2-8 Chase The Moment
新南改札の上のフロアはバステの降車場になっているが、その前にデッキが張り出している。シンジュクスクエアとは階段で結ばれているが、騒ぎを受けてバステ側のドアは封鎖されている。このデッキと下の広場だけで決着を付けるしかない。
背後から銃声が聞こえた。一瞬だけ振り向いた流雫の目に、男が前に屈む瞬間が見える。……詩応が撃ったか。女子高生2人は無事、それだけで安堵する。
目の前の階段を駆け上がれば、デッキ。障害物は多少有る。そこで撹乱して、警察の到着を待つのが早いのか。
しかし、何故警察は駆け寄らない?裏の甲州街道の塩素ガス騒ぎと渋谷に集まっているのか?
それよりも、スマートフォンが使えないのは痛い。駅のWi-Fiは、一瞬だけ入ってもすぐに使えなくなる。
澪とはアイコンタクト、そして澪ならどうするかの推測が全てか。しかし、それでも不足は無い。尤も、時折流雫は澪の推測の斜め上を行くのだが。
流雫は階段を駆け上がる。
「待て!!」
男が階下から叫び、靴音を鳴らして追ってくる。
大口径の銃は火薬量も多い。それは威力が大きいと同時に反動も大きく、身体が引っ張られやすいことを意味する。走りながら反動に負けること無く撃ち続けるのは、流石に難しいのだろう。
障害物は植え込みとベンチ。それだけでは流石に不安だ。だとすると……。
そう思った流雫の頬が、ふと微かに濡れる。
「……雨……?」
流雫は呟く。一瞬だけ見上げた空は、先刻より雲が厚く、そして針ほどの雨粒を落としていた。
……地面が濡れると、スポーツシューズとは云え滑りやすくなる。地面との摩擦力が有るうちに決着を付けないと厄介だ。……逃げるための、最大のショートカットと言えば……。
デッキの真ん中まで走ると、澪が反対方向の階段を駆け上がってくるのが見えた。
「澪!!」
流雫は叫んだ。澪はその場に立ち止まり、踵を返す。直後、流雫の背後から銃声が聞こえた。空に向けての威嚇発砲だった。ガラスの柵の手前で立ち止まったシルバーヘアの少年は、男に振り向く。
「大人を揶揄うのも大概にしろ」
そう言った男は、改めて銃口を流雫に向けた。少年は観念したような表情で、己の未来が此処で潰えることを悟った。
「……ソレイエドールに抱かれて死ねるのなら……」
その声に
「ふん」
と鼻で笑った男を見つめながら流雫は
「……この世界、悪くなかったな……」
と言った。
男は不敵な笑みを浮かべたまま、ゆっくり近寄る。
……河月の教会立て籠もり事件で、先刻の女と同時に出て来た男。渋谷の事件の日、ドブネズミのような動きをしていた。画面越しながら、鬱陶しい奴だ……と思った。
そして口を開けば、テネイベールの化身などとほざいてやがる。痛々しいとは、まさにあの男のために生まれてきた言葉だ。
そう思った男は、あくまでも冷静を装いながら引き金に掛けた指を少しだけ引く。その瞬間、流雫は少しだけ険しくした目付きで言った。
「……未だ生きるけどね」
「?」
その言葉に一瞬だけ、男が固まった。その瞬間を逃さなかった流雫は、踵を返すと植え込みの縁の角を踏み、反対方向のガラス柵の手摺に飛び乗り、そして……宙に舞った。
「血迷ったか!!」
と男は叫び、柵から身を乗り出した。5メートル近い高さ……無事では済まないハズだ……が?
