3-6 Believe Alive
室堂夫妻は、名古屋からの来客を歓迎した。美雪の料理と長めの入浴でリラックスした詩応は、澪の部屋に入る。フローリングの上に座った詩応のショートヘアは、ミミズ腫れのように隆起している首の疵痕を隠さない。
「詩応さん……」
ベッドに座っていた澪は、小さな声を上げる。詩応は
「……あ、これ……?」
とだけ言って触れる。澪はふと、リビングで泣き叫んだ日のことを思い出した。
母に慰められながらも、詩応はどれだけ泣いていただろう。家を飛び出してでも、名古屋に行きたい……そうしなかったのは、今行ったところで自分には何もできないことが判っているからだった。それは、母にも言われた。
澪は最早ゲームで遊ぶ気は無く、テレビを消したリビングで母に抱かれたまま、しかし流雫にいてほしいと願った。不安で震える手を握って、抱きしめて、何も言わず慰めてほしかった。遣り場を見失い彷徨う、怒りと悲しみを、受け止めてほしかった。
「……死ぬのが怖い、そう云うのを思う間も無かった。でも、どうにか助かった」
「ソレイエドールが……死ぬなと詩応さんを助けたんですね」
と、澪は詩応に重ねた。
「多分、な……」
とだけ言った詩応の背中に、澪は静かに抱きつく。
……流雫が撃たれた時と同じだった。服越しに伝わるほのかな熱は、彼女が生きている証。それが、何よりもあたしを救った。
「澪……」
「詩応さん……生きてる……」
そう囁く澪。これほど、人のために喜怒哀楽をぶつけられる人は初めてだった。新宿で雨に打たれていた日もそうだった。
……他人事なのに、他人事として思わない。それが、相手にとって重く感じる時も有るだろう。だが、だからアタシは澪が愛しく思えるし、何が有っても澪を見捨てない。
右側に残る疵痕に、微かに澪の吐息が触れる。少しだけ熱く、そして詰まったような……震える吐息。生々しい隆起の脇を掠めるように、何かが伝い、体温を少しだけ奪った。
「泣くなよ……澪」
と囁いた詩応は、胸の下に回された腕に手を重ねた。
……この献身が、アタシと流雫を惹き付ける。だから、正気を失わなくて済む。この慈悲深さ……もしこの世界が転生モノの世界線なら、澪は本当にソレイエドールの転生なのではないか、と思えるほど。
シブヤソラを後にした2人は、時間も時間だしと、近くで手に入れたハンバーガーのセットを部屋で頬張りながら、互いに2時間何を話していたのか、軽くながら話した。本格的に話すのは明日だが、アルスがアリシアから聞いた話は、流雫が美桜の父から聞いた話よりも厄介だった。
一言で言えば、アルスは最新の情報を手に入れる術を失った。アリシアもだ。今後は、フランスで売られている関連書籍だけが頼りになる。それが何を意味しているのか。2人はただ、溜め息をつくばかりだ。
そして、アルスも偶然会ったとは云え流雫が話した相手に驚いていた。センジュ・ケヤキダイラとのコンタクトは、大きな武器になる。
翌日、二手に分かれたまま臨海署へ向かった4人は、そのまま前日からの取調の続きに臨んだ。最初に口を開いたのは、日本人3人の後ろで唯一立ち、壁に寄り掛かっていたアルス。流雫にとっては、昨日聞いた言葉をリピートする形になる。
「……旭鷲教会の情報、海外からも読めなくなった」
初耳の4人は耳を疑う。流雫も昨夜そうだった。削除されているか、アクセスを遮断されたか。
「レンヌの教会爆破を機に、実態が暴露されるのを怖れたのか……」
と流雫が言うと、アルスは
「可能性は有るな。アリシアも、それは言ってた」
と被せる。更にその上から、常願が被せた。
「昨日からの話が全て真実なら、政府が失うものはあまりにも多過ぎる。何としてでも真実を隠し通し、当事者全員が全てを墓場まで持って行くこと、それこそが国益。そう云う魂胆かもしれん。とは云え、遣り過ぎにも限度が有るがな」
「今の時点で知っていることを、改めて整理する必要が有るな」
と続けた弥陀ヶ原は、次に流雫に話を振る。
……欅平千寿に会って聞き出した話は、直接テロには無関係。しかし、教団のことを分析する材料としては大いに役立つらしく、刑事2人は興味津々だった。
その話を聞きながら、恋人の隣に座る澪はしかし、流雫が気懸かりだった。何しろ、話し相手が特殊過ぎる。そして詩応も、太陽騎士団についての宗教学者の話に釘付けになっていた。
……旭鷲教会による工作の影響で、太陽騎士団は社会的な地位を急速に落としている。しかし教団として対処しないのは、対処を望まない連中が既に上層部を独占しているからだ。それは、1ヶ月前の新宿の事件を以て実現した。
旭鷲教会にとって、最も目障りな教団を支配した今、日本での厄介な敵は警察、公安のみ。ただそれも、隠れ信者の国会議員を使った猛抗議で、沈黙させられると思っているだろうか。
