第1話 都市伝説のラノベ
定時で仕事を終えた後、俺は傘が無いにもかかわらず、ドシャ降りの中を息絶え絶えに駆けている。路面から跳ねてくる土砂混じりの雨水が、両親に就職祝いとして買ってもらったフレッシュマンスーツを台無しにする。
それでも構わない。
せっかく俺の友人が、あのラノベの情報をくれたのだから。
今日の昼、その友人の妹が街外れにある小さな本屋で見かけた、と連絡を受けた。もし見つけることがあったら、即座に連絡するよう頼んでおいたのが大正解。
いてもたってもいられなかった。
会社の先輩に怒鳴られようがお構いなし。事務室の時計の針が17時半を示した瞬間、その本屋に向かって走り出していた。
あの噂、あの都市伝説がSNSで囁かれるようになってからおよそ半年。ずっと探し続けた。とにもかくにも、ネット上で売られていない。大型書店の店員に訊いても、そんなタイトルのラノベは売っていないという。
だが、俺はその噂を心から信じていた。いや、本当のことだと願っていた。ずっとずっと……。
「ぬぉぉぉぉぉぉー! ぜってぇ、手に入れてやる!」
その本屋は隣町にあるが、走って行けない距離ではない。
これまで、小さな本屋の場所を調べては実際に足を運び、あのラノベの存在を確認してきた。
SNSの情報は正しかった。
あのラノベは小さな本屋でしか入手できない。しかも、必ず1冊しか売っていないというのだ。友人の妹情報でも、1冊しか店頭に置いていなかったと確認した。
そして俺は、絶対に俺自身が買うから、妹は買わずにいてくれと、何度も何度も友人に念を押した。
会社を出てから小一時間。例の本屋が見えてきた。全身はもうずぶ濡れだ。
昭和の香りが漂う、その古びた本屋の真正面で立ち止まる。息切れしながら前髪から垂れてくる雨水を拭った。
本屋の軒下、ワゴンセール台に置かれた商品を雨から守るように透明ビニールが被せられている。荒々しく呼吸しながら視線を左右に走らせ、例のラノベを探す。
「あった……」
走り疲れていた俺の表情に光が灯ったと自分でもわかった。
そっと手を伸ばし、その文庫本を掴んでタイトルを確認する。
『転生したら五人姉妹の天使様が花嫁になっていた件』
「間違いない……、これだ……」
本屋の奥へと進み、店主のおばあさんにお金を払って、そのままラノベを購入した。外に出ると、運よくちょうど雨が止んでいた。
ゆっくりと歩きながらラノベのジャケットをマジマジと眺める。大きな喜びが胸に込み上げ、安堵感に包まれる。
「やっべ、メッチャかわいいんスけど。五つ子の天使様」
今日は夏至。まだ外は明るい。
公園を見つけて、ゆっくり休もうとベンチに座り、鞄を隣に置いた。
「これで異世界に転生できる……だよな!?」
異世界転生とは、いったい何の話か。
半年ほど前から、日本も含め世界中で行方不明者が続出している。最近のニュースでは、およそ1,000万人が神隠しのように姿を消したと報道されていた。
失踪したとされる行方不明者の捜査において、『転生したら五人姉妹の天使様が花嫁になっていた件』というタイトルの本が必ず話題になるらしい。家族や友人からの証言によって。
世界中でという状況から推測できる通り、日本語のみならず、英語、中国語、ロシア語など、世界中の言語で出版されていると考えるのが妥当だ。
そして『転生したら……』という意味深なタイトル。
そのことだけが理由となって都市伝説が生まれ、SNS上で広まり、今では大きな話題となってしまったわけだ。
つまり、そのラノベを入手した者は、異世界に転生できると。当然、五人姉妹の天使様が花嫁になる、というのが大半の意見になっている。
俺は、この都市伝説を信じた。
異世界に行って、この現実世界にオサラバする! 新たな人生を始める! 俺はラノベ主人公になる!
俺は帰宅するまで我慢できず、早速ラノベを読み始めた。
プロローグに目をやる。
『標路 準さん、私たち五つ子を花嫁にしてください』
「なっ……、オ、俺の名前が書いてある!? 俺の名前が? いや、俺の名前だ!」
驚きのあまり、ベンチからスクッと立ち上がると、スーツを着た男性が目の前を通り過ぎていった。
深呼吸をしながら気持ちを落ち着かせ、再びベンチに座り込む。しばらくすると公園の中から人っけが消え、俺一人が残された。
突如として、背筋に悪寒が走る。吐き気を催す。
「うっ……」
一人になった瞬間わかった。体がスゥーっと消えていくのが。
せっかく苦労して入手したラノベが手から離れ、落としてしまう。そして寝落ちするように、意識が消失していった。