カレーにトマトを入れること
訳あって、私には、先輩のところで居候していた時期がある。理由はシンプル。不況である。
私には夢があった。それを追うための勉強、このためには、お金が必要であった。勉強時間を確保できる仕事をなによりも望んでいた。そして、これが可能な働き口の候補をいくつか見つけていた。
しかし、あてにしていた仕事は不況のあおりで消えてしまう。リーマンショックと東日本大震災。未曾有の出来事が、少なくとも実感としては、ほとんど連続して発生した。住むところもない。
このときの選択肢は2つ。
随分と薄くなったアルバイト情報誌を開き、片っ端から電話をかけ、朝昼夜と働いて食と住を確保する。この場合、夢を追うことを諦めることになる。
もう1つの選択肢は、最小限の稼ぎ、つまり食べられるだけのアルバイトをすること。まだ若く元気なので、路上生活しながらでも図書館の机を使えば、勉強を続けられるはずだ。
後者を選んだ冬、先輩が「うちに来なよ」と言ってくれた。家賃は要らないし、食べ物も、ある程度は面倒みれる。こう聞いたとき、若い私は、自身のつよがりを認めた。住むところがない不安はやはり大きく、長いこと頭を下げたのだ。
約2年間、お世話になった私は、結果的に、当時の夢を断念することになった。それでも生きている。
住むところがなくなったとき、夢を断念したとき。嬉しいことや楽しいこと、喜びと無縁の人生が続くだけだと嘆いた。だけど、生きた。そして、まだ生きのびている。
いま、多くの人の生が揺らいでいる。ほとんどの生活が変更を迫られている。ある人にとってのコロナ禍は、他の人にとってのそれとは意味が違うだろう。そんな中で、私が、他人の苦悩に共感できるものがあるとすれば、どうしても、大切なものを諦めるか否かの悩みになる。
事情を知らぬ人からのエールほど、無責任に感じることはない。
安全圏にいる人から言葉だけで同情されることほど、腹立たしいものはない。
それでも言葉にしたいのは、生きていてほしいということ。生きてさえいれば、必ず、なにかがある。
受けた恩に対する感謝はあれども、自身の境遇と、それを作った世の中に対する怒りが、私から素直な感情を奪っていった。すれ違う笑い顔、幸せ家族、百貨店から出入りする人の声。これらが私の感情を逆撫でした。
ただの僻み根性であることは、誰よりも本人が知っている。だが、陳列棚にある値札の数字を見れば、ここにあるのは自分と無関係の世界であり、その中に身を置く気持ちを平静に保つには、周囲を否定する思いに浸るよりほかなかったのだ。
とはいえ、そのような中にあっても、心震えるものとの出会いはある。いや、正確に言えば、その時を回想したとき、自分と関係のあるものの中にも救いがあることを知る。
私にとってそれは人の言葉ではなかった。優しさでもない。もっと生存に直結したもの、食の喜びを思い出させるものであった。
トマトカレー。
牛丼チェーン店の前を通ったとき、クエスチョンマークの幻覚が見えた。
「なんだ、これは」
常に思考を支配していたネガティブな感情の一切が消え、「どんな、味がするんだろう」と子ども時代のような好奇心に身を委ねた。金額も安かった。
食券を買い、カウンター席で待つ。
隣のサラリーマン風のおじさんがトマトカレーを食べていた。おそらくこの人は、私のような人間の履歴書に目を通し、採用するか否かを決める身分にある。そんな人が注文するのだから、きっと味に間違いないのだろう。
不思議と恨み言は浮かぶことなく、ただ未知の味に対する期待感だけが、そこにあった。
美味しかったことは確かである。何度も食べたし、その日のバイト先近くに店がなくても二駅くらいなら歩いて食べに行った。だが、味を思い出そうとしても不明瞭なままだ。
考えてみれば、オイリーなカレーと、爽快感あるトマトの組み合わせは合わないはずがない。ずっと以前から、カレーにトマトを入れる調理法はあったのだろう。ただ、私の人生には縁がなかっただけである。
そう、私の人生には縁のないものであった。そのようなものはたくさんあり、すべては貧しさが縁を邪魔していると思っていた。しかし、トマトカレーは違う。トマトを1つ追加するだけのことで、費用的にも大したことはない。
もしかしたら、私の周りにはそういったものが溢れているのではないか。
僻みや妬みの感情は、すぐに思考を支配しようとする。これはハングリー精神と呼ばれて活力になることもある。だが、私は思う。程度問題だと。
自己を肯定しない感情の支配下においては、前向きになることはできない。現状を変えるアイデアが浮んだとしても、「そんなことに意味はない、現実を見ろ」という心の声が必ず聞こえる。
この囁きから逃れる術の1つは、身近なものに対するプラス評価であろう。小さなもので構わない。ほんの一瞬でもいい。負の感情から距離を置くことが大切なのだ。
牛丼チェーン店でカレーを販売すること。それにトマトを入れること。そのアイデアにゴーサインを出した人に対する感謝が尽きることはない。トマトカレーとの出会いの後、私の精神を弱らせる事態をいくらか経験したが、その中にあっても喜びの探索を試みてきた。
コロナ不況が、かつての不況と大きく異なるのは、「いま」を忘れさせてくれる刺激との距離。街から足は遠のき、多くの喜びを演出してきた装置は活動停止。私がトマトカレーと出会った店舗も閉じてしまった。
幸いなことに、インターネットもスマートフォンも完全に普及している。ウェブ上で無料小説を読めるサービスは、多くの人にとって、重要なセラピーになっているだろう。だから、私は願わずにはいられない。もっとたくさんの刺激物を、劇薬を、「こういうものがあってもいいじゃないか」という試みを。
「小説家になろう」に代表される投稿サイトの最大の利点は、作者の試みが却下されないところにある。フィルターを通して薄まった刺激物は、「いま」を忘却するには成分が足りない。
ゴーサインを待たずして、トマトはカレー鍋にダイブする。多少のヘタやツルが混入しても、あるいは、まだ誰もカレーに入れたことのない食材と共に妙な色を作り出しても、「いま」を忘れさせるものであるならば、それは救い以外のなにものでもない。
私は、そう思う。