……いずれにせよ、最早日本では思い通りに活動できる、その土台はほぼ整った。最終的に何を企んでいるのかは知らないが。
姉の分まで功徳を積むことが大人になる唯一の術なら、大人になんてならなくていい。連中にとって、目障りな子供でいなければ、姉の死の真相は辿り着けない。
取調は午前中で終わった。これから夕方までは自由だ。台場まで戻ると、流雫は
「あそこ、行ってみたい」
と言って遠くを指す。……首都タワーだった。意外なことに、流雫は行ったことが無い。それは詩応も同じだし、アルスも東京のシンボルの一つだからと気になっていた。
「じゃあ、決まりだね」
と、澪は微笑みながらも、少しだけ不安を隠していた。
りんかいスカイトレインの終点、新橋から歩いた4人は急勾配に軽く息を切らしながら、目的地に着いた。
「ラ・トゥール・エッフェルみたいだな」
とアルスは言ったが、エッフェル塔に影響を受けて建設されたから、当然と云えば当然だった。
エレベーターで2フロア構造の展望台へ着くと、シブヤソラとはまた違った景色が楽しめる。ただ、先にあの屋外展望台へ行ったから、首都タワーのインパクトは薄く感じる。
ふと、流雫の目に止まったトップデッキの文字。別料金を払えば、150メートルの展望フロアより更に100メートル高い展望台に行ける。
「流雫、行く?」
彼の視線に気付いた澪は、恋人に問う。
「……行ってくるといいよ、アタシはアルスと話してるから」
と詩応が言い、アルスを会話に誘う。
「折角2人でいるんだし」
と続けた少女に甘えるように、澪は
「流雫、行こう」
と手を引いた。
……血の旅団信者と少し話してみたかったのも有るが、2人きりでデートを楽しんでほしかった。流雫の隣に相応しいのは澪だし、澪に相応しいのは流雫だから。
2人の背中を見送りながら、詩応は問うた。
「……旭鷲教会の思惑を潰す?」
地上250メートルの高さから、東京湾を眺める流雫。遠くに空港が見える。シブヤソラが何よりも好きだが、此処からの景色も好きになりそう。
「……あの日、美桜は此処に寄るハズだったらしくて」
と流雫は言った。
トーキョーアタックに遭遇していなければ、美桜は笹平と2人、渋谷から首都タワーに行く予定だった。そのことを、流雫は笹平から聞いた。何時だったかは覚えていないが。
それが叶わなかったこと、そしてかつての恋人が見たかったハズの景色を、今自分がこうして見ている。あの日、美桜が死ななければ出逢うことなど有り得なかった、最愛の少女の隣で。
澪は、一度だけ美桜とこの場所に辿り着いて、そして別れた。全ては台風に見舞われた夜に見た夢の話で、彼女の言葉は自分にとって好都合なものばかりだった、と思う。彼女に、あたしは流雫の恋人だと認められたいと、見守っていてほしいと、深層心理で思っていたからか。
ただ、それでも美桜の正体は天使ではないか……そう思えるほど、夢で逢った少女は慈悲に満ちていた。
「流雫が見てる景色、美桜さんに届いてるといいな」
と澪は言った。……届いてほしい、我が侭な願いだと判ってはいる。ただ、彼女への想いと贖いを抱えたまま生きる流雫が見ている景色を、見てほしかった。流雫の記憶で、今でも生きているのならば。
その言葉に、流雫は少しだけ口角を上げた。その目は、澪が注ぐ愛情にはにかんでいるような。
……澪の言葉は、何時だって僕を支える。まるで、美桜の遺志を継ぐように。だから、僕は何度だって……。
穏やかな2人の表情を急変させたのは、トップデッキにけたたましく鳴り響いた非常ベルだった。
「何!?」
「何なの!?」
2人が声を上げた瞬間、それぞれのスマートフォンが着信音を奏でる。
「アルス!?」
「詩応さん!?」
フランス語と日本語が重なる。
「ルナ!今すぐ下りてこい!」
「澪!爆発が!」
2人の言葉に、高校生カップルは顔を見合わせ、頷く。その目付きは、戦士のそれだった。
「祖国に泥を塗るなら、仮にルナだろうと容赦しない」
展望台のロワーフロアに下りたアルスは、詩応との話をその言葉で締めながら缶のコーラを喉に流した。日本人に帰化した今でも、フランスへの愛国心を持つ少年がそうするとは思わないが、敢えて例に出した。それだけ意志が固い証左だ。
……血の旅団と云う名に、拒絶反応を見せるのは仕方ないと自分でも思っている。しかし、この少年だけは信じざるを得ない。人に対するガードが堅く、人と仲よく接することが難しい流雫が頼っている時点で、自分の敵ではないことは判る。
英語で辛うじてついていけた詩応は、同時にトリリンガルの流雫を少しだけ尊敬しながら、何か言い掛けて止めた。
……自販機の前に、小さなバックパックが置き去りにされている。
「……何だ?」
と呟く詩応には、単なる忘れ物……には思えない。触ってはいけない不審物……?