空中で身体の向きを180度変えた流雫は、縦に流れる目の前の景色に惑わされること無く、揃えた両足をバネにほぼ真下に着地する。その瞬間を目の当たりにした男は
「何!?」
と声を上げた。
動画で、この鬱陶しい少年が簡単なパルクールができることは知っていたが、しかしこの高さを綺麗に飛び下りるとは。
「くそっ!」
男は慌てて銃を真下に向け、引き金を引く。しかし既に、その場所に標的はいなかった。男は来た道を引き返す。
綺麗に着地した流雫の目に映るのは、苦悩に犯されるボーイッシュな少女だった。
「伏見さん!」
流雫はその名を呼ぶが、伏見さん……詩応は頭を抱え泣き叫ぶだけだ。……何が有ったのかは判らない。しかし、あの日空港島で泣き叫ぶ自分を見ているかのようだった。
「伏見……さん……」
中腰になって再度名を呼んだ流雫に、詩応は顔を上げた。怒りと悲しみが交錯した顔に、流雫は心臓を締め付けられる感覚を覚える。
「流雫!」
奥の階段を下りてきた澪が、最愛の少年を呼びながら走ってくる。しかし、その隣の少女はほんの2分前とは別人のようだ。
「……詩応さん!?」
澪は詩応に駆け寄り、白いデニムジャケット越しに細い身体を抱き寄せる。
「詩応さん……!」
何度も、ターコイズ色をした……しかし光を失った瞳の少女の名を呼ぶ澪。その隣で、詩応に何もしてやれないことへの苛立ちに襲われる流雫。
……もし今銃を持っていれば、澪に詩応を任せて自分が戦っているハズだ。しかし、帰国したばかりで完全に丸腰だった。
仮に澪から銃を借りて撃った場合、正当防衛にならない。他人の銃で撃つ行為が銃刀法違反に抵触するからだ。借りた流雫も、貸した澪も、一生涯銃を持てなくなる。
今の流雫には、走って撹乱させる以外に方法は無いが、それにも限度が有る。
……ただ、一つだけ方法は有る。
「……澪」
流雫は最愛の少女の名を呼ぶ。澪は問う。
「何……?」
「……銃、貸して」
「……えっ?」
恋人の頼みに、思わず目を見開く澪。……まさかの言葉に、澪は頭が痺れる感覚に襲われる。他人の銃で撃つのは、たとえ夫婦や親子同士だったとしても御法度、それは流雫もよく知っているハズ……。
……しかし、流雫のことだ。絶対に秘策が有る。……あたしは、流雫を信じる。
「……流雫……」
とだけ囁いた澪は、詩応から離れて銃身を握って差し出す。流雫がグリップを握ると、2人は反対の……互いのブレスレットが手首を飾る手を重ねた。
そう流雫が言いながら、指を絡めた。相思相愛の2人は、同時に頷く。
指を解くと、ショルダーバッグを澪の隣に置き、セーフティロックを掛ける流雫。雨足は小雨……。
階段を駆け下りた男は、鬼の形相で流雫を睨み付ける。冷静さを欠いているのが、誰から見ても明らかだった。こうなると、有利なのは一見不利なハズの流雫……。澪はそう思った。
「……澪……」
小声で詩応が名を呼ぶ。しかしその瞳は、ネイビーのパーカーを羽織ったシルバーヘアの少年に向いている。
「……流雫なら、絶対……」
そう言った澪の隣で、ボーイッシュな少女は立ち上がると、中口径の銃を手にした。
……これは、アタシの戦い。詩愛姉の死の真相に、少しでも触れるための。
「詩応さん!?」
澪が名を呼んだ少女の表情は、何時かの流雫に似ていた。そう、初めて澪が引き金を引いた日、台風に見舞われた空港で見た流雫に。
「……流雫と澪は……アタシが……」
そう呟いて、詩応は視界を滲ませて走り出した。
「詩応さん!!」
澪は慌てて立ち上がった。
地面の色が変わり始め、雨音が流雫の耳を支配していく。変色するUVカットパーカーが少しずつ重くなる。
「諦めろ。お前は俺に勝てない」
そう告げた男に、流雫は
「……生きる。ソレイエドールのためにも」
と返す。男は
「その名を出すな!!」
と叫び、引き金を引いた。
雨音さえ掻き消す銃声の余韻、しかし流雫は倒れない。先刻の警察官よりも、距離的にも撃ちやすいのに外した。それだけ、冷静さを欠いているという証左だ。
「くっそ!!」
男は苛立ちの声を上げた。その向かい側、表情を崩さない流雫の隣に、詩応が立った。
「伏見さん!?」
