それぞれの夢 〜初田ハートクリニックの法度&夢で満ちたらサイドストーリー〜
過去作・『初田ハートクリニックの法度』から『夢で満ちたら』へと繋がる物語です。
初田ハートクリニックの法度一章、中村コウキのお母さん礼美のショートストーリー。
クリニックに通うようになって二年。
コウキはシェフになることを夢見て、調理師資格をとれる高校に進学した。
一般教科はもともとの学力が高いため、授業で遅れを取ることはない。
実習以外はクラスで一位をキープしている。
調理の知識は、もとから料理好きで受験を目指していた子たちのほうが断然上。
前の高校を中退するまで料理一つしたことがなかったコウキだから、努力を惜しまなかった子より劣っていて当然だ。
経験差を埋めるためにも、夕食を担当している。
そして母の日である今日。
コウキは朝からキッチンに立ち、オムレツを作っていた。
何度もレシピを確認して、丁寧にたまごを溶き、生クリームを入れる。
ベーコンとほうれん草を炒めて皿に移しておく。
座って待っていてと言われた礼美は、そわそわしてしまう。
二人暮らしになってから料理をしているし、学校でも教わっているから腕は確かだ。
母の日に、礼美のために作ってくれているから、落ち着かないのだ。
そもそも礼美自身が、母の日に何かを贈ったことはない。
礼美の母親がいわゆる毒親で、父が礼美のためにと毎月送っていた養育費をタバコ代と酒代に変えるような人だった。
ルーズリーフの紙を使い切った、シャープペンの芯が無くなったと乞うても買ってくれない。高校生は親の許可がないとアルバイトできないため、働いて学用品を買うこともできない。
バイトする時間があるなら家のことをしろと言われ、家事も炊事も全部礼美の役目。機嫌が悪いときは殴る蹴るしてくる。
母親はパチンコ屋に入り浸って家のことをしてくれない。
クラスメートのように、保育士になりたいから専門学校に行くだとか、やりたいことはないけどとりあえず大学に行くだとか、そんなことできやしない。
夢も希望もない日々だった。
学生時代の礼美は、母親に感謝をする日なんてこの世に存在しなくていいとすら思っていた。
そんな自分が、母の日に何かしてもらうなんていいのだろうか。
去年ガラスのハーブティーポットをもらったときも嬉しかったけれど、こうして思い出の料理を作ってもらえるのもすごく嬉しくて、泣きそうだ。
コウキはオムレツをお皿に盛り付けて、礼美の前に持ってくる。
表面がツヤツヤでプルプル。バターの香りもよくて、とても美味しそうだ。
「母さん、ほら。あのときのレシピで作ったオムレツ。ちゃんと裏ごしもしたから前よりずっと美味しくできたと思うんだ」
「ありがとう、コウキ。いただきます」
スプーンを差し込んで、一口。
コウキは緊張した面持ちで礼美を見ていて、最初オムレツを作ってくれた日のことを思い出す。
「美味しい。すごく美味しいわ。お店で出てくるオムレツみたい」
「そっか。よかった。いつか初田先生にも作りたいな」
「ええ、先生も喜んでくれると思うわ。こんなに美味しいんだもの」
素直な感想を言うと、子どものように無邪気な笑顔が返ってくる。
高校を退学になり、コウキはこれから先、人と関わっていけるのだろうかと不安だったあの日とは違う。夢を見ることすら叶わなかったあの日々を繰り返したくはない。
コウキが夏休みに入り、「友だちと遊びに行く」と言って出かけていった。
礼美は商店街で買い物をする。
トマトやキュウリ、今の時期が旬の新鮮な野菜を買い、精肉店にも顔を出す。いい豚肉が入ったと店主がいうから、肩ロースの薄切りをもらう。しゃぶしゃぶにしても良さそうだし、炒めものでも美味しい。
買い物メモで残りの足りなものを考えていると、二人組の女の子に声をかけられた。
ワンダーウォーカーの店長に似た目鼻立ちの女性と、ショートヘアの女子高校生。女性がノートを手に聞いてくる。
「あの、今ワンダーウォーカーの店長とゲームをしているんです。商店街にいる三十人に、子どもの頃の夢と今の仕事を聞いてきなさいって。差し支えなければ教えてもらえませんか?」
「あら、楽しそうなゲームね」
この商店街にあるセレクトショップ、ワンダーウォーカーの店長は、初田の旧友で楽しいことが好きな人。何か深い理由があってこの二人にゲームを持ちかけたのだと察する。
だから礼美は包み隠さず答える。
「子どもの私に夢はなかったわ。裕福な家庭ではなきて、進学を望めなかったから。高校を出てすぐ結婚して、二年前離婚して、今はスーパーの品出しパートをしているの。息子が夢を叶えられるように守っていきたい。それが、今の私の夢よ」
End