「シノ?」
アルスが問うと同時に、詩応はその手を引いた。
「シノ!?」
「エスケープ!!」
突然の声に、周囲は一瞬だけ固まる。何を言っているのか?誰もがそう思った瞬間、轟音と同時に爆風が舞った。
「くっ!!」
「なっ!?」
2人の声を掻き消すように、非常ベルがフロアに響く。咄嗟にスマートフォンを取り出した2人は、それぞれの通話相手とつながると同時に切羽詰まった声を上げた。
爆発物なんて、まさか。そう思う詩応の目線の先では何人かが蹲っていて、血も飛散している。すぐに消火器の白い粉が舞い、同時にスプリンクラーから水が噴き出し、すぐに火が消えたのは幸いだった。しかし、誰が置いた?
詩応はブルートゥースイヤフォンを耳に挿しながら、周囲を見回す。しかし、犯人らしき人物は見えない。そして彼女を真似たアルスは、密閉されたハズの展望台で、上から強い風が吹いてくるのを感じた。
アッパーフロア、階段近くの非常口ドアが、風の影響か激しい音を立てて閉まる。……何者かが、開けたのか。その行き先は、トップデッキ。非常階段だった。
「アルス!?何が!?」
と問うルナの声は、アルスに影響されたか少なからず切羽詰まっている。
「そっちに何者かが上がってる。階段だ!!」
イヤフォンを通して聞こえる声に、流雫は背筋が凍る。……そして決めた、澪だけは逃がす。
「早く逃げないと!」
「判ってます!すぐに!」
と詩応に返した澪に、流雫は
「澪!」
と声を上げ、恋人の手を引っ張る。しかし、エレベーターは我先にと避難しようとした連中で混んでいる。乗れてあと1人。
「先行ってて!!」
と言いながら、少年は澪の手を離し、力任せに突き飛ばす。
「きゃぁっ!!」
と声を上げた澪が無事に乗り、それと同時にドアが閉まる。
「流雫!?」
と恋人の名を呼んだが、動き出したゴンドラにはいない。
……逃げるなら、いっしょがよかった。何が起きても、あたしがついてるから。独りになんて、絶対にさせたりしないのに。
後で、今度こそ頬を引っ叩かれる……で済めば御の字か、と思った流雫は非常口が示すドアから離れた。
「ミオが下りた。僕は未だ……」
「ルナ?」
アルスの問いには、苛立ちが混じっている。
「エレベーター、乗れなくて」
と流雫は言ったが、間違っていない。
「……アルス」
と呼んだ流雫は、冷静な声で続けた。
「……3人で逃げろ」
「お前は!?」
「上がってくるのが敵なら……仕留……」
自分の問いにそう答えた少年に、アルスは
「バカか!逃げろ!!」
と怒鳴る。何故逃げない?
「仕留めないと、逃げられない」
と答えた流雫は正しかった。
トップデッキは狭く、歩いても数十秒で1周できる。そして、メインデッキへのアクセスはエレベーターか非常階段しか無い。だが、エレベーターは事態が事態だけにもう戻ってこないだろう。
……振り切りたいなら、最悪撃つしか無い。そして、階段を駆け下りるしか無い。そう覚悟を決めた流雫は、しかし苛立ちを滲ませる。
「……美桜」
流雫が呟いたのは、あの日此処に立っていたハズの少女の名だった。
大きな音を立て、ドアが開く。風が流雫に吹き付ける。そして見えたのは警備員……ではなかった。
英語ではない言葉で畳み掛けるアルス。詩応はその表情で、逃げていないことを察する。澪は!?
