夫の不倫相手が友人夫婦の娘の女子高生だった話
包丁で肉を切っているとき、着信音が鳴った。
「やっとかかってきた」口の中で小さく言うと、汚れた手を拭いて、手ぬぐいをエプロンのポケットにしまった。
リビングに向かうと、付けっぱなしのテレビのニュース番組からは、今昼未明に起こった人質立てこもり事件の続報が映る。それを横目に見ながら、テーブルに置いていた携帯電話を取り上げ、通話ボタンを押す。
「聞いてよ。夫が不倫したの。しかも相手は未成年で、それが親しかった夫婦の娘だったの」
そう言うと、奥野美穂は勢いよく話し出した。
※
同じパートのお友達がいたの。
亮が小学校へ上がって、美琴が保育園に入って、自分の時間ができたから、近所の会社で10時から15時まで週5日で働きに出るようになったのよ。でも、自分の時間ができたと言っても、亮の学校の行事が入ったり、美琴が熱を出したり、不意にシフトを休まないといけない日もあるじゃない?
職場で、「息子の学校の行事があるので休ませてください」、「娘が熱を出したと保育園から連絡があったので早退させてください」と言うたびに、周りがいやな顔するでしょう。
でもそんな中、「うちにも、もう大きいけれど子供がいるから、子育ての大変さはわかるもの。気にしないで」なんてさ、笑顔で言ってくれる人がいたの。万里子さんっていうんだけど。
家も近所だったから、休日にお互いに家族連れで会ったときに、挨拶をするようになって、そこから立ち話もするようになって。
向こうのご主人と、うちの夫の趣味が、野球観戦で応援しているチームも一緒だったから、「昨日の試合は良かったですね」「今年のオフに村田、杉内を補強するみたいですよ」とか、会うたびに話が弾んじゃってさあ。
夫同士が仲良くなると話は早くて、週末にお互いの家に集まって夕飯を食べたり、家族ぐるみで仲良くなったのよね。
万里子さんは、私の六歳年上で四十二歳だったの。ほら、月九で主人公の母親役をやっている女優さんいるでしょう。あの人に似てた。もともと小学校の先生をやっていて、そこでご主人と出会って結婚して、子供ができて教員の仕事はやめたんだって。
規律を守る人で、朝は二十分前に来るし、誰かが仕事でミスをすると口答えできない威厳ある態度で注意するし、教師と聞いて納得したわ。
「教員の免許を持っているのに事務のパートなんてもったいない。復職しないの?」と聞いたら、「教員は短時間のパートだと雇ってもらえるところは少ないの。結婚後のことを考えて、薬剤師や歯科衛生士をとればよかったわ」と嘆いていた。
万里子さんには十歳年上の高志さんというご主人がいて、来年の四月に教頭先生になることが決まっていると、誇らしそうに言っていたのよね。夫の昇進を機会にパートの仕事はやめるのかと聞いたら、「体を動かすのも働くのも好きだから辞めるつもりはない」と言っていた。えらいな、と思ったわよ。私は働くのがあんまり好きじゃないもの。あははは。
高志さんはね、いかにも昭和の頑固親父っていう人だったわ。食事会のときに、夫が台所仕事を手伝おうとすると「男はそんなことはしなくていい」と制するし、私が高志さんの意見に反したことを言ったときは「女のくせに」と小声で捨て台詞を吐かれたこともあった。でも基本的には明るくて陽気だし、悪い人ではないのよ?
万里子さんと高志さんには、凛ちゃんという十六歳になる高校生の娘がいたの。髪が明るくて制服のスカートも短くて……なんてタイプじゃないのよ?
