第16話 そして、世界は息をつく
制御室には、静寂だけが残っていた。
ミューネモシュネのコアは完全に沈黙し、記憶管理ネットワークへの接続も永久に遮断された。
天井から差し込むわずかな光が、崩れた装置や床を照らしている。
ユリシーズも、レメゲトンも、もうリタの手の中にはなかった。
──それは彼女が背負ってきた過去の重みであり、もう誰かを傷つける必要のない世界への旅立ちでもあった。
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「……終わったんだな」
レオが、わずかに息を吐いて言った。
「うん。ちゃんと、終わったよ」
リタの顔は、どこか穏やかだった。
「記憶はすべて、本来の持ち主たちに戻った。
あとは……この力を悪用しようとする人間がいなくなるように、願うだけ」
「ミューネモシュネがいなくなっても、すぐに世界が変わるとは限らない」
「でも、始まりは作れたと思うよ。
たとえ小さくても、“記憶を奪わない”って選択肢が、ちゃんと残ったから」
レオは頷き、肩の力を抜くように腰を下ろした。
「ま、まずは俺たちがどう生きていくか、だな」
「うん。それも……ちゃんと考えなきゃね」
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天井のパネルが落ち、粉塵が舞う。
二人は見つめ合い、無言で歩き出す。
誰もいない、がらんどうの研究施設。
冷たく、重く、無機質だったこの場所が、今はやけに軽く感じられた。
一歩ずつ、足音だけが響いていく。
扉の向こうには、外の世界がある。
陽の光。風の匂い。人々の営み。
奪われていた“記憶”を取り戻した者たちが、再び自分の人生を歩み始めるその場所へ──
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研究施設の外。
空は、穏やかに晴れていた。
風が吹き抜ける草原に、崩れた巨大なドーム施設が静かに姿を残している。
リタとレオは、それを一度だけ振り返った。
「さようなら、ミューネモシュネ。
君の名前が、もう誰かを縛らないように」
リタは、そっと目を閉じた。
そして、歩き出した。
新しい世界へ。
過去に縛られない、未来へと。