閑話 唾濡れの指
閑話です。少しだけ長めです。
オレはにいちゃんがだいすきだ。いったいどうしてこんなにだいすきなのかと考えてみると、やっぱり出会ったころからだいすきだった。
五年前、オレがライにいちゃんの隣に引っ越して来た当日の事。にいちゃんの家に挨拶参りに来たオレの家族は、にいちゃんちのチャイムを鳴らす。
すると出て来たのは、優しそうな顔をした一人の少年。
「こんにちは。おれは柊木来寅だよ、よろしくねっ」
「……さわ、ふうか……」
「そっか、フウカくん、よろしくね!」
オレとにいちゃんの初対面はきっと、見た人誰しもが真逆の性格の人種だと判断されそうなものだったと思う。
にこやかに手を差し出してくる声変わりを迎えていないにいちゃんに、その手も握れずにただオドオドしながら視線を鎮めるのは小学校に入学したてのオレ。
その時にいたのは、一緒にあいさつに来たオレの隣の両親と、たまたま一人で留守番をしていたにいちゃんの四人だけ。
ただ、何だか左右から怒気の様な見えない力が動いているような気がして……怖がりながらもにいちゃんの手を取ったんだ。
「……っ」
「ぁ……へへ、今度うちに遊びにおいでよ、フウカくん」
「う゛……」
その言葉にどう反応すれば良いのか、当時のオレは全く分からなかった。
代わりに、オレの肩を大きくてぺったりとして、どこか冷たい……オレの嫌いな手の平が包んだんだ。
「うんうんそれは是非ともお願いするよ! ラインくんって言ったかな、僕たちは仕事で忙しいからさ、この子と遊んで貰えると凄くうれしいよ。なんなら勉強とかも教えてあげてくれるかな」
「えっと……」
「ほら。お前も返事をしろ」
「お、ねがい……します……」
「……はい、わかりました」
オレはお父さんの顔を思い出すことが出来ない。顔だけは優しそうだったような気も、実は残忍な顔をしていたような気も……その全てがまるで真実かのように頭の中で当てはまるけど、正解は絶対に出来ない確信がある。
オレはお母さんの顔を思い出せない。思い出そうとすると黒い靄の様な物が掛かって靄女とでも言うべき魔物が出来上がる。
オレのお父さんからの言葉に少しだけ何かを感じ取ったかのようなにいちゃんは、けどオレの手を離すことは無かった。
温かいにいちゃんの手のひらは、そのままオレの強張った手を優しく揉んでくれて……不思議と心地よさを感じたのを今でも覚えている。
そのままにいちゃんはオレの両親に向き直って、突然提案をしたんだ。
「なんなら今から一緒に遊んでも良いですか? これからお隣さんになるんですし、この近くっておれ以外あんまり子供いないから、そういうの憧れてたんです」
「今からかい……? けど、これから荷物整理が……」
幼かったにいちゃんの提案を断ろうとするお父さんに、にいちゃんは負けじと言い返す。
「まさかフウカくんにやらせるわけでもあるまいし、フウカくんだって遊び盛りでしょ? 邪魔になっちゃうかもしれないじゃないですかー」
へらへらとした語り口調、ギリギリ小学生の少年としては大人びていたように思えるにいちゃんの姿に、オレはその時ある種の憧れの様な物を抱いたんだ。
荷物整理はオレの仕事だった。幼いオレは、それが普通だと思ってたから。
「んじゃ、そーですねー……ウチで夕飯食べさせても良いですか? 父さんと母さんが家にいれば食事会とか出来たかもしれないけど、おれしかいないからフウカくんくらいしかもてなせないんです」
「えぇ? いや、それは流石に悪──」
「いいんですよー! おれが好きでやる事なんですから!」
余りにも強引だったと思う。きっと、普通の親だったらここまで押し切ろうとされると止めると思うんだ。
けどさ、運が良かったのか悪かったのか、オレの両親のオレへの関心ってのは薄かった。
「いこっ、フウカくん!」
「え、え……?」
にいちゃんに手を引かれて初めて他人の家にお邪魔したオレは、ただ座っててと言われたソファーに身を埋める事しか出来なかったのを今でも覚えている。
───
「むぅぅ……」
「ぅ……な、なに……? ふうのかお、なんかついてる……?」
お菓子を持ってきてくれたにいちゃんは、何故だかオレの顔を凝視し始めた。