いまどき珍しい、黒髪で、制服のスカートも学校の規定の丈からいじっていないひざ丈で垢抜けないタイプ。パートの帰りに外で会うと、「美穂さん、こんにちは」と笑顔で挨拶してくれるし、買い物の帰りだったら荷物を半分持って一緒にマンションの近くまで運んでくれるし、家族ぐるみの食事会では料理を運ぶのや片づけるのを手伝いながら、うちの子供たちの遊び相手もしてくれるし、見た目の派手さが微塵もない垢抜けなさも相まって、まさに大人が思うような”ザ・いい子”といった感じなの。
だから、その子が夫の不倫相手と知ったときには、驚愕したのよね……。
夫の行動が怪しいな、と思ったのは、不倫された後に思い返せばいろいろあるのよ。
ある日を境に、機嫌が良くなるというよりか、もはやそういうのも超えて浮き足が立っているというか、毎日が楽しそうになって、私や子供にも驚くほど優しくなってさ。
笑顔で「おはよう!」「ただいま!」なんて気持ちのいい挨拶はするし、仕事の帰り道にきれいだったからってお花を買ってきてくれることもあって。
私はそれがね、嬉しかったの。幸せだって思っていたのよ。バカでしょ? 未成年と恋愛して、その喜びなのか、罪滅ぼしなのかで優しくする男に心の底から喜んでいたの。
でも、その反面で、携帯電話を肌身離さず握りしめるようになって……。昔から夫は始終マナーモードにする人で、呼び出し音が聞こえないから私にはわからないんだけど、メールが来たのか、電話がきたのか、携帯電話を持ったまま、ソーっとリビングからだれもいない別の部屋に移ることが増えたり、そんな風に夫が携帯電話を持ってリビングから離れた時に子供たちが騒いでいると、これまでは怒ることなんてなかったのに、「うるさい! 仕事の文面が思いつかないから静かにして!」と怒鳴ることがあったり。
今思えば、不倫相手と連絡を取って、子供のうるささにキレるくらい、必死に愛の返信を考えていたのよね。
不倫を知ってから思い返せば、おかしなところや変わったところはたくさんあるけれど、当時はまったく気づかなかったの。
発覚するきっかけは、女性の影とかそんなのではなくて、夫にお金を盗まれたことから。
情けないでしょう? うちは、私もパートに出て共働きをしているくらいだし、給料も多くはなかったから、夫婦ともに月一万円のお小遣い制でやっていたの。
夫はお酒もタバコもやらないし、野球観戦が趣味だけれど人混みは好きではないから球場にも足を運ばないし、月一万円でも使い道に困っていたけれど、不倫をはじめてからそれだと足りなくなったのね。
私の生活費用の財布やプライベート用の財布から、お金がなくなることがたびたび出てきて。最初は子供たちがゲームやお菓子を買うために盗んだのかと考えたけれど、持ち物や行動を見るにそういうわけではなさそう。
でも、まさか夫が盗んでいるとは思わなかったから、お金がなくなることを相談したら、「気のせいじゃないのか? 使ったのに忘れているんじゃないのか?」とか「亮がやったんじゃないのか? この間、カードゲームが欲しいと言っていたぞ」とか「防犯をもっとしっかりしたほうがいいかもな。もしまたなにかあるようだったら警察に行こう」こんなことをシレっと言ってさ。
こうして思い返せば、私の物忘れのせいにするのもバカにされているし、子供のせいにするのもひどすぎるし、夫は嘘を隠すために変わったのよね。
その後も、玄関も窓も戸締りをしているのに、お金が変わらずに盗まれて、一家の大黒柱を疑いたくなかったけれど、さすがに「おかしいな。まさかね……?」と夫に疑惑の目を向けるようになって、夫がお風呂に入っているすきに財布をのぞいたのよ。
この時には、ただお金の行方が気になっていただけで、不倫なんて頭にはなくて、ギャンブルとか投資詐欺とかに騙されていないよね、という不安だったの。
夫も初めて不倫をしたので慣れてなかったことや私も夫が不倫をするなんて疑ったことがなかったから、結婚して八年ほど経つけれど財布や携帯を見たことが一度もなくて。だから油断していたのね。
財布をのぞいたら、奥側にあるフリーポケットに、カフェのレシート、映画館や水族館のチケット、ラブホテルのポイントカードやそのラブホテルのレシートが、思い出を大切にするかのように丁寧に折られて入れられていた。
