第49話 いなくなった司祭(1)
「なんだって、司祭がいない!?」
準備万端の馬達を横に、さあ出発といったところで、表通りのほうからそんな声が飛び込んできた。
「へえ、今朝いつも通りミルクを届けようと思って教会に行ったら、礼拝堂の扉がぴっちりと閉まってたんで、ナルに聞いたんでさ」
と、腰の曲がった農夫が言った。ナルというのは、ロイ・アダムスの元で働いていた下男のことだ。
「お宅も知っての通り、あの神父様が来なすってから、教会の扉はいつも開いていたでしょう。気の良い神父様でさ、偉ぶったとこなんかどこにもなくて、いつでもどうぞって、おっしゃってたじゃないですか。なのに、今日は天気も良いのに開いてなかったから、もしかしたらご病気かなんかじゃないかと思いまして。そしたら、今朝から行方不明だってんで、わしゃ腰を抜かしちまいましたよ」
おお、いてて。そう言いながら、農夫の男は片手で腰をさすった。
騒ぎを聞き付けたシグルズ達は、馬を引き連れながらそこへ現れた。玄関先では、宿屋の主人が真っ青な顔をして、わなわなと指先を震わせて項垂れていた。農夫の男は、いかにも高貴な人々が急にぞろぞろ現れたので驚き、慌てて帽子をとってしわくちゃに丸めて胸に隠すと頭を垂れた。
「主人、いったい何の騒ぎだ?司祭がいないとか何とか聞こえた気がしたが…」
はい、と宿屋の主人も丸い額から脂汗をたっぷりと滲ませ、口ごもった。顔から首までびっしょり汗に濡れているのに、彼の顔面は蒼白だ。とんでもないことが起こったと、体全体で訴えているようだった。
「ちょっとちょっと、今の話本当かい!?」
すると、中からバンと扉を開けて、勢いよく女将が場に現れた。宿屋の主人はびくりと肩を震わせ、後ずさるように一歩二歩と後ろに下がった。
「本当ですよ」
と、農夫はびくびくしながら答えた。
「ナルに聞いたんで、間違いありやせん。お告げの鐘はいつもあいつが鳴らしてますでしょ。起き出した頃にはもうもぬけの殻だったって、夜明け前には出ていったんじゃねえかって話でさ」
「嘘だ、嘘だ!」
宿屋の主人は頭を抱えた。その姿を見た女将は声を荒げた。
「ぎゃあぎゃあ騒ぐんじゃないよ、みっともない!だからあたしは言ったんですよ、あの神父様は胡散臭い、信用ならないって。なのに、あんたときたらあんなたくさんのお金を渡しちまって!」
シグルズ達は目を見開いて、互いに顔を見合わせた。
「だって、彫刻師を呼ぶのに必要だっておっしゃるから!寄付してくれれば見返りにうちの宿の名を刻印してくださるって話だったんだ!」
「なあにが刻印だい!すっからかんにしちまって!それで飯が食っていけんのかい!彫刻師が来るのをその目で見たって言うのかい?」
「いや、この前は近々来るとしか…。王都から呼び寄せるんで、時間がかかるとおっしゃって」
「騙されたんだよ!」
女将は頭を抱えた。
「だから言わんこっちゃない!あんたは人を見る目がないんだよ!いい加減、愛想が尽きたよ」
農夫の男は、町の中でも一際顔のきく宿屋夫妻が目の前で言い争うのを見て、おずおずと後ろに下がると、しわくちゃの帽子を頭に乗せ、慌てて自分の家へ帰っていった。
「まあまあ」
と、シグルズは外向きの笑みを浮かべながら間に入った。
「二人とも、言い争うのはやめなさい。皆が見ていますよ」
女将は、眩しいほど美しい貴人と、遠くからこちらをちらちら窺う町人達を見て、ため息をついた。そして、腰に手を当て居直ると、シグルズのほうを向いて言った。
「お恥ずかしいところをお見せしました。聞いてのとおりです。神父様がいなくなって、うちは寄付金を持ち逃げされました。もう、どうしたらいいものか」
女将は額に手を当てた。宿屋の主人が気遣わしげに妻の肩を抱こうとしたが、女将はバシッとその手を払って睨み付けた。
「それは大変だな」
シグルズは顎に手を当てた。アンソニーとエマ、ケネスも彼らのほうへ近寄ってきた。
「俺達も今日、また教会へ行くつもりだったんだ。何か、いなくなった理由とか、行きそうなところとか、心当たりはないか?」
アンソニーが尋ねた。夫妻は顔を見合わせ、
「行き先なんて分かりやしませんよ。でも、いなくなった訳ならなんとなく、ねえ」
女将は夫のほうに視線を向けた。宿屋の主人は手拭いで汗を拭きながら答えた。
「旦那みたいな物知りならご存知かもしれないが、あの《名もなき教会》は正式な教会ではないんです。大司教様に、ひいては教皇庁に認められなければ、それは教会ではない、そうでしょう?」
一同は頷いた。
「だから、あそこの教会で働くのは、とても勇気がいることなんです。今までも、私の父や祖父の時代も、時々、志ある神父様はいらしてましたが、どなたも皆長続きなんてしないで出ていっちまう。仕方ないんですよ、教会と認められてないから、徴税もできない。勝手に取り立てをしたり、寄付を受けたりしたら、それは我々で言うところの違法営業と同じなんですよ」
「つまり、あなたが寄付金を渡したから、本物の教会が目をつけたと?」
シグルズが口を挟んだ。