何かを探すようなその仕草にオレがそう質問すると、今度は服をぺろりと捲り上げられオレは思わず悲鳴を上げる。
「ひぁ!? な、なに……? なに、するの……?」
「……痣とかは、ないね……でも。ねえフウカくん、ちゃんと食べてる?」
「たべ……?」
あの頃のオレは痩せていた。骨と皮だけとまでは流石に行かないけれど、明らかにぱっと見で痩せていると分かるような身体をしていたんだという。
だからこそのにいちゃんの質問。服を元に戻したにいちゃんは、今度はオレの胸元へと顔を近づけクンクンと鼻で息をする。
「それに……ちょっと、汗の匂いもするよ」
「ふう、あせのにおい……?」
お風呂なんて殆ど入って無かった。身体を洗えって言われて服を脱がされ風呂場に放り込まれはするけど、六歳のオレが自分で身体を隅々まで綺麗に出来るわけがない。
ネグレクト……とまではいかないのかもしれない。だって完全に育児を放棄されていたわけではないから。
けどそれに近しい状態にあったことは疑うまでもない。
にいちゃんは後々言っていたんだ。子供は体臭が薄いはずなのに、そこまではっきり汗の匂いがするのは絶対におかしかったと。
何もわからない無知なオレ。そんなオレを抱き上げたにいちゃんはそのままお風呂場に連れて行ってくれて、身体を綺麗に洗ってくれた。
人の手で洗われる事があんなに恥ずかしい事だとは思わなかった。にいちゃんは固まるオレを優しく手でこすってくれて、そうしたら何だかふわふわとした幸せを感じてオレは身を委ね続ける。
素っ裸のままにいちゃんの膝の上に乗せられたオレは、そこで初めて人の温もりを知った。
「はいっ、おしまい! 綺麗になったねぇー」
「っ、やっ……!」
だから身体も洗い終わって、さあ出ようとなった時にオレはにいちゃんを引き留める。
濡れてはいたけど身体と身体が触れ合っていたし、寒くはなかっただろうけどきっと重かっただろうにさ、にいちゃんは一切の文句も言わずにオレの我儘に付き合ってくれたんだ。
十秒、二十秒と時間が続き、きっとその沈黙に耐えられなくなったのであろうにいちゃんは、そのままオレを質問攻めにし始めた。
「ね、フウカくんの話聞かせてよ。いっつも家ではどんな事してるの?」
「えっと、えっとね……」
その質問にオレは嘘偽りなく答えたんだ。
ご飯は冷たいのばっかりだってこと、しかも硬くて食べにくかったり、まずかったりもすること。
荷物整理も本来はオレも手伝わなければいけなかったことや、産まれてこのかた殆ど家から出させてもらえなかったこと。
オレの腹を腕で締めるように抱いてくれていたにいちゃんの力が、オレの話を聞くたびに少しずつ強くなっていく。
「らいん、さん……ふうくるしいよ……」
「あっ、ごめん、ごめんね……」
謝るにいちゃんはオレを抱き直し、今度は正面から向かい合うように体勢を変えてくれる。
オレも同じようににいちゃんの背中に手を回す。それから暫く、オレの気が収まるまでそうやって抱き合って、解放された頃には身体の水気は乾き始めていた。
───
「はい、これ着て。おれはちょっと身体吹いて服着て来るから」
シャワーを上がって着せられたのはちょっとダボっとしたバスローブ。ぶかぶかなそれから漂ってくるのは嗅ぎ慣れていない人の香り。
戻って来たにいちゃんは、バスローブを鼻に近づけてくんくんしているオレを見つけて恥ずかしそうに口を開く。
「ごめんねー、母さんのだとサイズ大きいし、おれのがいちばん大きさちょうどよかったんだ」
「……これ……えっと、らいん……さん、の?」
「あはは、ライン"さん"って距離遠くない? ま、初対面だから仕方ないけどさ……呼び捨てでいいよー」
思えばこの時だ。オレがにいちゃんの匂いが好きになったのは。
思えばこの時だ。オレがにいちゃんに包まれると安心するようになったのは。
産まれて初めて感じた良く分からない感情はオレの中で燻っていた愛情への渇望を思い出させて、なにがなんだか分からなくなったオレはそのまま涙を流してしまった。
それに焦ったのはにいちゃんだ。オレの身体を優しく抱きしめて、まだ濡れている髪の毛を撫でてくれて、お腹をポンポンしてくれて……。あと、もう数えきれないくらい甘い対応にオレの心は溶けていく。
