よー、そこの年老いたの
夜の酒気がまだ路地に残る明け方、歓楽街“紅灯の曲がり”には、ぽつぽつと灯りが戻りつつあった。
石畳の隙間には香水と嘔吐物の残り香が染みつき、風が吹くたびに魚の干物と油、
花のような香の混ざった、どことも知れぬ甘ったるい臭いが鼻を刺す。
軒下には色あせた布の幟が垂れ下がり、昨夜の名残を宿した赤い傘と髪飾りが、まだ片付けられずに転がっていた。
その通りを、パンと肉の匂いを漂わせながら兄弟が歩いていく。
手には、屋台で買ったばかりの「何かの肉」を挟んだ、凶器のように硬いパン。
「……顎割れるわこのパン。これ、パンやのうて武器やぞ」
「ワイは好きやけどなぁ。ちゃんと味するし」
「その“味”が怖いねん。……ワイはハンバーガー食いたいわ……」
「なにそれ? うまいん?」
「……説明すんのも面倒や。文明の味や」
弟がパンの中身をまじまじと見つめた。
「なあ兄貴、この肉……なんの肉や思う?」
「考えたくもないわ。これはな、“死なんための食事”や。味は関係ない」
兄はパンを噛みちぎりながら、懐から薬屋の帳簿を取り出した。
一枚めくり、文字を目で追う。
「……次。“紅灯館”。娼館やな。……あー……“白の館関係者につき要注意”って書いてあるわ」
「兄貴、それ銀髪屋に任せた方が早ない? こんなんで揉めたらシャレならんで」
「こんな端金のシノギで人の世話になるわけにはいかん。恩返すどころか借金増えるわ」
「ほな……自分らだけで行くか」
「せや。見せたるわ、“現場型の営業術”」
兄弟が足を止めたのは、ひときわけばけばしい二階建ての娼館だった。
扉の上には金文字で“紅灯館”、軒先には赤紫の絹が垂れ、獣の毛皮と乾燥花を組み合わせた装飾が張り付けられている。
内部からは早くも香の匂いと汗の気配が流れ出ていた。
扉を開けると、赤絨毯の敷かれた廊下が広がる。
内装は華美すぎて安っぽく、壁の絹地はよれて剥がれかけ、煤けたシャンデリアが揺れていた。
甘い香と、どこか酸っぱい古い精液のような臭いが染みついている。
現れたのは、化粧と香でごまかしきれない年の影をまとった女将。
エルフ族の血筋を持つ長身の女で、唇は濃く塗られ、爪は金色に光っている。
「あらあら、お早うございますねぇ……朝っぱらからお盛んじゃこと」
「やかましいわ、このババア!」
兄が赤絨毯の上に置かれたテーブルを蹴り飛ばし、椅子を突き倒す。
ドンッ、と音が響き、シャンデリアが嫌な音を立てた。
「どのツラ下げて営業しとんねん。ベスティアみたいな面しやがって……
今すぐその老い先長い人生、終わらせたろかァ!」
「な、なんなんよあんたら……野蛮にもほどがあるじゃろうが!
ここは富裕層向けの店なんよ!?
あんたらみたいな貧乏臭いの、はよ出てってくれんかね!」
「薬屋や。貸したもん、返しに貰いに来たで」
弟がくすっと笑って言った。
「兄貴、なんか……楽しそうやな」
女将がぴくりと反応する。
「……薬屋、てあんた……あんな端金で、そんな乱暴な取り立てせんでもええじゃろうに……」
「おう。ほな今すぐ返せや。“端金”なんやろ?
だったら渋る必要あらへんわなァ?」
その言葉に呼応するように、奥から黒服のエルフの用心棒三人が現れる。
広い肩、長い耳、装飾入りの剣を下げ、ひとりが低く声を発した。
「おい……薬屋。あんた、まさか白の館に喧嘩売っとるんとちゃうじゃろうなぁ?」
「売ったるがな。いくらでも売ったる。貸した金と合わせて、その長い耳も揃えて差し出さんかい」
「兄貴っ、まずいって! 白の館に喧嘩売ったら、銀髪屋が言うとったやん
……獣人の組、どうなったか思い出せや!」
「借りたもん返さへん奴に、筋も義理もないわ、わしらが筋通すだけや」
その瞬間、若いエルフが剣を抜こうとした――
だが抜くより先に、弟が背後から飛びかかり、床に組み伏せる。
「やめとけや。刃向ける前に喉笛噛みちぎるんが、ワイのやり方や」
呻くエルフを尻目に、女将が叫ぶ。
「ちょっと待っときんさいや! 今、金持ってくるけぇ!」
奥に消えた女将は、数分後、重そうな巾着袋を抱えて戻ってきた。
銀貨の詰まった袋を、床に叩きつけるように投げる。
「……もうええけぇ、それ持ってさっさと出てってくれん?」
兄は急にニコニコしながら巾着を拾い上げる。
「まいどおおきに。またのご利用、お待ちしてますわぁ」
弟の肩を叩いて、すっと店を出ていく。
残された用心棒たちは顔を歪め、エルフの女将が吐き捨てる。
「……誰が、またあんなケモノと関わるんよ……!」
──それから、数日のうちに。
兄弟は、あの調子で次々と回収を重ねていった。
兄の啖呵と弟の腕力、そして一切の“加減なし”の仕事ぶりは、瞬く間に裏の街で話題になった。
「笑って金を奪う獣と人間の兄弟がおる」
「債務者の顔も見ずに、血のついた帳簿だけ置いて帰ったらしい」
「銀髪屋の関係らしい」「ナガの組の見習いやと」
──そんな噂が、“紅灯の曲がり”から“サロマの三叉”の奥へと、じわじわ広がり始めていた。
他組織にも容赦ない兄弟。
次回もよろしくお願いします。