「澪!?」
「あたしは、もうすぐ……」
と詩応に答えた澪の眼前が、僅かに明るくなる。ドアが開き始めると、その隙間から飛び出す少女、それに真っ先に反応したのは、アッパーフロアへ駆け上がった詩応だった。
「澪!!」
「詩応さん!!流雫が上に!!」
と澪は言ったが、詩応はその手を掴む。足が非常階段に向いているのが見えたからだ。
「行くな、澪」
「流雫が……!」
「流雫を信じてるんだろ!?」
と詩応は諭す。……信じたい。何が有っても、死なないと。仮に、トップデッキに潜んでいた敵と遭遇したとしても。しかし、無事をこの目で見なければ気が済まない。そのことは、詩応も判っている。しかし、場所が場所だ。
「すぐに下りてくる。流雫のことだから」
と詩応は言った。その言葉は、かつて彼女が苦手だと言っていた流雫を信じているようで、澪にはそれが少し嬉しかった。
澪は黙って頷き、しかしその手を振り解く。そして、黒とネイビーのショルダーバッグから銃を取り出した。
……いない、ワケがない。第六感が騒ぐ。
「澪……?」
と呼んだ少女に、澪は言う。
「詩応さん、アルスを連れて……」
「アタシも残る。澪を独りにはできない」
そう返して、詩応はバックパックから銃を出した。流雫と澪のそれより、一回り大きい銃身を握るショートヘアの少女。しかし、上手く銃身を向けられないことへの不安は有った。
「お前ら、正気か!?」
2人に追いつくなり、英語で問うたアルスに、澪と詩応はフランス語で同時に答えた。
「ウィ」
よりによって2人が最初に放ったフランス語が、イエスの意味とは。アルスは呆れ顔をしたが、ならばやれることは一つだけ。唯一銃を持てず、その意味では戦闘力皆無のフランス人の選択は。
突然踵を返した、非常階段のドアを開けるアルスに
「アルス!?」
と詩応が声を上げる。少年に、強風が襲い掛かる。眼前の400段超の螺旋階段を見上げた少年は
「ルナ、待ってろ」
と言って、ステップを蹴った。
アルスが非常階段へ出たのは、2人の女子高生にとっては意外だった。どっちが正気なのか、と同時に思ったが、今2人ができるのは何が起きても死なないこと、それだけだ。
パニックを起こした来場者は、我先にとエレベーターや階段で避難する。しかし、その階段の途中で将棋倒しが起きた。エレベーターも止まり、事実上取り残された形だ。
グレーのスーツの男が、2人の女子高生の目線の先に現れる。
「……詩応さん」
「……澪」
2人は互いの名を呼ぶと、二手に分かれる。1秒前に澪がいた場所を、銃弾が飛んだ。
展望台のフロア構造は、澪の頭に正確に入っている。流雫の影響だった。意識しなくても瞬間的にその空間特性を把握できる、だからこそパルクールで撹乱できる。
詩応はアッパーフロアに残り、澪はロワーフロアに向かった。爆発が起きた自販機の近くは、頑丈なハズの窓ガラスに亀裂が入っている。身体がぶつかれば、その破片と一緒に150メートル下のアスファルトにダイブする。絶対に、それだけは避けなければならない。
澪の視界に、黒いスーツの男が見えた。手には大口径の銃が握られている。
「詩応さん……下にもいます……!」
「くっそ……!」
澪の言葉に、詩応は思わず舌打ちした。1対1が2件……性別故の体力差では完全に不利。……ただ、アタシにはこの足が有る。後遺症が残らなかった足が。
詩応は、オールバックにサングラスの男をターコイズ色の瞳で睨む。その銃口が再び詩応を捉えた瞬間、ショートヘアの少女は斜めに踵を返した。
……疵痕が疼く。天気は悪くないが、あの日を意識しているからか。しかし、何故よりによってこんな時に……!?
高らかな笑い声に、詩応は
「何しやがる!!」
と叫ぶ。しかし、男の笑いは止まらない。……デスゲームを楽しもうとしているかのようだ。そう、詩応は狩り殺すべき獲物……。
……気が狂っている。しかし、それとは何か違う気がする。その違和感は、澪の方が鋭いハズだ。
そして澪は、流雫にはこの上なく不都合だと思っていた。それは、あの頃を思い出させるから。