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雪とカラート

作者: 北峰希

会話を拒絶するような音が響く。


栗色の葉が漸く舞って散るようになったこの頃、僕は前に進めなくなっていた。新緑が見え始めたときに渡された進路希望調査は皴ばかりで未だ文字は埋まらないまま、父さんに連れられるように行った大学も興味を持てないでいた。何をしたくてするべきなのか、分からず途方に暮れている間にもクラスの皆は二年後の自分を見据えて紙に未来を描いている。クラスの委員長は何校からもスポーツ推薦がきているというのに頭の良さを生かしたいからと医大の受験勉強をしているし、隣の席のあの子はやりたいことが見つからないからとヒッチハイキングで世界中を旅して探す、と話しているのを聞いた。考えても先のことなんて分からないよな、なんて話していた友達も親に進められるままに志望校を決めたらしい。答えを出せていない間にどんどん周りは線を引くようにスタートを決めていて、焦るばかりだった。

今朝も父さんに気を使われるように大学を勧められる。

「父さんの友達が講師をしているところなんだが。あそこなら融通も聞かせてもらえるし校風だってお前に合うんじゃないかと思うんだ、ほら校舎も綺麗だったはずだし。どうかな。」

「そう」

「そう、って。そろそろ決めないと面談があったり勉強とか準備を始めなきゃだと思うんだけど」

 分かってる。そんなことは自分が一番分かってる。十年先のことまで見据えなくてもせめて就職か進学か、どんな系統に進むのかくらいは決めなくちゃいけないことくらいは百も千も承知だ。大学なんてそれこそ適当に決めて進学後また考えればいいとすら思えるのに。駄目だという自分がどこかにいて、立ち往生のようなこの状態に一番急いていたのは僕だった。父さんの何気ない心配の言葉が、僕の理性をぐちゃぐちゃに混ぜるように壊していく。

膝上で暖をとる猫のカラートを撫でる手も、気が付けば机を殴っていた。ドンと鈍い音が響く。


「うるさいよ、そんなこと僕が一番分かってるから」


 カラートも父さんも、声を荒げたことのない僕に驚いているようだった。父さんは朝ご飯を作る手が止まっているし、カラートは飛び降りてどこかに行ってしまう。してはいけないことをしてしまった気がした。これは八つ当たりだ、分かっている。自分が作った状況なのに、いたたまれなくなって学生鞄を手に玄関に向かった。父さんが後ろで何かを言っているが、構いもせず会話を切るようにして扉を閉める。


 外は凍るような灰色に染まっていた。制服が染みないよう慌てて傘を差し歩き始める。降り止む様子もなく風に乗せられてきた丸を払って埋まりそうな足を進めていった。外がいつも以上に静かで頭が冷えたような気がする。改めてあの八つ当たりは酷いものだなと乾いた笑みを溢して、傘を傾げた。何故だかどうしようもなく泣きそうだった。

 きっと父さんは心配で声をかけてくれて連れ出してくれて、押しつけとかではなく僕のための行動だったんだと思う。うちのクラスの委員長みたいに周りを気にせず進める力があれば良いのに、隣の席の子みたいに知らないことにも飛び込む勇気があれば良いのに、中の良いあいつみたいに流れに身を任せられる身軽さがあれば良いのに、そのどれもを持ち合わせていない僕を恨む。皆が夜空の星みたいに遠く感じて、酷く羨ましくて自己嫌悪と劣等感ばかりで埋まっていく感覚がした。白に泥が混じった地面にぽたりと丸ではない何かが留まることなく降りしきる。

 不安と後悔と嫉妬と、心の中は今の地面のようにどろどろだった。足はいつの間にか登下校に使う道ではなく、どこにたどり着くかもわからない道を歩んでいる。不意に、聞いたこともない押し殺したような声が鼓膜に届いて、それが自分の声と気がつくのに時間がかかった。このまま学校に行けば周りに心配をかけてしまうし、と誰に聞かせるでもなく言い訳を並べて凍るような灰色の道をひたすら歩く。幸い傘のおかげで制服でふらつく僕に声をかける人はいなかった。

 気がつけばフェンスで先の道が封鎖されていた。立ち入り禁止の看板がでかでかと貼り付けられている。どうやってここまで来たかあやふやで別の不安が心の中に侵入してきた。ふと足元に温かい気配がする。

