第48話 始まりの朝に
ーーーそれは突然やってくる。
***
白っぽい朝日が真っ直ぐに窓から顔に飛び込んできて、エマは眩しさに目を細めた。
朝だ。起きなければ。
エマは毛布を払いのけ、むくりと体を起こすと、立ち上がり、靴下とペチコートを履いてコルセットを身に付けた。
まだ眠たくてぼんやりとした頭でも、紐を通すこの作業は手慣れたものだ。彼女のような、使用人を何人も雇うことができない貧乏貴族の娘は、当然ながらコルセットだって自分で締める。
エマは両手で紐をぎゅっと引っ張りながら、途中で水を飲んでは、徐々に寝ぼけた頭を起こしていった。
ローランにいた頃は、服の着方でよくマーサに怒られていたっけ。
エマは窮屈なのが好きじゃない。だから、コルセットもいつも緩めにしか絞らない。彼女のお目付け役でもあったマーサは、よく「もっと女性らしく」と言っていたものだけど、幼い頃からお転婆で痩せっぽっちだったエマは、大人になっても女性らしい体とは無縁で、背も高いし、胸も腰も魅惑的に、とはいかなかった。
ないものはしょうがないじゃない。エマはするするとコルセットの紐を通しながら、いつも通り淡々と身支度を済ませていった。スカートを履き、ベルトを締めて、上衣を羽織る。夏至が近付き、そろそろこの服も暑くなってきた。
廊下に出て、後ろ手に静かに扉を閉める。緊張した面持ちで左右を見渡すが、まだ誰も出てきていない。エマはふうと息をついた。
「おはよう」
片方の扉が開き、仏頂面のアンソニーが出てきた。寝不足なのか、目が充血していて、心なしか隈もあるように見える。
「おはよう」
エマはドキドキしながら返事をした。アンソニーはちらりとこちらを見やると、すぐに顔を背けて、黙って階下に降りていった。
「傷心なのですよ」
後から出てきたケネスが言った。
「おはようございます、ケネス様。今朝はお早いのですね」
ケネスはエマに気のない視線を投げ掛けると、
「昨夜は女将と随分楽しくお過ごしだったようですね。おかげでこちらはうるさくて眠れませんでしたよ」
と言った。すみません、とエマは萎縮しながら答えた。
「別にあなたが誰と飲んだくれていようと、どこにいようとかまいませんがね、少しは私達のことも考えてくれないと困りますね」
エマは恐縮して押し黙った。
「そんなに意地の悪いことを言うものではないぞ」
すると、扉を開け、シグルズが現れた。今朝の主人達は皆早起きだ。普段なら今ごろはまだ布団の中でぐずぐずしていて、身支度も一人ではしないというのに、今日に限っては違うらしい。寂れた町の、オンボロの宿には似つかわしくない、まさに優雅な貴公子のような出で立ちで、彼は部屋から出てきた。
途端、エマはパッと顔を背け、俯いた。きれいに整えられたプラチナブロンドの長い髪が、朝の白い光の中で一層明るく輝いて見える。
ケネスは肩をすくめた。
「どうせシグルズ様にはお分かりにならないでしょう」
と言って、無愛想な顔つきで、アンソニーの後を追って階下へ降りていった。去り際に、じろりと睨まれた気がして、エマはますます縮こまった。
「朝から絶好調だな」
シグルズはエマの隣に来ると、階段を下りていく部下の頭を見てせせら笑った。エマは気恥ずかしくて、なんとなくシグルズと距離を取りたくなったが、彼は無遠慮に彼女の顔を前から覗き込むと、さも当然のように、腰を抱き寄せてキスをした。
「シグルズ様!」
エマは彼の胸を押しのけ、顔を両手で覆った。シグルズはにこにこと嬉しそうに笑っている。その美しさといったら、世の中の女性達をまとめて千人は殺せそうなくらいの甘い笑顔だ。エマの顔は一瞬にして火がつきそうなほど熱くなった。
シグルズは身をよじらせる彼女の肩を絶対に離すまいと、しっかりと抱き寄せたまま、耳元に唇を寄せて囁いた。
「朝のあなたは特別美しい。昨夜は暗くてよく見えなかった。あなたの顔が見たい」
と、甘い言葉で、顔を隠すエマの手を無理やり引き剥がそうとするので、彼女はもう半分涙目になりながら、なんとか彼の腕から脱け出すと、慌てて階段を駆け下りたのであった。
シグルズはそんな彼女の姿を笑いながら、愛しげな目で見送った。
「それで、また教会へ行くって?凝りもせず?」
パンを頬張りながら、アンソニーは不機嫌そうに尋ねた。
四人は食堂で揃って朝食をとっていた。宿屋は金はかかるが、食事と寝床は何もせずとも用意されているのが良いところだ。おかげでエマとアンソニーは主人達とゆっくり食事をとることができる。
だが、彼は朝からずっと機嫌が悪かった。正確には昨日の夜からだ。昨夜、せっかく意を決してエマの部屋を訪ねたのに、彼女は不在だった上、シャツも取り戻せず、おまけに不貞腐れて部屋に戻るとケネスが大の字になってベッドを独占して眠っていたとあって、今朝の気分は最悪だった。