女性と撮ったプリクラもあって、宇宙人みたいに目が大きくなっていたから、これが夫かどうか一瞬わからないくらいで、相手の女性も判別不能だったけれど、プリクラの文字には「結婚しよう」「ロミオとジュリエット」と書かれていた。
これらを眺めているうちに、あ……不倫していたのか……と理解したの。
もしも浮気を疑って調べていたなら、多少の心構えもできていたけれど、なんの疑いもなく、むしろ「なんでお金がなくなるんだろう? へんなことに巻き込まれていないよね?」という不安で調べていたから、あまりにも不意打ちで、曲がり角から出てきた人に唐突に顔面を殴られたような衝撃だったわ。
ちょっと待ってね。たくさんしゃべったから喉が渇いちゃった。 あら、このお茶、冷めてておいしくない。
うちの夫はモテるタイプではなかったから、交際していた時に浮気はもちろん、結婚後も不倫なんて無縁だと思っていたの。こんな風に財布の中身から女性との逢瀬の不倫の証拠を見たけれど、あまりにも唐突に知ってしまったのと、夫が不倫に慣れていないように、私も夫の女性遊びに慣れていなかったからどうしたらいいのかわからず、問い詰めるべきか、勝手に財布を見たと知れたら喧嘩になるか、不倫を認めたとしてどう対処したらいいんだろう、と心臓がバクバクして、夫が風呂場から出てきても見て見ぬふりをしたのよね。
もう少し調べようと、夫が寝静まってから携帯電話を盗み見たら、"リンちゃん"という女性と頻繁にやり取りをしていることがわかった。でもこの時には、万里子さんと高志さんの娘だとは一切思わなかったのよ。
携帯電話のメッセージ欄には、友達とファミレスでパフェを食べたとか日常の他愛もないことを写真付きで送りあっていたり、次のデートの予定を決める話し合いであったり、「いつミホさんと離婚するのー。はやく堂々と会えるようになりたいなぁ」といった愛を送りあうような話だったり。
へぇ……私の名前も知っているんだ、夫が教えたのかな、と思いながら、メッセージを過去に遡っていったら、「土曜日にまた家族で集まるみたい。パパ、ママ、ミホさんにバレないように話さないようにしよう」「集まりの場で、敬語で話し合うの吹き出しそうになったぁ」「今日は学校帰りに荷物抱えたミホさんと会って荷物を一緒にもってあげたよ! 浮気がバレないよう点数稼いでおいたんだから感謝して!」といった内容が出てきたの。
あれ、あれ、リンちゃんってもしかして……と確信が迫って恐怖で手が震えるうちに、きわめつけに「今日は楽しかった! 一緒に撮った写真を送るね」と夫と凛ちゃんが頬を寄せ合っている写真が出てきて、え……リンちゃんって、あの凛ちゃん? 私が知っているあの凛ちゃん? 違うよね? と、もう錯乱状態。
相手は友人夫婦の子供だし、未成年の女子高生だし、不倫はおろか恋愛とは無縁そうな大人しい女の子だし。
茫然自失なまま、夫を叩き起こして、財布に入っていた不倫の証拠のこと、メッセージのこと、真夜中だったけれど、パニックになってうまくしゃべれないまま聞いたら、夫は否定することもなく「本気で愛している」と言ってきた。
出会った頃ね、私が働いていた機械部品の製作所に新入社員として入ってきた夫は、垢抜けない男だったの。髪は天然パーマでもじゃもじゃで、頬には高校生みたいな赤いニキビがあって、話しかけられるとすぐに顔が真っ赤になった。
夫は振り返ると、いつも私を見ていた。私は当時二十四歳で、新しく入った少年が自分に好意があるとうすうす気づいていたけれど、三歳年下の頼りない新人を好きになるわけもなく、熱い視線を向けられても事務的な笑顔でやり過ごしたの。
でも、女って好かれると弱いじゃない? 好意の視線を浴びるうちに、私も好きになって付き合ったのよね。
初めてデートしたときに、「どうして私なの? 若い女の子のほうがいいじゃない」と聞いたら、夫は顔をしかめて「ゴキブリなんて絶対むり」という口調で、「年下なんて絶対むり」と嫌悪感丸出しで言ったの。好きな女性芸能人も、五つや六つも年上の女優さんばっかり。夫は年上が好きだという、その時のすり込みがずっと残っていたのよね。
ニュース番組で援助交際という単語を見ても、自分の夫には無縁だと思っていたし、十代のアイドルの女の子たちのコンサートでペンライトを振って飛び跳ねる中年の男性たちを見ても、その観客の中で一緒に興奮している夫を想像したことすらなかった。
うちの夫はこんなの興味ない、そうして流していたのよね。
ほら、主婦になると世間から取り残されると言われるでしょう?
