スモーキン・兄ぃ
村の朝に笑い声が満ちたあと、兄が文明の香りに堕ちるお話です。
初めて煙草を吸った日を覚えてる人も、これから吸うかもしれん人も、
どうか兄の背中を笑ってやってください。
素材の話がまとまったところで、銀髪屋は荷車の奥から小さな包みをひとつ取り出した。
「ところで兄ちゃん……さっきから、わしの口元ずっと見とるよの?」
「……見てへん。見とるけど見てへん」
「見とるやないかい」
銀髪屋がにやにやしながら、包みの紐を解いた。
中からは、つや消しの黒い金属の棒──細長い煙管と、小さく丸められた乾燥葉が出てきた。
「これはな、南方ナガ族の“嗜み”じゃ。口から呑む呪具言うてな。
葉っぱを燃やして、その煙を喉で飼うんよ。慣れりゃあ、脳が笑う」
「……それ、もらえるんか?」
「その骨、置いてくれるなら、な」
兄は静かに目を閉じた。
「……ええよ。持ってけ。いっそ全部持ってけ」
「交渉の早さが中毒者のそれじゃけぇの」
煙管を受け取った兄は、銀髪屋に手伝ってもらいながら、初めて葉を詰める。
火種を焚き火から借り、吸い込む──
「…………っッ……くっさ……けど、……これは……」
肩がびくりと跳ね、目が一瞬うるむ。
けれどそのまま、何かに取り憑かれたように、もう一度、深く吸い込む。
「……嗚呼……文明の香りがする……」
弟が一歩下がって兄を見た。
「兄ちゃん……なんか、目の奥がキラキラしとる……怖……」
「こいつはヤバいわ、ポチ。」
「兄ちゃん、見たこと無いええ顔しとるわ。」
銀髪屋がくっくと喉を鳴らして笑った。
「言うたろ。“呪具”じゃけぇの。
一回吸うたら、もう火がないと落ち着かんようになるけぇな」
兄は煙管を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「文明ってのは、舌で味わうもんやない。肺で味わうんやな……」
弟がまた小声で呟く。
「兄ちゃん……もう戻ってこられへんやろな……」
「せやな」
こうして、兄はナガ族由来の呪具──煙管と葉に身を預け、
“文明依存症”の第一歩を、深く深く、吸い込んだのだった。
兄は煙管を口から離し、細く吐いた煙が夜気に溶けていくのを見つめていた。
舌の奥に残る苦味と、喉の熱が不思議と心地いい。
「なぁ、クソ耳」
「ほいほい、なんじゃい文明ボヤキ中毒者」
「この世界のこと、ちゃんと聞いときたくなった。
どうせ旅立つ日もそう遠ないやろ。せやから、ざっくりでええ。教えてくれへんか」
銀髪屋は荷車の縁に腰をかけ、煙草をくゆらせながら言った。
「……なんじゃ、急にお利口さんなったのぉ。煙のせいか?」
「せや。煙で理性が吹き飛んで、逆に好奇心が湧いてきた」
「副作用が育ちすぎとるわ」
銀髪屋は空を見上げ、ぼちぼちと語り始めた。
「まず、王都──“アルヴェオ・レグニ(王国を導く道)”は、大陸のいちばん東にある。
壁で囲まれた巨大な城下町で、貴族と商人、学者、神官、そして物好きがひしめいとる」
「物好きて」
「それが一番多いんよ。なんでも信じて、なんでも買うやつら。
わしみたいな“胡散臭いエルフ”が生きとるのは、そういうやつらのおかげじゃけぇ」
「治安は?」
「見た目はええけど、裏では刃物と薬が飛び交っとる。昼と夜で顔が変わる町じゃな。
貴族の馬車が通った後に、浮浪児が死んどるようなとこよ」
兄は静かに頷き、次を促す。
「他には?」
「“サロマの三叉”言うてな、王都と辺境と南方が交わる野営地がある。
そこがわしの根城。正式な名前もあるけど、みんなそう呼ぶ」
「野営地?」
「建物は半分しか建っとらん。物と金と噂と毒が流れる場所じゃ。
狩猟協会、傭兵、密輸、薬屋、娼館、なんでもある。
王都より話は早いけえ、わしはこっちが好みじゃの」
兄は煙管をくるくる指で回しながら、次の問いを口にした。
「種族……やな。いろいろおるみたいやけど、関係性は?」
銀髪屋は煙を吐き、少しだけ真面目な目になった。
「おるのは、まず“人間”。他の種と子ぉ作れるから“神の器”とか呼ばれとるけど……
実際はただの繁殖力の化けもんじゃ。
次が“エルフ”──長命で魔に近く、うちらは理屈と効率で生きとる。宗教には疎いが知識には貪欲。
まあ……お高くとまっとると見られがちじゃの」
「“獣人”──君らの村みたいなもんじゃな。身体は強いが短命、感情と勘で動くけぇ、村社会向き。
“ドワーフ”は鉄と火の民。腕はええが、気難しくて女が強い。
男は黙って働いて、女が全部仕切る。口喧嘩は最強や」
「……怖」
「そして“ナガ”──南方の陽気な毒蛇ども。
体は人間と変わらんが、目に鱗が浮くやつは“純血”で、音楽と薬に強い。
笑いながら人刺すけえ、信用はせんほうがええが……意外と義理は通す。
わしの煙草もあいつらの仕入れ品よ」
兄は少し黙って、煙を一度深く吸い込んだ。
「なんか……思っとったより、複雑やな」
「夢見とったもんと、ちぃとズレとったか?」
「ちゃうな。だいぶ、ちゃうわ」
火がぱちんと音を立てた。
弟は黙ってその話を聞いていたが、煙の匂いにくしゃみをひとつ。
「兄ちゃん、それ、ほんまに“文明の香り”なんか?」
兄は真顔で答えた。
「ポチ。文明ってのはな、“煙たくて、目が沁みて、なんか高くつくもん”やねん」
「せやな……ってアホか!」
夜が静かに更けていった。
旅の気配と、変化の匂いが、焚き火の上でくすぶり始めていた。
兄が初めて文明(依存)に触れました。
それにしても、エルフって口悪いですね。書いてて楽しいです。