その声に、ショートヘアの少女は何も返さないまま男を睨む。数十秒前までの泣き顔は、其処には無い……否、雨にカモフラージュさせている。
「……僕が囮になる」
流雫は小声で言った。
……手にした銃は澪のもの。自分で撃つワケにはいかない。だから一応セーフティを掛けた。ただ、撃たなければいい。
「流雫……?」
と名を呼ぶハスキーボイスを待たず、シルバーヘアの少年は濡れる地面を蹴った。
未だ靴底のグリップは生きている。しかしそれも時間の問題……。そう思った流雫に向かって走ってくる、ネイビーのスーツの男。しかし走っている限り、撃つことはできない……それは先刻判った。
しかし、敬虔な信者……と云うワケではなさそうだ。クレイガドルアにとって敵となる女神、ソレイエドールとテネイベールの名を口にした瞬間、男は顔色を変えて激昂した。そして、今も
「邪教の傀儡が!」
と怒鳴っている。
……宛ら、太陽騎士団を壊滅させるためだけの聖戦士。自分のことを、そう思っているに違いない。しかし、恐らくはそこに信念など無い。傀儡なのはどっちだ……、そう流雫は思った。
シンジュクスクエアの段差は、逃げるにはもってこい。しかし、地面は木……水捌けが悪く、滑りやすくなっている。そのコンディションを逆手に取るしか方法は無い。
流雫は詩応の後ろから走ってくる澪に頷き、段差と植え込みの外から大きく回るコースに出た。澪は男の後ろから、流雫を迎えるように反対側に回ろうとする。
そして、流雫と目が合った詩応は、彼に頷くと5秒だけその場に立ち尽くし、男を追った。
男の革靴は溝が浅く、僅かに滑っているのが、そして滑らないようにと少し勢いを落としているのが、後ろを一瞥する流雫には判る。転べば反撃の余地を与えることになるからだ……。
縮まらない差に、男は苛立つ。しかし、直線上に走る箇所なら、銃の射程距離と威力にモノを言わせられる。そして、その場所に至った。
墓穴を掘ったな……、男はそう思い、立ち止まり銃を構えようとした。その目の前で流雫は立ち止まり、一度振り向く。銃は右手に握っているが、構える様子は無い。
……何を企んでいる?しかし先手必勝、一息に撃ち殺せ。そう思った男は立ち止まり、銃を構えようとする。
……靴底が止まった。
その瞬間、流雫は隣の段差を駆け上がる。
「何!?」
男が気付いた時には、既に遅かった。シルバーヘアの頭に銃身を向けようとした、しかし捉えられない。
「ほっ!!」
何時もより足に力を入れ、滑らないように飛び上がる流雫はテーブルの角に足を引っ掛けた。天板は雨水が乗り、間違い無く滑るのが判っている。安全なのは角しか無い。
ガラス柵に背を向け、靴底がテーブルから離れる瞬間、流雫は銃のセーフティを外し、左手に持ち替える。しかし、グリップでは無くバレルを掴む。そして
「澪!!」
と叫んだ少年の左手から銃身が離れた。
「流雫!!」
と、自分に正面を向けた恋人に叫び返した澪は、段差を駆け上がって男の視界の端に入る。銃が最愛の少年の手を離れて1秒後、伸ばした少女の手はグリップを掴んだ。
「何……?」
男は、目障りな少年が跳びながら自分の動線上に戻るのを一瞬不可解に思った。逃げないのか……!?
「まさか……!」
囮……男がそう思った時には遅かった。
澪は段差を駆け下り、流雫の前に飛び出る。
「そこまでよ!!」
そう言い放った澪は、しかし男に銃口を向けなかった。
「死にたいならお前からだ!」
そう言い放ち、澪に銃口を向けた男は、しかし気付いていない。背後から走り寄るボーイッシュの少女、それが流雫と澪が一瞬で立てた戦略の本命であることに。
「澪!!流雫!!」
そう叫んだ詩応の声に、男は僅かに目を見開く。……痛々しい自称テネイベールの化身に、完全に気を取られていた。
……そして詩応が5秒立ち止まっていたのも、相手に追跡を気付かれないようにするための、足の速さを最大限活かした彼女なりの戦略だった。そして、それがターニングポイントだった。
男が銃を構えたまま振り向く。しかし、遅い。
「はぁっ!!」
詩応が振った銃身は、男の顔面を捉えた。鈍い音と同時に
「がっ!!」
