7 ケンカの言い分
あたしが、後回しにしていた甘いトーストに取り掛かったところで、パパはあらたまった、ちょっとよそいきの顔で言った。
「それで、ママとトモは、昨日なんでケンカしたんだ? パパは昨日、ママからは話を聞いたけど、それはママの言い分だ。トモの言い分をちゃんと聞きたい」
あたしが、ちょっとつっかえたりもしながら、昨日あったことを説明する間、パパはほとんど相づちだけで口をはさまず聞いていた。
あたしが話し終わって、ぬるくなったミルクティーをごくりと飲むと、パパはメガネの下から指を差し込むようにして、目の間を親指と人差し指でぎゅっともんだ。そこをつまんだまま、うーん、と、うなる。
「今の話を聞いて、パパが思ったこと、言うな。まず、トモ、話がうまくなったな。何があって、どう思ったか、よくわかった。何があったか、のところは、ママの話とおんなじだ。物事をちゃんと見られるようになったな」
「……うん」
なんて返事していいのかわかんない。あたしはあいまいにうなずいた。半分残っていた、トーストの小倉がわをかじっていると、パパは腕を組んで椅子の背もたれによりかかり、メガネのふちごしにあたしを見つめた。
「何があって、そのときトモがどう思って、だからどうしたのかは、今の話でよくわかった。それで、今はどう思う?」
「どうって?」
「あれから一晩たっただろう。ママに伝えたいことや、昨日の自分に言いたいことや、パパに言いたいこと、あるか?」
あたしは考えながら、ゆっくりトーストを食べた。もうそんなにたくさんは残っていなかったので、ほどなく、食べ終わってしまった。
ミルクティーは、ジャムや小倉をたっぷりのせたパンの後では、ほとんど甘くないように感じた。でも、このさっぱりした感じがおいしい。ママも紅茶かコーヒーをいれて、フルーツデニッシュを食べただろうか。
「あたしってさ」
「うん」
「ママが言うほど小さい? 何にもできない?」
「それは、パパへの質問か?」
「うん。ママは、あれもだめ、これもだめ、危ないからママがやる、って言う。でも、ママ、夕方や週末になるといつも疲れてる。少しはあたしがやってもよくない? でも、やってみようとするたびに、トモちゃんにはまだ早いって感じで、怒られるんだよ。あたしも、ちょっとは、大人の仲間入りしたい。炭酸飲料や、辛いものや、カフェインが試してみたいっていう意味だけじゃなくて、ちょっとは、信用してまかせてほしい」
「そうだなあ」
パパは小さくため息をついた。
「トモは本当に賢いな。パパが思ったのも、そういうことだった。トモは賢いから、例えば、お菓子ばっかり食べて、夕ご飯を食べなくていいって思ってるわけじゃない。先のことを考えて我慢もできるし、危ないことはちゃんとわかってきてる。だけどな」
言葉を切って、ノドをしめらせるみたいに少しだけ、コーヒーを飲んだ。
「ママの話を聞いて、もしパパがそこにいたらどうしただろうって、考えたよ。パパも、ママと同じように、トモを怒ったかもしれない」
あたしはみじめな気持ちになってうつむいた。
「パパにも覚えがあるんだ。だんだん、自転車に乗ったり、カッターナイフがうまくつかえるようになったり、できることが増えてきたときだった。そのころは、パパは何でもできるって思ってた。やり方はちゃんと見てるんだから、失敗なんてするはずない、大人と同じようなことができるはずだ。そう思ってたんだ。だけど、じいちゃんは、絶対に、パパに大工道具をさわらせてくれなかった。じいちゃん、犬小屋くらいは自分で作れるんだよ。教えてもらいたかったけど、中学まではダメだって言われてた。悔しくて、じいちゃんが出かけている日曜日、こっそり、のこぎりを借りた。前の週に切り落とした植木の枝が、庭の隅に積んであるのを試しに切ってみたんだ。小さく切れば、粗大ごみじゃなくて燃えるゴミに少しずつ出して、何百円か節約できるから、お手伝いだという気持ちもあった」
パパは天井のほうを見上げた。怒ったり悲しんだりしているというより、なにか、懐かしそうな顔だった。
「どうなったの?」
なんとなく予想しながら、あたしは先をうながした。この展開なんだから、怒られた話のはずだ。
「トモ、のこぎり使ったことあるか?」
「図工の授業でね。すごく危ないから、先生が見ているときに、一人ずつやるって言われた。その時間だけ、図工室に、五人くらい先生が来たんだ。図工の先生に、担任の先生に、副校長先生、家庭科の先生も、空き時間だったからって来てくれた。途中からだったけど、なんと校長先生も来てくれたんだよ。あたしは家庭科のシライ先生に見てもらって切ったんだ」
「最近の小学校はすごいんだな。使ったんならわかるだろう、あれ、引っ掛かるんだよ。先生はなんて言ってた?」
