地獄の終わり
次回から元の世界に戻ります。
「……まずい、かも!」
ギィぃぃルァァぁぁぁ!!!!!
すぐ後方から俺の耳をつんざく金切り声にも似たバケモノの絶叫。奇跡的な危機察知のままに身体を倒すと、視界の端を黒い高速が貫いていく。
わき腹に当てた手からは常に魔力を放出し、負った手傷を今も治していた。痛みでどうにかなりそうだけど、痛いと言う事は生きている事だ。
流れる脂汗に不快感を感じる間もなく荒い息を吐き、再び前へと走り出した。
初めて見るタイプのそれは、かろうじて人型を保っている複数の生物の集合体。
頭部には一本の首から枝分かれした細首と、その先にまるで複眼のようにくっついた別の頭。一本の腕からは虫の脚のような細い腕が大量にくっついて、反対の腕は阿修羅像のように複数の人間の腕がくっついていた。
あまりに悍ましい造形に身の毛がよだち、けれど生存本能がそれを押し込める。
「あと、あと少し……」
魔導の習得は完了した。果たして今までの自分もこの過程を乗り越えていたのか、それとも単純に俺の才覚と合っていたのかは分からない。
けれどある程度は難解で、けれど以外にも簡単にその魔方陣を使いこなせるようになった俺は、少しだけ周りの本を流し読んでから外へ出た。
あれから数時間は立ったはず、だけど俺は今までで一番のピンチを迎えている。全てはこのバケモノが原因だった。
「はぁ……っ、くそ、いてぇ……!」
まさかバケモノが不意打ちをしてくるとは思わないだろう。
巨体の癖に俺へと一切の気配を漏らさず、突然現れたそれは俺のわき腹を突然にえぐり取り、内臓が傷ついたという確信は俺の逃走という動きを鈍らせた。
同時に感じたのは激しい怒りだった。理不尽への理不尽な怒りは俺に初めて反撃という行動をとらせたんだ。
魔導、『理三法増幅陣』。あらゆる現象を増大、減少させる亡き彼らの到達点。
魔素を操り魔素そのものに効力を与え、円形の魔方陣を生成する事で発動するその陣は、中央に空いた小円を正方向から貫いた物のあらゆる力を増幅させ、負の方向から貫いた物のあらゆる力を吸収、分解してしまう。
中途半端な反撃だった。中空へと作り出した陣へその辺に転がっていた石ころを思い切り投げつけ、速度と威力を増大させられた石ころはバケモノの身体へ突き刺さる。
それが良くなかったのだろう。バケモノを本気にさせてしまった。
「この先って……崖……、やばいな、逃げられない。他に逃げ道は……」
建物の残骸を盾に、脚に風と陣を纏わせ高速軌道を展開する俺だけれど、それでも本気のバケモノから逃げるのに精いっぱい。
それも少しずつ追い詰められているんだ。
「右方向に行ったら湖だよね……そこに逃げ、いや、ダメだ。毒で麻痺して殺される」
あのバケモノは知性があるのではないかと俺は感じ始めていた。
だって明らかにおかしいんだ。逃げようとした道は全部何かしらの良くない要素があって、逆に何もない所を通り続けていた俺の行く末は囲い込むかのような崖。
熟達した狩人が獲物を追い詰めているかのようなそんな感覚すら味わう程の、何処までも俺に都合の悪い逃走経路。
「左……ダメ、地割れを超えられない」
キィィィぃぃ!!!!
「ッ! あっぶねぇ……!」
唯一の救いは奴は攻撃の直前に声を上げる事くらいかな。
音に反応して前へ全力で飛ぶと、数メートルの大跳躍で逃れたそこが数えきれない程の棘で剣山の様相を呈している。
もしもジャンプして避けていなかったら……考えたくもないな。
一瞬だけ後方を確認すると倒壊する廃墟を打ち破り轟音を響かせながらバケモノは突っ込んでくる。
マジで良くない。本当にこれは良くない。捕まったら死の鬼ごっこはかれこれ三十分以上は続いているだろう。
……いや、本当はまだ十分とか、五分とか……? わからない、時間の感覚があてにならない。
いつ、本当にいつになったら俺は開放されるんだ……!