「みゃ、んにゃあ」

「ひっ、何だカラートか」

「うみゃあ」

今度こそ知らない声、と思って足元を見ると白い体をさらに白くしたカラートがいた。いつ家を飛び出したのだろうか。寒そうだし背中を掃ってやろうと手を伸ばすとひらりとかわされ、爪を器用に使ってフェンスを上っていく。想定外な動きに思わず笑ってしまった。その間にもカラートはひょいと登りきり向こう側へと飛び降りる。ごろごろと喉を鳴らす姿にかわいいなと思っていると立ち入り禁止の看板が再び目に入った。まずい、私有地だか何だか知らないが誰かに見られたら確実に怒られるに違いない。よくわからない焦りが出てくた。何とか戻ってこさせようとフェンスを揺らしたり間から指を通して促すが喉を鳴らすばかりで動こうとはしない。

仕方ないと腹をくくり傘を閉じると、ぽつぽつと服が白くなっていった。その場に傘を立てかけフェンスをのぼりはじめることにする。何だか遊具で遊んでいる子供か、はたまた呑気に遊ぶカラートみたいで可笑しかった。フェンスの頂上あたりまで着き、向こう側へ降りようとすると誤って足を滑らせ落ちていく。

衝撃はあまりなく、ぷはっと顔を上げると視界は真っ白に染まっていた。信じられないくらいの白だった。月の光くらい白くて柔らかくて、眩しいと目を細めてしまうほど美しい世界だと思った。

にゃ、とカラートが声をあげる。いつの間にか僕の近くまで来ていたみたいでキョトンとした目をしていた。顎あたりをなでてやるとさっきみたいに喉を鳴らして、それからどこか遠くに行ってしまう。この敷地から出そうと思っていたのに奥に行ってしまうことに余計に焦りを感じた。それにカラートも瞳以外は色がないから探すのも一苦労だとこの時点ですら分かる。見失うまいと全力で走って追いかけるとカラートも歩く速度をあげていった。

「かけっこみたいだ」

僕たちは世界に溶けてしまいそうなほど奥まで走っていく。


 十五分くらい、ひたすら柔らかい世界を走っていくとカラートは唐突に走るのを止めた。足元が滑りそうになりながらも僕も止まる。肩で息をしているくらいなのにカラートは身震いをした後座って呑気にしていた。何で走っていたのか分からなくなりそうな気がして、その前にとカラートを抱き上げる。不貞腐れているような満足気そうなのか、よく分からない顔をしながら身をよじっていて首輪の飾りがコンとなった。腕からこぼれそうで落とすまいと抱きなおす。

ふと前を見ると池があった。本来はただの池だ。というか、今ですらただの池だ。けれど僕の目にはただの池が今まで見た景色の中で一番綺麗なものだった。フェンスを越した時のあの白い美しい景色も霞むくらい。白い地面と染め上げられた草木、それに恵みを与えるかのようにのこる池は静かな色をしていた。光が当たらないから輝きはしないものの、澄んでいてひっそりとそこにあった。綺麗、と口にすることすら忘れ瞬きすることすらもったいないと思えたほどだった。こんな景色を目の当たりにした僕は気づかぬうちに腕の中のものを溢し、無意識に何かを探しながら昔の祖父との思い出を瞼に映す。


「なあ、じいちゃん。」

何年も前の梅雨時期。雨風で夏前なのに寒くて祖父の布団を一緒に膝にかけて窓を見ていた。点滴の落ちる音と窓を打つ音が止まなくて、半袖のシャツが風を撫でるたびに心細くなったのを覚えている。

「じいちゃん、このまえ父さんに頼んでやっと猫飼ってもらえたんだ。あと席替えして号令係になっちゃったんだ。でも遠足の班決めで仲良いやつと一緒の班にになれてさ。それから、それから、」

きっとずっと同じ景色はつまらないだろうと子供ながらに気を使って引っ切り無しに話をしてみても、祖父は基本無口で返事もろくにしない人だったから不安になることが多かった気がする。それでも毎回「それからどうしたの」と微笑みながら聞いてくれる祖父が好きで、学校帰り病院までよく通った。

「それからさっき言った猫の写真、俺が撮ったんだ。すごい気分屋みたいだからぶれてない写真これだけなんだけど」

そう言ってプリントしてきた写真を見せる。家の引き出しの奥のほうにしまってあったカメラをこっそり持ち出して撮ったものだった。誰のかは知らないが見た目がかっこよくて少し使うくらいは良いだろうと拝借したのだった。

