全力少年少女
ー。
風はない。
だが、木々の間が揺れていた。
鳥も虫も鳴かない。土の中にさえ、生き物の音がなかった。
その静寂が、不自然だった。
何かが這う音。
木の根が鳴った。湿った土がわずかに沈んだ。
音ではない。感触だった。
“何か”の足跡が、空気を圧縮していた。
視線の先、茂みが膨らんだ。
腐葉土が弾け、幹が裂け、光のない森にそれは現れた。
毛皮ではなかった。
鱗だった。青黒い、石のような鱗がびっしりと全身を覆っていた。
四足。頭は低く、肩は高く盛り上がっている。
前肢は異様に太く、鉤爪は地面に突き刺さったまま、肉を削る準備をしていた。
その目は獣の目ではなかった。
焦点のない、黄土色の爬虫の瞳。瞬きの代わりに、薄膜が斜めに横切った。
鼻孔が膨らんだ。
瞬間、前肢が一閃した。
空気が裂けた。
その爪が、一本の若者の腰布を破いた。
叫びが上がった。後ろへ飛び退く音が続いた。
足音が乱れた。鎧の音が交錯した。
次の瞬間、獣は咆哮した。
咆哮ではなかった。空気の塊を押し出すような、低く、粘りのある音だった。
その咆哮が、一瞬で五人の動きを止めた。
膝が抜けた者。立ち尽くす者。目を閉じる者。
そして、一歩踏み出した者。
弟だった。
彼は唇を噛んだまま、前を睨んでいた。
瞳孔が開ききっていた。手は震えていたが、全身に回った血がそれを押さえ込んでいた。
歯を剥いた。肩が震えた。
声が、出た。
「……ッ……」
咆哮とも悲鳴ともつかない音だった。
それでもそれは、明らかに獣の前へ向かう衝動だった。
足が地を蹴った。
弟が、突っ込んだ。
長兄の眉がぴくりと動いた。
“あいつ、笑うとる──”
刹那、弟の身体が吹き飛んだ。
爪の先が彼の胸を掠め、空気ごと弾き飛ばされた肉体は、
獣の背後の木に叩きつけられ、葉が舞った。
静寂。
一瞬の静寂。
弟は、地に伏した。
だが、すぐに起き上がった。
頬が裂けていた。額から血が流れていた。
それでも──笑っていた。
歯を見せていた。
目は笑っていなかった。理性ではなかった。ただ、血と興奮が笑っていた。
その姿を見ていた者たちの目が、動いた。
垂れ耳の少年が斧を握り直し、黒斑の少女が喉を鳴らした。
爪痕を残した地面が、再び振動した。
だが今、震えていたのは森ではなかった。
──彼らの中だった。
咆哮が響いた。
青黒い鱗が軋んだ音。
湿った森に爪が沈み、後脚が蹴り込まれた。
再び飛びかかろうとするその瞬間、
脇から──短槍が突き出された。
黒斑の少女。
横から回り込み、地を這うような姿勢で、肩越しに突き出した一突きは、
ベスティアの腹部の鱗をかすめ、火花を散らした。
甲高い金属音。
刺さらない。だが、止まった。
その隙に、角の折れた少年が叫びながら横に滑り込む。
地面を蹴った足が泥に沈み、膝から落ちたが、それでも前腕の包帯で覆われた右手で、
斜めに構えた獣の脚に“体ごと”ぶつかった。
大した力じゃない。
だが、その一撃でベスティアのバランスが揺れた。
低くうなり、頭を振った。
垂れ耳の少年が背後に跳び出た。短斧が、わずかに振るわれた。
狙いは浅い。だが、音は響いた。
獣の背に刻まれた筋の一本が破れ、皮下で赤が滲んだ。
ベスティアが跳ねた。
弾けるように、全身が蠢いた。
爪が地面を引き裂き、尾が空気を割って一閃した。
角の少年が吹き飛ばされた。
背中から落ち、泥を巻き上げながら転がった。
獣が振り向く。
その瞬間──後方から斜めに、槍が走った。
熟練狩人の槍だ。
鱗の隙間、肩甲骨の裏側。
一点だけ、傷がある場所に向けて突き出された一撃。
だが、それは寸前で止まった。
長兄が手を挙げていた。
止めるな。──“まだ、奴らの狩りは終わっていない。”
その言葉は無かったが、狩人は黙って槍を下ろした。
そして──弟が、立ち上がった。
頬を割かれ、片目に血が流れている。
鼻の骨がずれていた。呼吸が荒い。
だが、両手は斧を握っていた。
咆哮が、森を震わせる。
弟は、叫んだ。
咽びながら、声にならない声で。
息と一緒に、意志を吐き出すように。
足が動く。
獣の左から。
刃が下がる。肩より高く。
足は踏み込む。膝が沈む。
重心は低く、軸を殺さず。
腰の回転、背中の捻り、両腕の引き──
──振り下ろす。
斧が、ベスティアの首の付け根に食い込んだ。
音はなかった。
ただ、肉が裂ける震動だけが、弟の腕を伝って響いた。
血が吹き出した。
獣の爪が、空を掻いた。
尻尾が動き、脚が痙攣した。
そして──倒れた。
ゆっくりと、重力に負けるように。
木の根元に、沈むように。
ベスティアの口が、ひく、と開いた。
そのまま、二度と閉じることはなかった。
誰も、言葉を出さなかった。
ただ、弟の肩が震えていた。腕は下がらず、刃は血で重たく濡れていた。
弟は、笑っていた。
その顔を見て、長兄は目を細めた。
「……ああ。やっぱり、お前は、そういう血か」
ー。