と声を上げたその顔が、醜く歪む。
「詩応さん!?」
澪は目を見開く。
ターコイズ色の瞳は、宛ら吹っ切れた戦士のようだ。姉を殺されたことへの怒り、そして澪や流雫が殺される恐怖……それらが詩応を立ち上がらせていた。
「……ふざけやがって……!」
左頬を手で押さえる男の声が響く。しかし、頂点を超えた怒りは同時に、理性すら駆逐する。そうなると、誰にも手を付けられない。目の前の3人、まとめて殺したい。
「澪!!」
詩応が男に振り向きながら、隣の少女の名を呼ぶ。その言葉に先に反応したのは、パーカーを脱ぐ流雫だった。
袖から引き剥がしたネイビーのUVカットパーカーは、多少雨を吸っていて重くなっている。その分、武器として使える。
「たぁっ!!」
流雫がパーカーを振り回した。狙ったのは右腕……。
「ふんっ!」
当たったところで痛くない。何をしたいのか。しかし、それこそが流雫の狙いだった。
狙ったのは、正確には手首だった。手首に下から絡みついたパーカーを一気に絞り、自分の方向に引っ張る。
「このクソガ……」
と叫びかけた声を遮るのは、がら空きになっ脇腹を狙った澪の銃身。前から飛び込む少女に為す術も無く、男は
「ごほっ!!」
と派手に噎せる。
……こんなガキに苦戦するとは、全くの予想外だった。警察に喋られると厄介だが、殺すことは最早難しい。不本意だが、逃げ切るしかないのか。
「退け!!」
男は大声を上げながら、パーカーごと流雫を振り回す。
「くっ!」
力では敵わない流雫は引っ張られ、足を水溜まりで滑らせ……その瞬間、オッドアイを勝機が支配した。
勢いよく滑りながら、更にパーカーを絞って引っ張ると、脇腹を痛めた男はバランスを崩した。手放した銃は、鈍い音を立てて木の床の上に落ちた。
「うぉっ……!!」
と声を上げながら、尻餅をついた流雫の隣に倒れる男は、痛みに歪む顔で流雫を睨む。殺意に満ちていながらも、しかし身体がそれに追い付かないのか、動けない。
「流雫!」
澪が少年の名を呼ぶと同時に、男の背中に膝を立てて乗る。左手はネイビーのスーツに包まれた左腕を掴んで背中に回し、右手で手首を絞る。そして詩応が、後ろ首を掴みながら右肩に膝を乗せる。
「はっ……はぁっ……」
身体を起こした流雫の耳に響く、2人の絶え絶えの吐息を掻き消すかのように、靴音が聞こえる。
「そこまでだ!!」
その聞き覚えが有る言葉に流雫と澪は目を見開く。そして同時に思った。
「遅いよ……」
と。
中年の刑事が、男の手首に手錠を掛ける。
「澪!……流雫くんも……!」
「父……」
2人を呼ぶ声に、先に澪が反応する。その隣では弥陀ヶ原が
「君も……無事かい?」
と詩応に問う。ボーイッシュな少女は
「どうにか……」
と答える。……雨で顔が濡れているのは、彼女にとって好都合だった。
「……」
流雫だけは、何も答えない。……自分が駆け付けるまでの間、新宿で起きていたのは塩素ガス騒ぎだけではなかった。ネイビーのスーツの初老の男……総司祭の射殺。
刑事が駆け付けて安堵に包まれたが、同時に疑問が次々に頭を支配する。そもそも、射殺されたのが総司祭だとは思っていなかったし、旭鷲教会の連中の仕業だと思ったのも、今年に入って遭遇したテロと犠牲者の服装から判断しただけの話だ。
しかし、流雫の言葉に噛み付いた。……当たってほしくなかったことが当たった。
ただ、とにかく澪も詩応も無事だったことは、流雫にとって救いだった。
「……とにかく、事情聴取だ」
澪の父、常願は言った。その一言は、3人を強制的にこの場から引き剥がすには好都合だった。
新宿の警察署に連行された高校生3人は、刑事2人から渡されたバスタオルで服の上から身体を拭く。同時にインスタントコーヒーを注がれた紙コップを差し出された。
「さて……何が有った?」
弥陀ヶ原が3人に問う、しかし流雫は
「……その前に気になることが……」
と言う。弥陀ヶ原はシルバーヘアの少年を見ながら言った。
「何だい?」
「渋谷の件……あれは一体?」
と流雫は問う。澪は
「渋谷……?」
と問い返す。
「渋谷駅前で抗議集会が有って、発砲……。品川で見たニュース速報に、そう書いてあって」
