の反乱騒ぎで出立が遅れたのだと」
「まあ」
「近頃は何かと物騒だ。これ以上、余計なことに首を突っ込む前に、早く旅程をこなして帰ってきてくれれば良いが」
「ご心配ですのね」
女はくすくすと笑いながら言った。ロジャーは肩をすくめた。
「おまえも知っているだろう、兄上のあの性格を。面倒事から目を逸らすということを知らないんだ。要領が悪いのか何なのか、なんでも真面目に受け止めすぎて、とにかく全てに時間がかかる」
「ええ、存じております。だからこそ、あの二人が旅に同行したのでは?」
「そうなのだが」
ロジャーは苛立たしげに手紙を眺めながら、顎に当てた指先をとんとんと動かした。
ともに旅をしているのは、従者と部下の、二人の顔見知りの男だけだと目の前の女は思っている。だが、実際はそうではないとロジャーは知っていた。
王権派の、北部では最も有力な一族であるサザーランド家で起こった殺人事件。その被疑者である領地の娘をアダム・ゴードンの依頼で逃がしたところまではまだ良かった。法に抵触してはいるものの、王権派の貴族に恩を売っておいて損はない。
だが、問題はその先だ。逃がした女をどこかに置いてくればよかったものを、真面目すぎる兄上はそのまま一緒に連れ回している。それがどんな醜聞になろうかなど考えもしないで。いつの間にか巡礼の旅に女がいた、なんて、貞潔な貴婦人には絶対に言えないことだ。
「だが、さすがに、そろそろ戻ってくる頃合いだろう。あまり長く王都を空けすぎるのも良くない。ただでさえ、国王陛下は兄上がお側を離れることを嫌がっておいでだったのだ」
「良い知らせはありまして?」
「ない、今のところは」
ロジャーは気を取り直し、穏やかな笑みを浮かべながら、カウチに腰掛ける妻子にゆっくりと歩み寄った。同じブルネットの髪に、よく似た、知的そうなダークブラウンの瞳をした三人が並んで座っている様はとても愛おしい。
男の子二人は兄弟だ。兄のほうは既に字を覚え始め、絵本などの物語に興味津々だが、弟はまだ小さすぎて理解できない。母の膝によじ登り、しきりに美しい装丁の本に手を伸ばしては破ろうとするので、兄はいつも気が気ではなかった。
ロジャーは今もまた長男のお気に入りの一冊を台無しにしようとしている小さな次男を抱き上げ、そのぷっくりとした頬をつついてたしなめた。
「駄目だぞ、兄様が泣くだろう」
「泣きません、僕はもう大きいのです」
そう言う彼の目元は既にじんわり赤くなっている。ロジャーは笑いながら、部屋に入ってきた乳母に次男を手渡した。
「ピクニックのご用意ができました」
と、さらに乳母の背後から侍女達が並んで頭を下げる。
「よろしい」
と、ロジャーは言った。
「父上は行かないのですか」
カウチからぴょんと飛び降りて、長男が尋ねた。
「ああ、残念だが私は行けない。やらなくちゃならないことが山ほどあるんだ。母上と皆で行っておいで」
長男はこくりと頷き、
「早くおじさまが帰ってくるといいですね。そうしたら父上も一緒にピクニックに行けるでしょう」
と、言った。そうだな、とロジャーは笑って頷いた。
「楽しんでおいで。喧嘩はするなよ」
「はい、父上」
「あなたも、あまりご無理なさいませんように。この頃ずいぶん働き詰めですもの」
「ああ、肝に命じておくよ」
そう言うと、妻はにっこりと微笑み、賑やかな子供達を連れて部屋から出ていった。最後に侍女の一人が深々と頭を下げて、夫妻の部屋の扉は静かに閉められた。
ロジャーは、やれやれと息を吐き出すと、それまで妻と子供達に占領されていたビロードのカウチにごろんと転がった。細やかな細工が施された、美しい天井をぼんやりと眺める。豪華なシャンデリアが日に照らされ、火を灯しているわけでもないのに煌めいていた。
彼の兄であるシグルズ・ハラルドソンが巡礼と称した旅に出てから、もうどれほどの時が経っただろうか。いつの間にか季節は変わり、もうすぐ夏になろうとしている。
今、ハラルドソン家の若き次期当主は、伯爵の称号を得るべく、その準備を急いでいた。
通常、爵位を継ぐことができるのは、成年に達していて、なおかつ現在保持している者がいなくなったときーーーつまり、亡くなった場合に限られている。だが、ロジャーはその掟を覆し、現ハラルドソン伯爵が存命にも関わらず、爵位を得ようとしていた。シグルズとロジャーの父、レナード・ハラルドソン伯爵は、もう一年以上眠ったまま目を覚ましていなかった。