「うちだけじゃないですよ!他にも色々納めていたもんはたくさんいます。さっきの男だって、その一人じゃないですか。毎朝ミルクを届けてやってたんだから」
宿屋の主人は声を大にして訴えた。
「だけどね、何もしないなんてできるわけないじゃないですか。罰せられるかもしれないと承知で来てくださってるのに、見て見ぬふりなんてできますか?こっちはね、ありがたいと思ってるんですよ。神父様がいなけりゃ、私達みたいな庶民は神様の声なんて聞こえやしないんだから」
そうかもしれない、とシグルズは嘆息した。人々にとって、教会は心のよりどころだ。この国で生きる人は皆、生まれた瞬間から死ぬ間際までーーーいや、死んだ後だって、ずっと神に導かれていると信じているのだ。だから、神と人々の間をとりもつ神父が身近にいないというのは由々しき問題だった。
エマはちらりとシグルズを見上げた。本当は司祭であるシグルズは、困った人々を放っておけないだろう。ロイ・アダムスがいなくなったらなら自分が、と思っているかもしれない。だが、今のシグルズは身の安全のために司祭であることを隠している。それはケネスも同じだ。
ケネスがシグルズを見て、はっきりと首を横に振るのが見えた。上司の意向を察した上で、駄目だと言っているのだ。シグルズは仕方なさそうに頷いた。
「あなた方の事情は分かった。王都に知り合いの良い彫刻師がいるから、近々呼び寄せよう。失ってしまった金は取り戻せないが、今回の滞在で大変良くしていただいたから、謝礼ははずむ。それで良いか?」
宿屋の夫妻は目を真ん丸に見開いて顔を輝かせ、ほとんどひれ伏すようにしてシグルズに礼を述べた。
「ありがとうございます、旦那様!なんとお礼を申し上げたらよいか」
「いいんだ。私達はこれから教会へ行って様子を見てこよう」
と言って、シグルズは一行を促し、馬に跨がるとゆっくり教会に向けて進み出した。
「さっきの話、どう思いました?」
道すがら、アンソニーが後ろからシグルズに話しかけた。
司祭がいなくなったという噂は瞬く間に町中に広まり、シグルズ達が歩みを進める最中も、横から何人かの町人達が騒ぎ立てながら北へ走って行くのが見えた。
「教会に目をつけられたという話か?」
ええ、とアンソニーは頷いた。
「この教区の大司教様はスチュワート様でしょう。こう言っちゃなんですが、あの方はすごく俗っぽいお方です。仮にあの自称司祭が金品を受け取っていたとして、それを理由に追い出したりするでしょうか。あの方なら、黙認してやるから分け前を半分よこせ、くらい言いそうです」
「たしかにな」
シグルズは苦笑した。
最後にサザーランド家の屋敷で顔を合わせてから、もうすぐ二ヶ月になるだろうか。あの恰幅の良い、いかにも権力者面した、狸のような男の顔を思い出す。スチュワート大司教は女好きで、金儲けが趣味のような意地汚い男だ。だが、同時に世渡り上手で、抜け目ないところもある。
だからこそ、あの男はサザーランド邸でウィルダネス家の跡取りが殺されたとき、アダム・ゴードンと共謀してシグルズとエマを逃がすことを選んだ。見返りに、どれだけの寄付金を伯爵家から受け取ったか、考えるだけでも頭が痛い。
そして、教区の徴税だけでなく、布教活動の責任者でもある大司教は、同時に各町の教会に司祭を派遣する人事部長でもある。
公式の教会がないヘルギの町は、フレイスヴァーグの歴代大司教にとって悩みの種だったに違いない。三百年前の因縁があるから、教皇庁はヘルギの《名もなき教会》を認めてくれない。かといって、新しい教会を建設するにはお金もかかる。巨額の資金を投入して新事業を始めるほど、ヘルギは豊かな税収の見込める町ではない。
だから、頭の良いスチュワート大司教なら、こう考えていたはずだ。
頼みもしていないのに、自ら働いてくれるなんてありがたい。どうぞ勝手にやってくれたまえ。その代わり、上納金は八割だ!
「八割はさすがに取りすぎだろう」
シグルズはアンソニーの見解に失笑した。
「そうですか?俺はそれくらい言いそうだなと思ってますが」
「私も、もし自分が同じ立場なら八割取りますね」
「おいおい、二人とも過激だなあ。まるで大司教が人でなしみたいな言い方じゃないか」
「違うんですか?」
大真面目に切り返してくる二人に、シグルズは言葉を失った。まいったな、出世しづらくなってしまったではないか。
そんな彼らのやり取りを、エマは聞かないふりをしながら、黙って最後尾からついていった。
「やっぱり、あいつはペテン師だと思いますね」
と、アンソニーが言った。
「都合が悪くなったんで、逃げ出したんですよ、きっと。宿屋の女将だって言ってたじゃないですか、寄付金を持ち逃げされたって」
シグルズは肯定も否定もせず、ただ首を傾げた。
「そうだろうか。私には、他に何か理由があって教会を去ったとしか思えないのだが」
教会の尖塔が近付いてきた。ヘルギの町の人々が、こぞって門扉に集まり騒いでいる。群衆の前には、一人の少年がいる。鉄格子のような頑丈そうな門をぴったりと閉じ、人々の声を黙って聞いていた。
「行ってみよう」
一行は、ゆっくりと彼らに向かって歩いていった。