「綺麗に撮れてますね。ところで」

祖父はその写真を見て、なぜか声を抑えるように笑いながら僕の頭を撫でた。綺麗というのだから笑いは写真にではなく猫パンチされかけている姿を見て笑っているのかと思っていた。

「これは引き出しにしまってあったカメラを使ったでしょう」

「えっ、じいちゃんどうしてわかったの」

「あのカメラ少し壊れてるから左端が白く発光しちゃうんですよ。僕が息子に、君の父さんにバレないように買ったものだから隠してたんだけど。見つかっちゃいましたね、それにしても綺麗に撮れてるなあ」

「勝手に使ってごめんなさい。でもあれかっこいいね、父ちゃんに隠れてでも欲しくなるね」

いつもより饒舌な祖父が嬉しくて、それから二人だけの秘密ができた気がして、祖父と同じように声を抑えて笑った。ひとしきり二人で笑ってやがてまた祖父が口を開く。

「良かったらまた写真撮ってきてくれませんか」

「え、いいの」

「僕はずっとここにいるから暇で仕方ないですし、とっても綺麗に撮れてましたから。でもあのカメラは僕と二人の秘密ですよ」

「やった、じいちゃんのために沢山写真撮ってくるね。夏になったら海も見たいだろうし冬はやっぱり雪も見たいよね。それから猫もまだ小さいから、うちに帰ってくるまでどのくらい大きくなったかみたいな成長記録もみたいよね。それから、それから、」

「それから、どうしたの」

あの日ばかりは話が尽きなくて度々ふたりでひそかに笑った。肌寒さも水の音たちもいつしか気にならなくなっていて「あれも見たいよね」「退院したら父さんに内緒でじいちゃんと写真撮りに行きたいな」と語った。父さんが面会終了間際に迎えに来た時には、

「二人ともそんなに楽しそうに何を話してたんだ。いつもは窓ばかり見て静かなのに」

と不思議そうにしていた。結局その次の月までは病室に通う日々だった。


 どうして僕の紙は白紙のままで、流されることすら良しとしなかったのかが漸く分かった気がした。多分、いやもう既にやりたいことはあった。そのことをなかったことにして周りばかりを見ていたから、自分の生きたい道ではない方向を向けられたことに不安になって、腹を立てて、嫌だと思った。あの時、祖父と話している楽しい時間は周りなんて気にする必要はなくてそこからのめりこんだものをすっかり忘れていた自分に、心底驚いた。鞄の奥に入ったものを取り出し、ひたすらシャッターを切る。

「じいちゃん、雪だよ。雪だ」

口から出た言葉はそれだけだった。けれど心の内では沢山言葉にしていた。

クラスの皆への羨みの言葉にかえす自分のやりたいこと。

父さんへ今朝までの態度の反省と、秘密を隠した祖父の話。

じいちゃんへの言葉は本当に数えきれないほど沢山で。他愛もない言葉もあれば、将来の今までの不安や吹っ切れるほどの景色を見つけたこと、先ほどまであの楽しい日々を忘れていたことへの謝罪、その他もろもろ。病室にいた時のように、まわりなんてどうでもよくなっていた。

 制服が染み切って色が変わっても、もう傘はいらなかった。


「んにゃあ」

はっとするとカラートが足元でまた白くなっていた。

「いつも大切な道に戻してくれるね、カラートは。」

 スマホで時間を見ればまだ最初の授業まで三十分はある。後ろを見ればだいぶ遠くだけれどフェンスみたいなものがあるから、スマホのナビを見ながらになるけどきっと走れば間に合うと思った。とりあえず学校に行って紙に文字を書いて父さんにも軽く連絡をして、それからさりげなく友達に先に進路を決めたことが羨ましかったんだと話そうと思った。周りばかり見ていたから今度は自分をしっかり見て目を逸らさないでいたいと思ったし、不安がとれた今なら何でもできる気がした。今度こそカラートをしっかりと抱きかかえ走り出す。地面には自分だけの足跡が残った白だった。


 登校路は下を見ればきっと泥が混じって灰色だ。けれど前を見ていれば空から降るものは白いことが分かるし、自分がどこを歩いているのか、知らない道であっても幾分かは分かる。写真を撮るにも歩くにも考えるにもしたばっかりは向いてられないと思えた。


 じいちゃんが「綺麗に撮れてるね」とまた笑ってもらえるような写真が撮れてますように。

鞄の奥に入る祖父のカメラを想って、ひとまず予鈴が鳴る前にと走っていく。びしょびしょの制服と抱いた白猫を交互に見、笑われる朝が来ることを想像もしないまま。


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