「押すときはのこぎりを前側に戻すだけで、引くときに切りなさいって」
「やっぱりな。さすが。教えてくれるんだなあ。パパ、それを知らなかったんだよ。押したり引いたりして、ギコギコやって切るもんだと思い込んでたんだ。あっという間に、のこぎりは引っ掛かって、前にも後ろにも動かなくなっちゃったんだ。悪いことに、ヘンな風に斜めに刃が入っちゃったせいで、上に引っ張って抜くこともできなくなった」
「万事窮す、ってやつだ」
「お。ことわざ辞典かなんか、読んだのか。あれは困ったな」
「で、どうしたの?」
パパはにやりと笑った。
「パパは賢くなかったんだよ。隠した。濡れて錆びたらまずいと思って、遠足の時に持っていくシートで包んで、縁側の下に押し込んだんだ。それで忘れちゃった。二週間後ぐらいに、じいちゃんが、道具箱ののこぎりがないって騒ぎ出して、慌てた。でも、もう、言い訳できない。そこでやっと、正直に、抜けなくなった枝ごとのこぎりを出してきて、じいちゃんの前においた」
「じいちゃん、激おこでしょ」
「まさにその通り。ヘンな風に力を入れて無理に押し引きしたあげく、生乾きの湿っぽい木に差しっぱなしで二週間だろ。のこぎりの刃の目立てがすっかり狂っちゃって、金物屋さんに調整に出さなきゃいけなくなっちゃったんだ。その分、働いてもらうからなって言われて、そこから三週間、週末のたびに庭の手入れをさせられた。枯れ枝を束ねて、草をむしって、空になった植木鉢を洗って干して、車庫の壁のペンキを塗り直しして」
「ひー、大変」
「そうやって、さんざん働いたあと、最後に言われたんだ。刃物は無理に扱えば、反動で自分が怪我をするって。抜けなくなったのこぎりを、無理に抜こうとしたら、大怪我をしていたかもしれない。自分の知らないことを甘く見るんじゃない、って」
「……そうか」
「ベランダで椅子に乗るのは本当に危ないんだ。何も、トモがわざわざ身を乗り出して下のほうを覗き込むなんて、パパもママも思っていないよ。でも、もし急に強い風が吹いたり、洗濯物がヘンに引っ掛かったのを取ろうとしたりして、よろけたら? 人間の身体は頭のほうが重いから、バランスを崩したら、柵を超えて落ちる危険性はあるんだ。だから、パパも、トモがベランダに椅子を出して洗濯物を取るのは反対だ。それは覚えておいてほしい。背伸びでもいいから、自分の足で立って手を伸ばして届くようになるまで、高いところの洗濯物はパパかママに任せてほしい」
あたしは想像してみた。うちのベランダの柵はそんなに高くないし、ベランダの幅も広くない。もしも椅子が倒れたとき、上に乗っていたあたしがどんな姿勢になるか。
ぞっとした。
「ごめんなさい」
小さい声で謝った。
「雨が降ってきたから取り込もう、というのは、すごくいい判断だったと思う。手が届く範囲のものだけでも、小物干しやハンガーから外して、部屋の中に入れておいてくれたら、それだけでもママはとっても助かったはずだ」
たしかに、すぐに使う予定のある洗濯物は、あたしの上履きと体操服だけだった。それなら、十分手の届くところにあった。諦めなきゃいけないのは、シーツとバスタオルと、パパのチノパンくらいだったはずだ。ママがいつも、小物干しもハンガーも、物干しざおから外して全部室内に取り込んでいたから、そこまで全部やるのが当たり前と思い込んでいて、分けて考えてみる、ってことをあたしはしていなかった。
あたしがそう言うと、パパはうなずいた。
「やっぱり、トモは賢い。落ち着いて考えたらわかるんだよ。でもな、人間、いつでも落ち着いていられるわけじゃないんだ。失敗もする。あわてもするからな。それに、パパは、ママの態度もよくなかったとは思う」
「なんで?」
「トモがいった通り、今までトモに何にもやらせないで、トモが自分で考えてやろうとしたときに、トモの言い分も聞かないで怒ったのはよくなかった。トモに椅子から降りなさいというのはいい。でも、椅子から降りたトモの話をママは聞かなきゃいけなかったのに、ママは、自分が心配した、危ないことだった、っていう方から話し始めた。それは、ママの失敗だ。大人でもあるんだよ、そういうことって。あわてて間違えること」
「ママはあわててたんだ」
「そりゃあそうだ。ママの一番大事なのはトモなんだから」
あれ。この話最近聞いたな。
「最近ママに、宝物はって聞いたら、トモとパパだって。誕生日プレゼント、何にするかの調査だったから、なんだその模範解答、使えない、って思ったけど、本当に本当だったんだね」
「当たり前じゃないか」
パパは、模範解答ってなんだ、と大笑いした。
トモちゃんの住んでいる地域では、学校で校長先生の次にエラい先生を「副校長先生」と言いますが、同じ立場の先生を「教頭先生」という地域もありますね。