第51話 いなくなった司祭(3)
ヴィーとナル、同じ顔かたちの二人を先頭に、彼らは通用口を通って別棟へ向かい、厨房のある一階を横目に奥へと突き進んでいった。
別棟は荘厳な礼拝堂とは違って、さほど広くはないし、さらに古めかしくて質素だった。剥き出しの無垢の木材は黒く変色して埃が積もり、誰も掃除などしていない様子だ。
主がいなくなったせいか、厨房は火の気がなくがらんとしている。かちこちになったパンや、朝届けられたミルク、リンゴやチーズなどが、冷え冷えとテーブルの上に置かれたままになっていた。
「こちらです」
と言って、ヴィーは頭を屈めないと入れないような、建て付けの悪い小さな木の扉の前に一行を案内した。扉を開けると、そこは入るのをためらうほどの、狭くて真っ暗な階段棟だった。
足元をかさこそと大きな蜘蛛が這い出してくる。埃っぽく、湿気のこもったような嫌なにおいがした。
「足元にお気をつけて」
と言って、ヴィーとナルは慣れた様子ですいすいと上に上がっていく。
シグルズは体を半分に屈めて中に潜り込むと、これはえらいところに来てしまったなと思った。中は採光がほとんどないだけでなく、一人が歩くのもやっとという狭さだ。《嘆きの塔》も狭いなと感じていたが、ここはその比ではない。おまけに一段一段がとても小さく足全部が乗りきらない上に、崖のように急だった。まるで、小人の住処か何かのようだ。
前を行くシグルズが、すっとエマに手を差し出した。美しく洗練された所作と、自分に向けられた、わずかに甘さを含む微笑みに、彼女は頬を赤らめた。
おずおずと、その手を取る。彼はしっかりと彼女の手を握り、力強くエスコートした。ケネスは素知らぬ顔で後に続き、アンソニーは口を固く結んで二人を見つめ、黙っていた。
それから、ぐるぐると螺旋階段を上りに上り、二階を通り過ぎ、三階までやって来ると、エマは感嘆の声をもらした。やっとのことで扉をくぐった先は、おびただしい蔵書の数々だった。
「これらは全て、あの人の持ち物です」
言葉を失う面々をよそに、ヴィーが腕を組んで得意気に言った。光の差し込む部屋の中に、天井高くまでぎっしりと積み込まれた本の数々が、溢れ出さんばかりの勢いで一行を出迎えた。
そこは、司祭の私室だった。部屋中を埋めつくし、机の上にも山と積まれ、壁が見えないほどずらりと並べられた、本、本、本。決して広くはない部屋に、これでもかというほどぎゅうぎゅうに詰め込まれ、それだけでは足りなかったのか、床の上にも無造作に散らばっている。
おかげで四人の大人が歩くスペースはほとんどなく、隅のほうには申し訳程度に質素なベッドが置かれていたが、その上にもまた本が乗っていた。この部屋の主は、本を布団代わりに眠っているのだろうか。いや、もしかしたら、本のためのベッドなのかも。
「すごいわ!まるで世界中の本が全てこの部屋の中にあるみたい」
と、エマは顔を輝かせながら言った。ヴィーは、うんうんと頷きながら答えた。
「そうでしょう。あの人は日々の儀式の傍らで、このように世界中の書物を集め研究し、熱心に教育活動もされておいでなのです。子供達のために学校も開いているんですよ。他に類を見ない、素晴らしい神父様なのです」
分かっていただけましたか、と鼻高々なヴィーをよそに、一行は司祭の私室に興味津々だった。見慣れない文字の、読めない外国の本を開いては首を傾げて閉じ、古今東西、色とりどりの書物の宝庫に、エマはすっかり心奪われていた。
それは、シグルズやケネスも同様で、この埃っぽくて狭苦しい部屋より、はるかに広くて美しい図書室など、彼らはいくらでも知っていたが、それでも百年、二百年ーーーいや、それよりもっと前の年代の、貴重な書物が無造作に紛れ込んでいる蔵書コレクションには驚きを隠せなかった。
「驚いたな、これはすごい」
シグルズは感心したように呟いた。珍しく、ケネスまでもが賞賛の声をもらし、
「本当に、これはなかなかのものですね」
