【第5話】名を持つもの
──回想。
薄暗い実験室の片隅。
保育器のようなガラスチャンバーの中で、少女が目を覚ました。
機械が脈動を監視し、脳波の変化をリアルタイムで解析する。
それは、兵器として開発された「記憶干渉体」──個体名「Mn-13」。
その彼女に、たった一人で話しかけていた人物がいた。
「おはよう。今日も、ちゃんと目を開けたね」
研究班の中で異端と呼ばれていた女性、クロエ・ナガセ。
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「コードで呼ぶの、やめない? なんだか、あなたが誰でもないって言われてるみたいで、嫌なの」
少女は言葉を知らなかった。けれど、クロエの声に、何か温かいものを感じていた。
「……名前……」
「そう。あなたには“名前”が必要よ。記号じゃなくて、あなたがあなたであるために」
クロエは少し悩みながら、小さく微笑んだ。
「そうだな……“リタ”ってどうかしら」
少女は首をかしげた。
「意味は特にない。でも、私が昔、すごく憧れたヒロインの名前なの」
「……リタ」
「そう、リタ。あなたは今日から、私の大切な“リタ”よ」
その言葉に、少女の目がかすかに潤んだ。
それは、ただの実験体が──「人」となった、最初の瞬間だった。
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──現在。
記憶データの断片を見終えたリタは、静かに呟いた。
「……そうか。私は、あの人から“リタ”って名前をもらったんだ」
自分が名乗ってきたこの名前。
任務中、相棒に呼ばれるたびに、どこか違和感があった。
だが今、それが胸にすとんと落ちていく。
「私はMn-13なんかじゃない。私は、リタ……リタ・ナガセ」
思わず口に出した“名字”に、リタは自分で驚いた。
だが、それは確かに自分の中から出た言葉だった。
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レオが部屋に入ってくる。
「思い出したのか?」
「少しだけ。でも、充分」
リタは静かに、ユリシーズとレメゲトンを見つめた。
「この名前をくれた人は、私を道具じゃなくて、“誰か”にしようとしてくれたんだよね」
「……ああ」
レオは、それ以上何も言えなかった。
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その夜、リタは夢を見る。
クロエが笑っている。
そして、自分に手を伸ばしながらこう言った。
「リタ、あなたは、あなたのままでいてね」
目が覚めたとき、リタの頬には涙のあとが残っていた。