その意味がやっとわかった気がしたの。
夫と子供、似たような主婦仲間という狭い世界にしかいないから、考え方が変わらない。不倫に気づくまで、自分の中では、夫はいつまでも自分にべたぼれな青臭い新入社員のままで、年上の女が好きな男だと思っていた。
でも三十歳を過ぎると、男は変わるのよね。新入社員から中堅の頼りがいのある人間になり、ニキビもなくなって、自信が溢れて魅力が出てきて、そして年下の女性に興味の欠片もなかった男が若い女に好意を抱くようになり、若い女もカッコいいと惚れる男になる。
エラー音を発してから、やっと自分の記憶がアップデートされていない旧型のままだったと気づくのよ。
ふたりの馴れ初めをね、聞いたの。いつどこで始まったのか。そもそも結婚している男と未成年の女の子がどういう経緯で交際に至るのか、その理由がわからなかった。
夫と凛ちゃんは、休日の散歩中に家族で会ってはじめて挨拶したときに、お互いになんともいえない特別な感情を抱いて、お互いに目を見れば好意があることがわかったんだって。
それから食事会で会うようになって数回目のときに、電話番号とメールアドレスが書かれた小さなメモを帰り際にそっと握らされて、そこから遊ぶようになって、告白をされて交際するようになったと聞かされたの。
もっと交際までにすったもんだがあると思っていたのに、こんな数秒で語れるほど、ふたりの出会いから交際まではなんの障害もなく早かったんだって。私と万里子さんが出会ったのが四月後半、お互いの家で食事会をするようになったのが七月上旬、十二月のクリスマスがくる頃にはもう交際していたみたい。
ふたりの恋のきっかけを聞きながら、「いい年の大人が、”お互いになんともいえない特別な感情を抱いた”とかなに言ってんだ」とか「そういえば私の学生時代も、地味な女の子ほど、男関係が派手だったな」とか「大人が思う”いい子”ほど、じつは裏で腹黒かったな」とか、不思議なものでショックでボーっとしながら、頭でそんな冷静な突っ込み浮かんでいたのよね。ふふふ。
夫はね、よく凛ちゃんを褒めていたの。美琴に「凛ちゃんみたいな女の子になれよ」と言い、亮には「ああいう女の人に好かれるような男になれたら、たいしたものだ」と言っていた。
笑っちゃうでしょう? 今聞き返すと、自分が立派な男だと自画自賛しているみたいでバッカみたい。でも、それが特別なことを意味するとは思っていなかった。
だから私も「そうね、そうね」と一緒になって頷いていた。だって美琴が凛ちゃんみたいにすすんで勉強も手伝いもしてくれる子になったら最高だし、亮が清楚で優秀なお嬢さんを連れてきたら「よくやった!」と頭を撫でまわすわよ。
でも今なら思うの。未成年で、既婚者に手を出すような女に子供がなったり、結婚相手にそんな子を選んだりしたら困りますよ。三十六歳になって、人を見る目が出て悪い人には騙されないと思っていたけれど、まだまだね。
……っもう。外が騒がしいから窓を閉じるわ。電話の声がぜんぜん聞こえない。
不倫が発覚した翌日、私は子供を連れて、実家に帰ったの。
私の家族には両親、兄一家、妹一家にも集まってもらって、事の事情をすべて話して、どうしたらいいか、どうすべきか、自分ひとりではわからないから助言がほしいとお願いしたの。
そこで出た結論として、「不倫相手が成人していれば相手から慰謝料も取れるけれど、相手が未成年となると、むしろこちらが相手家族にお金を取られてしまい、借金を背負う可能性があるのではないか」、「未成年淫行の罪で、夫が犯罪者になって、子供たちが犯罪者の子供になってしまうのではないか。とくに未成年淫行だと周りの目も厳しいから、子供たちの人生に不利になるのではないか」、「子供たちが、慕っていたお姉さんと父親が不倫をしたと知ったら心に傷を作るのではないか」、「杞憂だと思うけれど、未成年に手を出すような貞操観念を持っているとしたら、美琴にもなにかするのでは」出てきたのは満場一致で離婚だった。