と流雫が答えると、弥陀ヶ原は
「太陽騎士団に対する抗議だな」
と言った。
「抗議……?」
と口を開いた詩応の眉間には、皺が寄っている。声色も、少なからず怒りが滲んでいる。
「……所謂新宗教全般をカルトと呼ぶことが有るが、一種のカルトバッシングだ」
「太陽騎士団はカルトじゃない!」
詩応は大声を上げた。無意識だった。
「太陽騎士団の功績を見れば、危険な組織なんかじゃない」
と常願が言う。
「だが、河月と名古屋で起きてる事件で、太陽騎士団のスーツが目立ち過ぎてる。今日の新宿の件だって、下手すると太陽騎士団内部の問題で場外乱闘が起きた……そう見られても不思議じゃない」
ベテラン刑事の言葉に、詩応は口を挟む。
「あれは旭鷲教会の仕業なんだ……」
……詩応は、思ったより参っている……。澪にはそう思えた。
警察署にいる間だけでも、太陽騎士団を少しでも貶めている……そう思えるような言葉を耳にしただけで、過剰反応を示している。
日本支部トップの射殺を目の当たりにしたこと、そして名古屋でのテロもそうだったし、テレビで見ただろう河月の事件でもそうだったが、犯人が教団のスーツを着ていたことが原因で、太陽騎士団の実態は凶悪犯罪を起こす危険な宗教団体と思われている。
そのことが、伏見詩応の信者としてのプライドを引き裂いていた。そして、それは渋谷で殺された姉、詩愛への想いさえ引き裂かれている気がした。
詩愛は敬虔な信者だったが、詩応の憧れでもあった。5歳年上だったからそもそもの知識量も多く、姉から学んだことは多い。それに、姉の応援が有ったから、陸上も続けることができた。
……その支えを失った。遺された家族で唯一吹っ切れていないのが詩応だった。姉の死の真相を追うこと、それが姉に対する弔いになる……。この4ヶ月間、そう思い続けている。
後輩で恋人の女子高生、真でもそこには触れられない。ボーイッシュな少女にとっての、一種の聖域だった。流雫にとっての美桜のように。
「……じゃあ、流雫くんから始めようか」
と、弥陀ヶ原は言った。このままじゃ、取調が進まない。
……渋谷の大規模抗議集会は、突然始まったゲリラ集会だったことが警察出動の直接の原因だった。しかし、途中で警察に対する威嚇発砲が起きたことで、事態は発砲事件へと変貌する。結果的に4人の逮捕者を出しただけで済んだが、テロ専従の捜査課エムレイドが出動する事態になった。
太陽騎士団の大教会が位置するのは渋谷。しかし、総司祭は新宿から東京中央国際空港へ移動しようとした。それは、欅平千寿との会合が新宿のホテルのロビーで有ったからだ。関係者曰く、中身は宗教学者としての仕事に絡んだものだが、詳細は秘密らしい。
新宿駅の甲州街道側、バステ入口で起きた塩素ガス騒ぎは、新南改札側で起きた総司祭暗殺のための撹乱目的だったことが明らかになっている。其処に警察官や警備員を集中させれば新南改札側での犯行の難易度は下がる、犯人はそう読んだ。
しかし、最大の誤算は室堂澪と伏見詩応が偶然居合わせたこと、そして代々木側から宇奈月流雫が合流したことだった。
だが、もし流雫と澪の待ち合わせ場所が新宿ではなく空港や渋谷だったとすれば。流雫と澪はあの戦いとは無縁だったハズだ。しかし、それでも詩応はあの場にいただろう。
……1人きりで、あの2人と戦わなければならなかった。足が速く、射撃も上手……だから1人だったとしても無事、と云う保証など何処にも無い。下手すると、今頃何処かの病院の遺体安置室で眠っている、としても不思議ではない。
あの場所に3人が集まったことは、偶然でしかなかった。しかし、詩応の言葉を借りれば、やはりこれも創世の女神ソレイエドールの導きなのだろうか……。
澪は、今はそう思うことにした。それが最もシンプルだった。
「……今更だけど、お帰り……流雫」
と澪は言った。2週間ぶりの再会は、犯人との戦いの真っ最中。その余韻に浸ることなど、できるハズも無かった。
「ただいま、澪」
穏やかな声で、そう言った流雫の安堵したような表情は、澪を安心させる。……やはり、流雫がいると落ち着くし、心細くない。澪は口角を上げた。