第18話 その記憶は、風のなかに
世界は、変わり始めていた。
記憶売買の中枢を担っていた国家管理システムは崩壊し、それに付随するネットワークも次々と沈黙した。街では混乱が広がるも、多くの人々がそれを“取り戻されたもの”として受け止めた。泣き崩れる者もいた。怒りに震える者もいた。だが、その目に宿っていたのは虚無ではなく、確かに“生きている”光だった。
誰かの記憶として与えられた幸せではなく、自分自身の記憶と向き合う日々が、世界を新しく塗り替えていく。
記憶を盗むブローカーたちも姿を消した。ある者は逃亡し、ある者は自首し、ある者は静かにその幕を下ろした。記憶はもはや“商品”ではなくなり、世界は痛みと共に、ゆっくりと再生を始めていた。
──そして。
リタとレオは、旅を続けていた。
都市を離れ、山を越え、谷を渡り、記憶のかけらがまだ残る場所を辿って。
「ここだ……」
小さな漁村の岬。風に吹かれながら、リタが立ち止まった。
目の前には、蒼い海が広がっていた。
空の蒼と、海の蒼が溶け合うような場所。どこまでも広がる水平線。波音だけが、心の奥深くを優しく叩いていた。
リタの目に、一枚の記憶が重なっていた。
あの時──ミューネモシュネと同化した際、意識領域の奥で、少年と過ごした一瞬。
彼が最後に見た景色。研究所の映像記録でもなく、データに記された地名でもなく。ほんのわずかな、彼自身の「願い」の断片だった。
『帰りたい。──あの海に、僕の家に』
その願いが、今、風に溶けている。
「……見つけたか。」
レオがリタの横に立ち、同じ景色を見つめた。
リタは頷いた。
「彼は、ここに帰ってきたかったんだ。最後にもう一度でいいから、“誰でもない自分”として、ここで風を感じたかった」
レオが目を細める。
「そうか。いい風だ、気持ちがいい。」
リタは目を閉じる。波の音、風の匂い、陽射しの暖かさ──どれもが確かに、生きている。
自分のものとして、刻まれていく。
そして、彼女は微笑んだ。
「……ねぇ、レオ。次は何をしようか。」
──波が、岸辺をさらう。
新しい記憶の一ページが、静かに始まっていた。