思いっきりしがみついても怒られないし、涙で服を汚しちゃっても温いと言って笑ってくれる。
幸せに浸っていたオレを呼び戻したのも、やっぱり幸せな言葉。どこまでも優しい慈愛の響き。
「ね、フウって呼んでいいかな」
「……ん……ふうのこと、ふうって、よんでくれるの……?」
「うん。あのさフウ……これから昼食作るけど、一緒に食べよ」
「っ……ん!」
首をブンブン振って頷くオレに、やっぱりにいちゃんは笑ってた。
オレがにいちゃんの身体を開放すると離れていく温もりに泣きそうになりながらも、オレはその後姿を見送る。
リビングとキッチンを隔てる暖簾の揺れを見届けて、その間にオレはにいちゃんの家を観察し始めた。
生活感ってのが良く感じられる薄色の内装に、壁際には女性と男性、そして子供が映った写真が数枚。
戸棚にはなんかよくわからないオブジェクト、中央のテーブルを取り囲むように設置されたソファー群。
でも、他に見るものは無いな……オレはそのままにいちゃんが消えていった暖簾の隙間から、にいちゃんの裸足を視界に収める。
そうしてそのままにいちゃんが着せてくれたバスローブを手繰り寄せ、にいちゃんの匂いを吸い込みながら身を丸め目を瞑った。
あの時のオレは間違いなく、初めて知った幸せに飢えていたんだと思う。
───
「う゛ぁぁぁぁ……!」
「ちょ、泣かないでよ……もしかして、まずかった? 塩と砂糖間違えてたとか……」
「ちがうっ! おいしっ、かったぁ……!」
温かい料理ってのが久しぶりだったオレにとって、手作り料理ってのは破壊力が強すぎる。
柔らかなロールキャベツ、あつあつの味噌汁、卵のふりかけがかけられた白いご飯。オレが夢見た温かい家庭の光景がそこにはあった。
小食になれてしまった身体は全部食べ切ることが出来なくて、それでまたオレは泣いた。
その後ごめんなさいごめんなさいと全力で謝ったオレを再び抱きしめてくれたにいちゃんは、そのままソファに一緒に転がりオレと一緒に横になる。
そのままオレの頭を胸に抱いてくれたんだ。
「もう、フウったら……そんな謝んなくて良いんだよ。今まで、辛かったんでしょ」
「つらい……? ふう、つらかったのかな……」
オレにはそれすら分からなかったんだ。
「ってか何さ勉強教えてもらいなさいって……フウくらいの年だったら普通遊んでるだろーが……」
「……」
「フウ?」
「いま、つらくないよ」
何も知らない当時のオレが、唯一言い切れたたった一つの事。あの時オレは全く辛くなかったんだ。
自分の家より居心地がいいにいちゃんの家、初めて来る場所初めて会う人。だというのにオレの中の安心できる人の第一位ににいちゃんが食い込んだ。
普段からずっと感じていた息苦しさが、その時は全くと言って良い程感じられない。ずっと窓が締まりっきりの個室の中だったオレの為に、にいちゃんが窓を開けてくれた。
余りの安心感に幼児のオレの心は少しだけ、更に幼児退行をしていたんだと思う。オレの頭を撫で続けてくれていたにいちゃんの手を取って、その指を口に含む。
「ちょ……なぁに、おれの指おいしくないでしょ」
「んちゅ……んんん……」
身体を丸めてにいちゃんの指を食んで、そのまま胸に頭をこすり付ける。
程よい硬さの腕枕、伝わってくる体温とにいちゃんの匂い、優しさしか感じない声の響き。
そんなラインという少年は、そう、まるでオレにとって本当の家族のようだった。
家族、それに当てはめるならば……。
「あぅ……に、いちゃん……」
「え?」
「らいん……にいちゃん……」
初対面のあの時から、にいちゃんの優しさに触れたあの時から、オレにとってにいちゃんはにいちゃんだったんだ。
オレの呼び方ににいちゃんは何処か気恥ずかしそうな、にへらとした笑い顔を見せてくれて、それでオレはもっと嬉しくなって……もう一度にいちゃんの手をしゃぶり始めたら一転困ったような表情を再び見せてくれて……。
「ふう、らいんにいちゃんのこと、すき」
「あはは、フウは可愛いなぁ」
だからオレはにいちゃんがだいすきなんだ。
───
──
