【第10話】 空白と記録
雨は朝になっても止まなかった。
モーテルの窓に打ち付ける音が、リタの浅い眠りを叩き起こす。
薄く目を開けた彼女の視界に、椅子に座ったままうたた寝をしているレオの姿が映った。
かけられた薄手の毛布がずり落ちている。
リタは静かにベッドを抜け出し、毛布を拾い上げる。
そして彼の肩にそっと掛け直すと、鞄の中からあの端末──クロエの残したデバイスを取り出した。
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前夜、レオが言っていた。
「“鍵”はこの中にある。……でも、お前が本当にそれを望むならだ」
リタは、もう決めていた。
「知りたい。クロエと、私自身の過去。……向き合わなきゃいけない気がするから」
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デバイスの起動音が小さく鳴る。
そして、黒い画面に文字が浮かび上がる。
──《Mnemosyne_A-Z_Log》アクセス承認。
リタの指が震える。
それでも、再生ボタンを押した。
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画面には、暗い研究室のような映像が映る。
映っているのは、若い研究者たちと一人の女性──クロエ・ナガセだった。
映像のクロエが、カメラに向かって話し始める。
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「これは、Mnemosyne計画の第5段階記録。
本件を閲覧している者が、計画関係者でないことを願っている」
クロエの声は、画面越しでもはっきりと響いた。
「計画は既に倫理の域を超えている。
記憶を奪い、都合のいい人間を作る。
それが“人間の進化”だというなら、私はそれに反対する」
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映像の後ろには、保存された脳神経体──ミューネモシュネ中枢が映っていた。
ケーブルに接続された脳組織の映像に、リタは無意識に息を飲んだ。
「彼(=最初のアノマリス)から得られた能力は確かに驚異的だった。
だが、それは“生きた人間”の尊厳を犠牲にした結果だ。
私は、それを肯定できない」
クロエは視線を逸らさず、記録を締めくくった。
「もしもこの記録が、リタに届く日が来るのなら──
お願い。あなたは、あなたのままでいて」
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動画が途切れる。
モニターに、自分の名が映る。
“Mn-13:リタ・ナガセ”と。
リタの胸に何かが走った。
静かな確信。
それは痛みでも、怒りでもない。
ただ、真実に近づいたという実感。
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後ろから、レオの声がした。
「見たか?」
「……うん。これが、“私の始まり”だったんだね」
「クロエは、あのときからもう、全部分かってたのかもしれないな。
自分が消されることも、リタを逃がす方法も」
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雨がようやく止みはじめていた。
「行こう。もうすぐ、全部に辿り着ける気がする」
リタは立ち上がり、テーブルの上の二丁の銃──ユリシーズとレメゲトンを手に取る。
その背に、レオも立ち上がった。