不倫相手が未成年だったからか、離婚を押しとどめる人も、もう一度やり直せという人もいなかった。
そうだよね、離婚だよね、と頭ではわかっている一方で、不安でたまらなかったわ。シングルマザーで生きていくんだ、慰謝料や養育費を請求できるとして不倫して妻の財布からお金を盗むような男がきちんと支払うのだろうか、でも早く離婚しないと万が一にも未成年淫行で捕まったら子供たちは犯罪者の子供になるんだ、いろんな考えが頭の中でめまぐるしくまわって……。昨日まで平和に過ごしていたのに、今日には離婚を考えないといけない激動さに、悪い夢を見ているようだった。
私が小学校一年生の頃にね、クラスメートに母子家庭で育つチカちゃんという子がいたの。いまの時代はシングル家庭なんて珍しくもなんともないけれど、私が子供のころは片親なのは学年でチカちゃんひとりだけで、離婚や未婚の母なんていう気まずい事情をまだ知らない同級生たちから「なんでお父さんがいないの?」と、よく質問されていた。
そう聞かれるとかならず、チカちゃんは親指を吸いながら「わかんない」と答えていた。私自身、片親という意味をいまいち理解していなかったけれど、親がいないことを親がいる子たちから好機な目で見られて、泣きそうな顔で答えるチカちゃんをかわいそうだと心配した記憶がある。
不倫がわかって二週間後、いろんな考えが頭に浮かびながら、離婚するかどうかではなく、離婚しないといけないんだと気づいた時にね、その光景がフラッシュバックするように唐突に浮かんで、チカちゃんの顔が我が子の顔に変わったの。亮や美琴が親指を吸いながら「わかんない」と答える姿。なんでこんなことになってしまったのか。その瞬間に、夫が不倫してからはじめて涙が出て止まらなくなった。
家庭を維持するために嫌なことがあっても我慢してきたのに、こんなにあっさり壊れるなんて。なんであんな女たったひとりに、私たちの人生が壊されないといけないのかって。でも泣いたのはこの日が最初で最後。
ネットを見ると、嘘か本当かわからないけれど、たくさんの修羅場が出てきた。
妻と不倫相手で殴り合いの喧嘩をしたとか、不倫相手の職場に乗り込んで大声で罵倒したとか。そんな下世話な記事を読んで、私も同じことができたら、どれだけ気分がすっきりするか想像したの。
でも、私の場合はどうやって? 相手が成人している女性であれば、大声で罵倒して、髪を引っ張って、ビンタでもして少しすっきりできただろうけれど、相手が未成年だと、なにをしてもこちらの不利になってしまう。
不倫の話といったら、本来であれば、おもしろおかしく不倫相手とあった修羅場を話せたのだろうけれど、未成年が不倫相手だった私は、どんなに憎くても嫌みのひとつも相手に言えずにKO負け。仕返しに夫を通報しようかとも考えたけれど、我が子が犯罪者の子供というレッテルを貼られるのが怖くて、自分からはできなかった。
もう離婚以外はなにもできずに泣き寝入りよ。
でもそれでよかったの。女子高生の恋愛なんて、相手が運命の人に感じて、熱しやすいわりに冷めるのもはやいでしょう。始まるのも一瞬だったように終わるのも一瞬、すぐに別れると思っていた。
あなただって経験あるんじゃない? 私もそうだったもの。高校生の時に、数学の先生が好きで、毎晩ラブソングを聴いては切ない片思いに涙して、ノートにはポエムを書くくらい愛していたのに、学年が替わって数学の担当教師がかわったら「なんであんな人が好きだったんだろう」というくらいケロッとしちゃって。