─
オレの身を包む滑らかで温かい慣れ親しんだ感触と、鼻腔をくすぐる心を穏やかにさせる香り、時折呼吸の音に混じって聞こえて来る優し気な声帯の揺れ。
自然と笑顔があふれ出る目覚まし時計に次いで、外の眩しさがオレの瞼を貫通する。
今まで浸っていた思い出の世界は崩れ去り、けど確かにそれに続く日々の中へとオレは叩きだされていった。
「ん……ゆめ……?」
久しぶりに夢を見た気がする。にいちゃんが夜に泣きだしてしまっていたあの時までは夢なんかもう見る事は無くなっていたし、にいちゃんが別の世界に飛ばされて力を手に入れてからは幸せの中で深い眠りについていた。
件の黒獣とやり合う、決戦の日は近いけれど……それでもオレの中には大丈夫だという自信があった。
「にいちゃん……まだ、ねてる」
オレと抱きしめ合いながらすやすや寝息を立てるにいちゃんは、昔と全然変わらない。
さっきのはオレの記憶だ。にいちゃんとの出会いの記憶、オレのにいちゃん愛のルーツ。
オレは絶対ににいちゃんから離れない。にいちゃんが居なければ今のオレはいないんだから、オレのこれからの全部はにいちゃんに捧げるべきなんだ。
それに、にいちゃんが笑うとオレも嬉しい、にいちゃんが悲しいとオレも悲しい……にいちゃんはオレの全てだから。
「……にいちゃんの、手……」
そういえばオレって、昔にいちゃんの指食べてたんだな。オレの脇下を通って背中を抱きしめてくれていた片手を外し、オレはにいちゃんの手を両手で包み込む。
「えへへ……にいちゃぁん……」
手の平に頬ずりをしたり、胸の前で抱きしめたり。散々もてあそんだ後にオレは指を目の前に持ってきた。
あの時を思い出し口を開いて舌を這わせ、一気にぱくりと口内で包み込む。
「……はむ」
にいちゃんの指の味、ちょっとだけしょっぱいような……いや、やっぱり味は無いな。
でも不思議と感じる幸せの味は、きっとオレの心が生み出した幻想だ。
けど、それでいい。
「ん、んん……? あれ、おはよ、フウ……」
「ん、おぁぉ、いぃゃん」
「え……っと……??」
困惑しきった眠気眼を尻目に、そのままにいちゃんの指を味わいつくす。
指の腹から第二関節、爪の間、全てを舌でちろちろ嘗め回し、オレの唾液で濡らしていく。
ようやく事態を呑み込めたにいちゃんはけれど不思議と反抗はしない。あの時と何一つ変わらない困ったような視線をオレに向けながら、空いた手でオレの頭を撫でた。
「……あの時と同じだね。フウ、あの時も俺の指、舐めてたっけ」
「ん……」
「フウってば、俺の作った料理食べて泣いちゃってさ。俺焦ったんだよ? ……まだフウちっちゃかったし、覚えてないか」
いや、全部覚えてるよ。忘れるわけがない。オレが首を横に振ると少しだけ驚いたような顔をしたにいちゃんは、何処か嬉しそうにオレの身体を引き寄せた。
「そっかぁ。俺も、忘れるわけない。あんなちっちゃくてやせっぽっちの子供がさ……こんな活発な子になるなんて、俺思わなかったよ……あれから五年たったわけだけど、体格差はあんまり変わってないかな」
「んん……!」
「うぉ、ちょ、歯型付けないでよ……ごめんって」
まったく、失礼なにいちゃんだ。
でもオレはそれで良いんだ。だってちっちゃい方が、にいちゃんにこうやって包み込まれやすいから。
「あの時さ、俺がフウの事何とかしてあげなくちゃーって、使命感……って、言うのかなぁ。そんなのを感じたんだ」
頭から肩に下がって来た、あんまり大きいわけじゃないけど外での長い生活に少しだけカサカサとした、オレの大好きな温かい手のひら。
それはそのまま横に滑ると、二の腕をグイっと持ち上げてきて、二人して枯草のベッドの上で向かい合って座る。
にいちゃんの指を相変わらずしゃぶりながらその瞳を見上げた。
「フウ」
「ん」
寝起きだからか少しだけ潤み、普段にもまして穏やかな表情にオレの心臓は跳ねる。胸の中が、震えるような気配がした。
「俺もちゃんと、フウの事大好きだからね」
「……んっ!」
やっぱりだいすきだ。にいちゃんは、やっぱりオレの一番大切な人だ。
溢れ出る激情のままに、オレは咥えた指を離してその胸へと頬を摺り寄せた。