「ああああああっいい加減にしろぉぉぉおおお!!!!!」
不平不満を全て声に乗せるけれど崩壊する音にかき消される。
「魔導陣ッ!!!」
けど少しだけスッキリした俺は、棒のような脚に囲わせていた魔導陣へと力を込め直した。
────
「はぁっ、はぁっ……!」
ギィィァァァッッ……! ァァッ、ァァァぁぁっ!
「くそ、笑ってんのかこいつ……」
左右後ろは巨大な崖、目の前には出口を塞ぐようにバケモノの巨体。
黒ずみが目立つ色鮮やかな肉体を持つ醜悪なキメラのようなバケモノは、確かにその辛うじて人型である顔の口角をにぃっと吊り上げ声を上げていた。
ギチギチといった気色の悪い音がここまで聞こえてくる。
それは全部バケモノの片腕、蟲の節足が何十本も毛のように生える醜さの塊から聞こえてくるものだ。
そしてそれは伸縮自在のようで、地面から突き出す剣山は全てあの節足を伸ばしたもの。
一本が地面へと潜り、バケモノが金切り声を上げる。それを合図に横へと飛んだ。
ジュっ!
「い゛ッ」
太ももに走る鋭い痛み、赤い鮮血が宙へ舞う。
ちょっと掠ってしまった、障害物も何もないこの状況で避け切るのは予想以上に大変だ。
わき腹の血は止まったけれど、代わりに身体中至る所から血が流れているからあんまり関係ないな。
意識はとっくに朦朧としていて、今何とか避けれたのだって意地で意識を繋ぎとめているに過ぎない。
もう、限界だ。
「う゛ぅ……や、べ……意識、飛ぶ……」
ギャァァぁ、ァ゛ぁ゛ぁ゛ぁぁッ、キィィァァァぁぁ……!
あ、やばい。攻撃の予備動作だ、脚が、動かな……。
「い、ヤダ……やッ、あ゛……っ」
激痛。
俺の肩に鋭い何かがめり込んだようなそんな感覚と共に、頭の中を激烈な刺激に埋め尽くされ他に何も考えられない。
痛い。痛い。ああ、痛い。涙が滲むけど拭う事も出来ず、腕振り回してせめて痛みを逃がそうと思ったのに、どういうわけだか全く痛みが変わらない。
それに、熱いんだ。指がも肘も二の腕も、まるで溶岩に突っ込んだみたいにとにかく熱くて、それが先端からどんどん冷えて行くような、そんな……。
「あ、れ……?」
滲んだ視界に移り込んだ肌色の棒のようなもの、半分ほどが赤色に染まったそれは何だが物凄く見覚えがあるような……。
キィィィぃぃぁぁぁぁ……!
「あ゛ぅ゛ッ」
ボトッ……。
またこの痛みだ。今度は反対の肩……この喪失感は何だろう、何か大事な物を無くしてしまったかのような。
それに今の音、痛みは相変わらず凄まじいけど何だか麻痺してきたみたいでせめて視界だけは確保しようと涙を拭おうとして手を……。
「……手……俺、の……あ、ああぁぁぁぁ……」
腕が無い。16年間ずっと一緒だった俺の一部が何処にも。
思わず叫びそうになって、なのに喉から出て来たのは少し掠れた薄い声。
声も、もう出ない……?
「っ……ぅ、ぅぁぁぁ……!」
死ぬ。これは間違いなく死ぬ。
両腕から流れ落ちる俺の温もりは、びちゃびちゃと音を立てて……音……? 音って、なんだっけ……?
薄れ行く意識の中で俺の頭を締めたのは、良く日に焼けた肌をした幼い少年の姿だった。
そうだ、オレは、死ぬわけにはいかない。
オレが死んだら、フウも死ぬ。フウの為にも、オレは、絶対、絶対死ぬわけには!
「ま、どうっ、じぃっ」
何なら流れる血で陣を書いてやろうか、何としてでも一矢報いてやる。
俺は、フウのにいちゃんだっ。にいちゃんは弟を守らないと、にいちゃん失格なんだ!
揺れる視界に怨敵を定め、魔素を操り一秒でも長く生きる為にオレは──
────
『はぁっい、しゅーりょー!!』
無駄に明るい、腹が立つ声が聞こえた気がした。