おかげで彼は一晩中固い床の上で雑魚寝をすることになったし、しかも女将と一緒にいたはずのエマが、なぜか夜半過ぎになってシグルズと共に戻ってきた気配がしたので、彼はとうとう朝までろくに眠ることができなかったのだ。
「ロイ・アダムスに聞きたいことがあるのだ。食事を終えたらすぐに行こうと思う」
と、従者の胸のうちなど知りもしないシグルズは言った。アンソニーはぶっきらぼうに答えた。
「これ以上、一体何を聞くって言うんです?昨夜の情報だけで、俺にとってはうんざりするくらいでしたけど」
「あれだけでは全然足りない。分からないことだらけなんだ。せっかくここまで来たのだから、帰る前に洗いざらい白状させたい」
「尋問でもするつもりですか。俺はもう、正直言ってあの男には関わりたくないんですがね」
「気が乗らないなら、おまえは留守番していてもいいぞ。ただし、今度はケネスとだ」
「えっ」
アンソニーは言葉に詰まった。ケネスは隙のない動作で食事をしながら、すました顔のまま答えた。
「私も行きますよ、気は乗りませんが。またこの男と二人きりになるくらいなら、教会にでも行って信仰心を高めたほうが百倍マシです。尋問するなら私にお任せを」
尋問はしない、とシグルズは苦笑しながら答えた。アンソニーはあからさまにため息をついた。エマはそんな彼にちらりと視線を送ったが、見られていることに気がついた彼は何も言わずに目を逸らし、エールをぐびぐびと喉に流し込んだ。
「それじゃあ、馬を用意してきますよ。あいつらも昨日の午後からずっと繋がれたままだから、そろそろ動きたくなっている頃でしょう」
と言って、アンソニーはさっさと食事を終えると、最後にドンと空になった巨大なジョッキをテーブルに置いて立ち上がった。
エマは退室する同僚を見て、慌てて腰を浮かせると、食べるのもそこそこに急いで片付けて彼の後を追った。背後でケネスが「慌ただしい人達ですね」と肩をすくめていた。
「私も手伝うわ」
朝の裏庭は、真っ暗だった昨日の様子とは一変して、きらきらと陽光が差し込み美しかった。眠っていた鶏達は夜明けと同時に起きて騒ぎ出し、今朝の卵は人間達の朝ごはんになった。数頭の山羊が柵の中でうろうろと歩いては草をはみ、一方では人参やキャベツやケール、それにラベンダーやタイム、セージなどのハーブ類が菜園にきれいに並んで収穫されるのを待っている。まるで、故郷の家の庭そっくりだ。ただし、ローランでは家の裏手にあるのは川ではなく、だだっ広い野原と羊の群れだ。
アンソニーは、既にきれいに掃除された馬房の中で、宿屋の下男とともに馬達の蹄の具合を確認し合っていた。
「飼い付けとブラッシングはしておきました」
ありがとう、とアンソニーがいつもの明瞭な声で男に言っているのが聞こえた。男は宿屋夫妻の息子だろうか。気の良さそうな赤ら顔で、腕まくりをして、既に足元は泥だらけだった。
下男はふとこちらに気がつくと、帽子をちょいと上げてエマに会釈をし、どこかに消えていった。
エマは黙って井戸へ向かうと、桶に水を汲んでアンソニーの側にずしっと置いた。
「そんなに汚れてない。ここへ来たきり、どこにも行っていないから」
と、アンソニーは素っ気ない態度で言った。
そう、とエマは答えた。何が直接彼の気を悪くしたのかは分からないが、昨日から少しぎくしゃくしているのは確かだ。でも、仕事は仕事だし、喧嘩したからといって何もしないわけにはいかないので、エマは四頭の立派な馬達を、彼とは反対側から順に見ていくことにした。
アンソニーは、そんな彼女の姿を見て、密かにため息をついた。
「ごめん、なんでもないんだ。ただの八つ当たりだ」
と、彼はエマのほうを向いて、吐き出すように言った。そう、誰も悪くなかった。ただ、彼が一方的に空回りして、勝手に不機嫌になっただけだった。
子供みたいな感情に振り回されている自分が嫌になって、アンソニーはそれだけ言うと蹄の手入れに戻った。そろそろ削ってやったほうがいい頃だ。彼は腰のポーチからやすりを取り出すと、ガリガリと蹄を擦り始めた。
エマは馬の脚をそっと下ろすと、彼のほうへ近寄り言った。
「まだ、昨日のことを怒っているんじゃないかと思ったの」
アンソニーは一瞬動きを止めたが、顔を上げることなく作業を続けた。
「私、あなたの話をちゃんと聞かなかったことを後悔しているわ」
「聞いたからって、俺の機嫌は変わらないと思うよ」
アンソニーは屈んだまま、彼女を見上げると答えた。
「この話はもう、なしにしよう。俺も態度を改める。だから、おまえももう気を遣わなくていい」
わかったわ。そう言って、エマは嘆息すると彼から離れ、手入れを待つ馬の元へ戻った。それから二人は黙々と作業を続け、二人の貴人達が食事を終える頃には、すっかり出掛ける準備は整っていた。




