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すくう(仮)  作者: 187_82
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第二章 小さな狂気

“正義”を疑うきっかけとなった、かつての事件。

殺された両親、そして現場にいたのは一人の少年――。

その出会いが、警察官だった彼岸正義の価値観を静かに、しかし確実に壊していく。

過去の原点が、いま語られる。

第二章 小さな狂気


あの事件の現場に初めて足を踏み入れた時のことは、今でも鮮明に覚えています。

畳の上に血が滲んでいて、それがどこから流れたものなのか、最初は理解が追いつきませんでした。

けれど、そこには争った形跡も、逃げようとした気配もなく――ただ、“終わった”という事実だけが静かに残されていた。


加害者は十一歳の少年。被害者はその両親。

「親から日常的に虐待を受けていたらしい」という話は、後から近所の人間たちの証言から出てきました。

でもそのときの私は、そんな大切な言葉に耳を貸そうとも思わなかったんです。


“親を殺すなんて、どんな理由があっても許されることではない。”


そう思い込んでいましたから。私は怒っていたんです。

人を殺すという行為そのものにも、私が信じてきた“正義”を踏みにじられたという、そのことにも。


酷く揉めていると通報を受け、私は先輩刑事とともに現場へ急行しました。

けれど、現場前に立った瞬間、私は待てずに動いてしまったんです。

先輩の止める言葉を聞くよりも早く、私は玄関を開けて中に足を踏み入れていました。


家の中はとても静かでした。

靴を脱ぐことも忘れて、フローリングの廊下を踏みしめながら進んでいく。

そのとき、奥の台所の前に、人の気配を感じたんです。


彼はそこにいました。


年端もいかない子ども。年齢は十歳か、十一歳ほど。

細い腕に、血のついたシャツ。右手には、赤黒く濡れた包丁をぶら下げるように持っていました。

包丁を握る手には力がなくて、凶器を持っているとは思えないほど、それはまるで玩具の包丁でも触っているかのように自然でした。


私が立ち止まると、彼はこちらを見ました。


最初は、少しホッとしたようにも見えました。

けれどその表情はすぐに、どこか歪な微笑みに変わったんです。

喜んでいるのか、安堵しているのか、それとも単に顔の動かし方がわからないだけなのか――

何を思っているのか、まるで読めなかった。


「君……」


私は反射的に呼びかけてしまっていて、彼は伏し目がちにこちらを見ながら、小さくつぶやきました。


「……ねぇ、殺しちゃだめだった?」


その声には、罪悪感も、後悔も、怒りもなかった。

純粋な疑問。いや、“確認”に近かった。

自分のしたことを、誰かに認めてほしかったのか、正しかったのかを知りたかったのか。

わからない。でも、その言葉だけが、胸に重くのしかかり、私は言葉を返せませんでした。


視線を戻した瞬間、彼は素早く振り返り、玄関とは反対方向の窓から――迷いもなく飛び降りました。

慌てて追いかけたものの、すでにその姿は消えていた。


無数の足音が残した小さな痕跡だけが、裏手の草むらにかすかに残っていました。


あのときの私は、ただ“犯人を見た”というよりも――

世界に置き去りにされた何かと出会った、そんな気がしていたんです。


事件が発生した翌朝、私は実家に立ち寄っていました。

泊まりの当直明けだったはずなのに、気がつけば電車に乗っていて、まっすぐ帰る気になれなかったんです。


居間に入ると、父は食卓で新聞を広げていました。

目にしたのは、社会面の片隅に載った小さな記事。


《11歳の少年、両親殺害か 現場から逃走中――警視庁》


父の視線が、記事からすっと私に向けられました。


「……この事件、お前が担当してるのか?」


私は頷くことしかできませんでした。


父は再び視線を落とし、新聞を静かに畳みました。

その動きはどこかぎこちなく、そして、表情には微かな陰が差していました。


皿の上には、手をつけかけた焼き魚と、冷めた味噌汁が残ったまま。

父の箸は止まったまま、二度と動かされることはなかったーー。


「親を殺さなければ、生きていられなかったんだろう」


ぽつりと落とされたその声に、私は思わず顔を上げました。


「……父さんっ、それは――それは人殺しを肯定するってことですか!?」


自分でも驚くほど、声が荒くなっていて。

けれど、父は動じませんでした。ただ、静かに私の顔を見返してきました。


その目には、怒りもなければ説教じみた責めもなかった。

代わりにあったのは、何かを呑み込んだような、深い憂い。

長年刑事として、人の罪や悲しみに向き合ってきた者だけが持つ、やるせなさの滲んだ眼差しでした。


「違う。だが、否定だけじゃ、見えなくなることがある」

「殺した人間が悪い。殺された人が可哀想。それだけで片付けてしまえば、次も同じことが起こる」


私は、何も言い返せませんでした。


怒っていた。悔しかった。でも、それよりも――

その言葉が、自分の中に引っかかって離れなかったことに、戸惑っていたんです。


「お前の言う正義は、誰のためのものだ?」


父の問いかけは、まるで見透かすように、静かに、真っ直ぐに響いてきました。


事件は、思っていたよりも早く“落ち着いた”扱いをされていきました。

犯人は現在も逃走中にも関わらず、現場の状況や通報履歴、虐待の痕跡などから、加害者は未成年であるーーと。


その根拠の一つが、私自身の証言だったんです。


現場で私が目にした人物――。

細い手足、震えるような体つき。

何より、あの問いかけを投げかけたときの声の高さと語調。その人物が“男”なのか“女”なのかさえ、特定はできていませんでした。

中性的で、感情の見えにくい顔。短い一瞬の邂逅では、判別など不可能だった。


ただ一つ言えるのは――あの家で何年も助けを求め続けた子どもが、ついに"親を殺す"という選択をした事実だけだった。


警察内ではそれでも当然のように、こう囁かれていました。


「年齢的に見て、保護処分になるだろう」

「可哀想にな。家庭環境も酷かったらしいじゃないか」


誰もが、事件を“未成年によるやむを得ない悲劇”として処理しようとしていた。

追うべき人物はまだ見つかっていないのに――いや、“本当の意味で向き合うことを避けている”ようにすら思えました。


私は、黙っていました。

語れることはなかった。ただ――あの人物と、目を合わせたのは自分だけだという確信だけが残っていました。


「……ねぇ、殺しちゃだめだった?」


あの問いかけは、ただの疑問ではありませんでした。

あれは“確認”――もしかすると、“救い”を求めた最後の声だったのかもしれません。

私は自分が信じていた正義のかたちが、崩れていくのを感じていました。

父の言葉が、ずっと胸に残っていたんです。


「お前の言う正義は、誰のためのものだ?」


あの言葉に答えることは、その時の私にはできませんでした。

だから、私はその場所を離れることを選びました。

辞表を提出した日、誰も理由を尋ねてはきませんでした。

ただひとり、父だけが私にこう言いました。


「――迷ったら、誰かの立場になって、目線を変えて考えろ。それが正義の始まりだ」


私はその言葉を、今でも胸の奥に持ち続けています。


ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

少年の問いかけと、父の言葉が彼岸正義の信念にどう影響していくのか。

第三章では、現在の“彼”との再会の場面へと進んでいきます。

引き続きお付き合いいただければ嬉しいです。




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