折よく、北のガンヒースの地からはサンクレール家の未成年の当主ジョージ・サンクレールによる反乱鎮圧の報が届き、ダルヘイム国王は彼を伯爵に叙することを決めた。そこでロジャーも、この機に乗じて、同じように慣例を破り、自分も伯爵の位をいただいてやろうと考えたわけだ。そして、この企みはすんなりと受け入れられた。国王としても、王権派の筆頭貴族であるハラルドソン伯爵の不在は痛手だったからである。
ところが、当然ながらこの両家の特例措置ともいえる叙爵に異を唱える者達がいた。メイウェザー家とそれに与する一派だ。
彼らは法を遵守すべきと王に訴えたが、王はやむを得ぬ事情は汲むべきだと一方的に突っぱねた。叙爵は君主の専権事項なので、彼らはそれ以上の反論はできなかったが、不満は残った。
分かりきっていたことではあったものの、ロジャーは頭が痛かった。だが、だからといって、このまま政治をメイウェザー家の思い通りに進めさせるわけにもいかない。爵位は必要だ。健全な国家運営のためにも。
ロジャーは立ち上がると、マホガニーの美しいデスクの前に腰掛け、おもむろにペンをとった。そして、さらさらと慣れた手つきで簡潔に手紙をしたためると、中が見えないように折り畳んで、蝋をたらし、指に嵌められたシグネットリングをしっかりと押し付け、最後にベルを鳴らした。
「お呼びでしょうか」
慇懃な態度で側仕えの使用人がやって来る。ロジャーは執事を呼ばせると、彼に、今しがた書いたばかりの手紙を手渡した。
「これを」
執事の男は恭しく頭を下げて、黙ってそれを受け取った。宛名は「S」差出人は「R」のみだったが、それが何を意味するのか、先代からこの屋敷で勤めてきた熟練の家令は既に充分承知していた。
「国王陛下がお呼びです。至急、王城へ上がるようにと」
「またか」
ロジャーは大袈裟に肩をすくめた。
「国境地帯の小競り合いが頻発化していることについて、大臣達を集めて会議を開くそうです。若旦那様にも是非ご臨席たまわりたいとのことで」
「そんな優しい言い方じゃないだろう。連れてこいと、素直にそう言えばいい」
執事の男は何も言わずに、後から入ってきた侍女達に上着を着せられている主人をじっと見つめた。
「まあ、いいさ。兄上もいない、アダム・ゴードンも今は領地を離れられない。サンクレール家もあてにならない。孤独な国王陛下は私を頼るしかないのさ」
一人の侍女がてきぱきとスカーフを絞め、もう一人が彼の濃いブロンドの髪をブラシできっちりと整えると、ロジャーは香水を振りかけようとする侍女を手で制して部屋を出た。
執事の男は手紙を手に持ったまま、黙って主人の後を追った。長い廊下を闊歩する先々で、何十人もいる使用人達が皆仕事の手を止めては二人に頭を下げる。
「母上はまた父上のところに?」
ロジャーが尋ねると、執事は「さようでございます」と短く答えた。ロジャーは頷いた。
ハラルドソン家の女主人は、当主が倒れてからずっと飽きることなく夫に付き添い続けていた。目を覚ますでもなく、かといって、やつれて死人のようになっていくでもなく、まるで魔法にかけられて時が止まってしまったかのようなハラルドソン家の当主。
これも蛇の呪いだろうかと、シグルズとロジャーは幾度も考えた。だが、まだ死んではいない。呪いは完成していないのだ。ロジャーの兄シグルズが、重い腰を上げ、ようやく旅に出ようと決心したのも、そんな父の突然の病がきっかけだった。
唯一の救いといえば、先の見えない病床にあっても、母が嘆き悲しむことなく変わらず気丈に振る舞っているということだろうか。
しかし、それもハラルドソン家の女主人ゆえに、弱音を吐くことができないからだと、ロジャーは分かっていた。
「お体に障ることのないよう、気をつけて見ておいてくれ。母上まで倒れられたら、かなわんからな」
と、ロジャーは言って、吹き抜けの明るい、青い絨毯敷きの階段を小走りで駆け降りた。そして、ホールみたいに広々としたエントランスを抜けると、既に扉の前には二頭立ての馬車が待機していた。
「今晩は戻れぬと、オリヴィアに」
「かしこまりました」
馬車に乗り込み、ベンチに腰掛けると、扉が閉められ、ステップが外された。
ロジャーは前を向いた。御者が手綱を操り、毛づやの良い輓馬が静かに歩き出したかと思うと、徐々に速度を上げて屋敷の外へ出て行った。
執事の男は主人の乗った馬車が門をくぐるのを見届けるより前に、下男を呼びつけ、託された手紙を一枚の銀貨と共に手渡した。下男はそれらを受け取ると、深々と頭を下げて、手紙を懐にしまいこんでどこかに去っていった。そして再び、執事は屋敷に戻り、ハラルドソン家には静寂が訪れた。