と、答えた。アンソニーは頭を抱え、
「頭痛がしてきた」
と、言った。
「これは何かしら」
ふと、エマが机の下にずらりと並べられた、何百冊もあろうかという、同じような色の小さな冊子を一つ取り出すと呟いた。
「あ、それは!」
ヴィーが声を上げた。エマが開いたそれは、本というよりは、何かを記録したようなものだった。
「日記…?」
ヴィーが彼女の背後で慌てふためく。部屋の入口では、ナルがハラハラした様子でこちらの様子をうかがっていた。
エマは一枚、また一枚と、頁をめくってみた。几帳面な細い字で、日付とその日の出来事が簡単に記されている。エマは目を見開いた。
「司祭様の?」
「そうです」
観念したように、ヴィーは答えた。
「すごいわ、こんなにたくさん!全て歴代司祭様のものかしら」
エマは机の下を覗き込み、尋ねた。決して広くはない、その足元のスペースにぎっしりと、そして、溢れ出して入りきらなくなったものが横に積まれ、さらには木箱の中にも同じようなものがパンパンに詰め込まれていた。
「まさか!ここにあるものは全てあの人のものと言ったでしょう」
「これ全部をあの方が?すごい量だわ」
「当然です、三百年分の日記ですから」
一同はそろってヴィーを見た。
「なんです?」
「いや、あなたはロイ・アダムス司祭のことをよく知っているのだなと思って」
シグルズが肩をすくめて言った。どうやら、ロイ・アダムスが三百年生きているという、作り話のような馬鹿馬鹿しい設定は、ここでは公然の事実のようだった。ヴィーはせせら笑うように彼を見ると、答えた。
「当たり前じゃないですか。あの人は、ああ見えてマメなんです。でも、私もこの日記は初めて見ました。すごいなあ」
と、ヴィーはするするとエマの横に近づき、彼女の手元で開かれた秘密の本を興味深そうに覗き込んだ。
エマは、少年の小さな黒い頭が、自分の肩先に触れるか触れないかの距離までやって来たので、何気なく彼に視線を落とした。特に意味はなかった。ただ、来たから見ただけ、それだけだった。
だが、その瞬間、エマは強烈な違和感を感じた。何か、見てはいけないものを見てしまったときのように、ドクンと大きく胸が鼓動して、背筋が凍りつき、緊張に冷や汗が流れ落ちた。
ヴィーは暗闇色の瞳を真ん丸にして、面白そうに日記を見ていた。もし、普通の子供がそんなふうに本を眺めていたら、誰もが微笑ましく思うものだろう。だが、目の前の少年は、同じように笑っていても、どこか不気味で奇妙だった。まるで、人ではないものを見ているかのように。
「うわっ、この日はすごくたくさん書いてあるぞ!
ーーー今夜は新月だ。月明かりのない真っ暗な夜に、火をともしてペンをとっていると、あなたのことを思い出す。炎に抱かれ、眠りに落ちたその日…、愛しいあなたを一人苦しませてしまったことを私は後悔しているーーー」
ヴィーは言葉に詰まると、項垂れた。そして、小さな声でたしかにはっきりと呟いた
「…母上」
と。シグルズ達は目を見開いた。
「なんだって?」
だが、その時、突然エマが日記を机の上に放り投げたかと思うと、いきなりヴィーの胸に抱きついた。ヴィーは驚き「ひゃっ」と小さな悲鳴を上げ、傍にいたシグルズもぎょっとして二人を見下ろした。エマは少年が離れていかないように、腕でしっかりと彼の背中を押さえ、膝をつき、顔の横をぴったりと彼の胸にくっつけた。
「あ、あの、何を…」
戸惑うヴィーを「静かに」と制して、エマは目を閉じた。まるで何かを感じようとするかのように。そして、じっとしたまま彼女は耳を澄ませた。
シグルズは呆気にとられたような顔つきで彼女を見下ろしながら、まだ自分もこんなふうに抱きつかれたことなんてないのになあ、なんて考えていた。アンソニーは、俺はありますけどね、と小馬鹿にしたような目で主人を見ていた。
「やっぱり、思った通りだわ」
エマは、ゆっくりと体を起こしながら言った。
「あなた、心臓がないのね」