だから離婚をして、ロミオとジュリエットだと思った相手といつか憎み合って別れて全部を失った後に、夫には長年連れ添った妻と子供を捨てたことを後悔して泣きわめいてほしいし、凛ちゃんには結婚をしたときにでもいいから子供だったとはいえ自分がひとつの家庭を壊して不幸にしたことを反省してほしかった。いつかふたりが、私と子供たちにしたことに「ごめん」と自責の念にかられてくれたら、それでいいんだって納得したの。
自分が味わった苦しみを味わわせてやりたい、相手も嫌な気持ちにさせてやりたい、という復讐心を飲み込んだの。喉を通るには大きすぎて、苦しかったけれど飲み込んだの。
万里子さんと高志さんからは、幾度となく連絡がきた。「会って話したい。皆で一度話しましょう」という内容。どうやら私が告げ口するのを警戒したのか、夫と凛ちゃんが「交際している。美穂とは離婚はするから安心してほしい」なんて挨拶にいったらしいの。
殴られるのを覚悟で両親にまで挨拶に行くなんて、そんなに本気だったの? 離婚が決まっているのに、後悔するどころか清々しているのと? と悔しくなったわよ。
私はもう関わりたくなかったから、「私は離婚を決意して無関係ですから」と、何度もくる連絡を無視した。それでも万里子さんと高志さんから、しつこくしつこく連絡がくるから、会う約束をしたの。
謝罪でもされるのかと思った。なんなら茶封筒に入れた慰謝料でも支払われて、頭でも下げられるのかと。
でも言われた言葉は、なんだったと思う?
「謝罪してほしい」だったの。
家に行って客間に通されると、すでに凛ちゃんと夫がいた。
一か月ぶりに会う夫は生き生きしていたわ。髪を襟足まで伸ばして茶色に染めて、泣いてもいないし、後悔もしていなさそうだった。結婚生活から解放されて自由を手に入れて、むしろ新しい人生を楽しみにしているようだった。
万里子さんがお盆にお茶を入れて持ってきたらね、高志さんは「お茶なんて出さなくていい」と制したの。お盆を台所のテーブルに下げた万里子さんが戻ると、ふくれっつらした高志さんの隣に座って教師然で言ったわ。当たり前の物事すら理解できない頭の悪い生徒に言い聞かせるように、「あなたのほうが清悟さんより年上なんだから、しっかりしているべきだった」「凛はまだ未成年で子供なんだから、周りが守らないといけなかったのに」って。
うちの子供がごめんなさい、こんな子に育てた覚えがないのに。
苦しい思いをさせてごめん、傷つけてごめん、裏切ってごめん。
誰からも、こんな言葉はひとつも出てこなかった。せめて凛ちゃんだけは申し訳なく思っているだろうかと、すがるような気持ちで横を見たら、凛ちゃんが気づいて私を見たの。一番後ろの座敷で、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。十六歳の女の子とは思えなかった。愛する男を奪い取って、奪った相手がさらに責められているのを見て喜ぶ、いやな女だった。
その瞬間に、私の我慢はなんだったのかって思ったの。未成年だから、言いたいことも我慢して、復讐も我慢して、憎しみを飲み込んで許したのに、この子は許してもらった感謝すらもっていない。
私、耐えられなくなってお手洗いに行ったの。叫び出しそうだった。倒れこむように、客間を出ると慣れ親しんだ台所があった。ここでよくごはんを作って、皆で食べたのよね。キッチンカウンターに触れるといろんな光景が浮かんできた。
子供の都合で仕事を休んだときに嫌味を言う女性社員に落ち込んでいたら「あの人は文句を言うのが趣味みたいな人だから気にしないの」と万里子さんは肩を叩いて励ましてくれて、夫ふたりはテレビで野球の試合を観戦しながら大声でヤジを飛ばして、得点が入るたびに亮や美琴を持ち上げて喜んだ。亮や美琴は、万里子さんの作るごはんが好きで、おかわりをたくさんして、家に帰った後もまたあのごはんが食べたい、とねだった。
キッチンワゴンに見慣れたベージュのエプロンが目に入った。
「定期的にくるんだから、あったほうがいいでしょう」と万里子さんが私のために衣服店で買っておいてくれたものだった。嬉しかった、家族ぐるみで付き合える友達ができたことが。すべてを失って叫びそうになる口を押えて、エプロンを手に取ってそっとつけたの。まるで成人式の振袖のように、結婚式のウェディングドレスのように、大事な日に大事な衣装に袖を通すみたいに、ゆっくりと腰に巻き付けた。そうして引き出しを開けて包丁を手に取ったの。
私はただ自分と同じ目に遭わせたかっただけ。
大切な人を奪われて、自分の家族を壊される気持ち、をね。
包丁を持って、客間に戻った。襖を開けると、皆が一瞥したけれど、視線を元の場所に戻して、そしてギョッとしたようにまた私を見た。ギャグのように二度見することがあるんだって、包丁を構えながら笑いそうになったわよ。
「なにをやっているんだ」「ちょっとなにしているの?」呆れたような口調が発せられた。高志さんたら、自分たちの置かれている状況を考えずに、偉そうに「包丁を下ろせ」だの、「こんな短絡的だから不倫されるんだ」だの言いたい放題いって、この女にはうんざりだといった表情をして首を振った。主導権は、刃物を持った私にあるというのに。
「あんたは出て行っていいわよ」私は低い声で凛ちゃんに言って、包丁で玄関を指した。私が恐い声で指示するのを聞いて、ようやくどっしりとかまえていた万里子さんと高志さんは、相手は恐い顔で叱れば泣いて反省する小学生ではなく、事態は自分たちの説教でどうにかなることではないと理解して、凛ちゃんを逃がそうと、わたわたと凛ちゃん背中やお尻を押した。夫は口を開けて、ポカンとしていた。歯のホワイトニングまでしていたのよ、あの男。なかば這いずるようにして凛ちゃんは玄関に向かって走っていった。 さっきまであんなに余裕たっぷりな笑顔をしていたのに。
えっ? なに? 警察の車や報道陣の騒音がうるさくて、よく聞こえないのよ。窓も閉めたのに。あぁ……人質は無事かって? 人質解放の条件? そんなのないわよ。
だって、もうみんな死んじゃったもの。
※
付けっぱなしのテレビからは、相変わらずニュースが流れている。
――人質事件の続報です。奥野美穂容疑者は、今昼知人宅で突如として刃物を取り出し、逃げ出した知人夫妻の娘が通報、現在も立てこもっています。奥野容疑者の最新映像をとらえました。夕方4時頃の様子です。室内の状況を見られないようにするためか、窓を閉じる際に撮られた姿です。人質の様子は見えませんが無事な事なんでしょうか。
「捜査員が説得に当たっているようですので、進展があるといいですね」
アナウンサーとコメンテーターは神妙な顔でやり取りをしている。
美穂は話し尽くして、携帯電話の向こうでまだ言葉が聞こえるが、通話終了を押し、一方的に電話を切った。自分が泣きそうになっているのを感じる。不倫が発覚してから悲しみや怒り、孤独感がヘドロのように詰まって、感情を失っていた。でも初めて第三者に不倫の事実を心おきなく話して、体全体がとろけるようにラクになるのを感じる。
人に話すことがセラピーになるのはあながち嘘ではないのかもしれない。もっとはやく知れていたらよかったのに……。エプロンに入っている、真っ赤に汚れた手ぬぐいを見ながら、そんなことを思う。
喉の震えを隠すために大きくため息をついて、冷え切ったお茶に口をつける。誰に話しかけるでもなく、遠くを見つめて独り言をつぶやく。
ほんとにまっずい、このお茶。