2 パパの思い出
「で、パパの話って何なの?」
「実はだな」
パパは言いにくそうにもじもじと、コーヒーカップの中をスプーンでかきまわした。ミルクも砂糖も入れないのに、パパはいじいじとカップの中をかき回すクセがあって、ママに落ち着きがないっていつもイヤがられている。
でも、あたしは知っている。パパは猫舌なのだ。いつもは、飲み物が冷めないうちは、飲むことができなくて手がヒマなのだろう。それか、かき回して早く冷まそうとしているのかも。
ただ、今この瞬間はそのどちらもハズレだ。多分、パパは、言わなきゃいけないことを言うのが上手くできなくて、かわりに、コーヒーをかき回してる。あたしが激おこ状態のママにガミガミ注意されたとき、爪の甘皮を引っ張って返事をしないでいて、ママに三倍怒られるのと同じやつだ。
「ほんとうに、秘密はまもるよ。安心して」
あたしはクリームソーダのアイスクリームに慎重にスプーンを入れながら言った。思った以上に食べにくい。力まかせに押すと、アイスクリームがどっぷり沈んで、あふれてしまうだろう。グラスの背も高いので、上手くスプーンを差し入れるだけで一苦労だ。これは本当に、お姉さんの食べ物だ。
「来月、ママの誕生日だろう」
「ああ、そうだね」
「トモ、プレゼント考えたか?」
「まだだよ」
確かにそろそろ、準備を考えないといけない。去年は、折り紙を折って画用紙に貼り付けて、しおりを作った。あじさいと、ワンピースと、学童保育でタイチに教えてもらったアカエイの折り紙を貼ったのだ。あじさいとワンピースは、平らだったからよかったんだけど、タイチこだわりのオリジナル折り紙作品だったアカエイは、教えてもらった時はすごくかっこよくてお気に入りだったんだけど、体の部分が立体的になっていて、尾の付け根のとげまで再現されていたので、本に挟めないしおりになってしまった。あれはちょっと失敗だった。
「頼む、トモ。今年はパパと合同プレゼントにしてくれないか」
パパは喫茶店の机に手をついて、あたしに頭を下げた。
「なんでよ。自分で決めたらいいじゃん」
「去年、考えたんだよ。パパとママが恋人同士だったころ好きだったブランドのハンドバッグ、フンパツしたんだ。そしたら、これ持ってお出かけするところ、ないなあ。私にはもうこのブランド、若すぎちゃうしって」
パパは、下げたままだった頭を、テーブルにごんとうちつけて、そのままみじめっぽく突っ伏した。
「で、そのハンドバッグ、どうしたの」
「陽ちゃん、去年転職しただろ」
ママの歳の離れた妹だ。叔母なんだけど、おばちゃんと呼ぶと激怒するので、うちではみんな陽ちゃんか、陽ねえ、と呼んでいる。
「うん」
「お祝い、何か選ばなきゃって話があったんだよ。それで、わざわざ買わなくても、これをあげようって、ママが」
「パパかわいそう」
「だろ」
「でも、あたしはそういうの興味ないけどさ、クラスのおしゃれ番長のみちるちゃんやひなこちゃんは、いつも、服に合わせてどのバッグがいいとかクツはどうだとか言ってるよ。たかだか近所の公園に来るだけなのに、こだわり、すごいんだから。ママと恋人同士って、十年くらいは前の話でしょ。今の陽ねえくらいでしょ。陽ねえが着てるみたいな服、ママは着ないよ」
「そんなもんかね。そういえば、去年、クローゼットを整理するって言って、陽ちゃんにお下がりずいぶん引き取ってもらってたな」
「そうだよ。で、誕生日プレゼントはどうしたの」
「気持ちだけで十分うれしいからいいよって言われて選びそこねた」
あたしは腕をくんだ。気持ちだけでいいよ、って奥さんに言われて、ダンナさんがそれを真に受けちゃうのはまずいだろう。ほんの三年生のムスメにも、これは深刻な問題だってわかる。みちるちゃんやひなこちゃんが聞いたら、悲鳴のような黄色い声で、アリエナーイ! っていうやつだ。パパはちょっとゲンジツを見た方がいい。こんなにママのこともわかってないなんて、やっぱり会社に行きすぎなんだ。
「んでさ、今年は、パパはなんかアイデアはあるの?」
「あったらここでトモに頭なんか下げてないよ」
「いばって言わないでよ。困ったなあ。去年は折り紙だったんだけど、折り紙って、低学年っぽいよね。あたしもう三年生で、低学年じゃないんだよ。三、四年生は中学年。もうちょっとお姉さんっぽいものがいいよね」
あたしはため息をついた。ちょっとずれてきたメガネの横を押し上げる。
「ましてや、パパと合同でしょ。中途半端なものは出せないよね。あたしだけであげるなら、お手伝い券っていう手もあったんだけど、パパはさあ。家のことはお手伝いじゃなくて分担でしょって、またママに怒られるし」
「そうは言ってもなあ。パパだって、これでも考えたんだ。今までに浮かんだ、最高のアイデアが、トモに相談すること、だったんだよ」
「そんな情けないことで胸を張らないでくれるかな。なんか、特別な思い出とかないの。十年以上の付き合いでしょ。あたしより、ママとの付き合い長いんでしょ」
二人が出会ってなきゃあたしが生まれないわけだから、当たり前の話だ。
「うーん」
パパはほおづえをついて考え込んだ。
「一番の思い出は、トモが生まれた日のことだなあ」
「どんな?」
「トモ、お腹の中にいたときから、すごくマイペースでさ。もう予定日すぎてるのに、全然出てくる気配がなくて、運動した方がいいですよって言われて、ママとよく散歩したんだ。で、このまま出てくる気がないようだと、そろそろ、薬や手術も考えないといけませんね、まで言われちゃってさ。日曜日、家にいてもやることないし、心配になるだけだから、二人で近所をうろうろ散歩したんだよ。それで、もう十分、お腹の中にいただろうから、そろそろ出てくるように言ってやってくださいって、向こうのお稲荷さんにお参りしてお願いしたんだ」
家から十分くらい歩いたところにある、コミュニティセンターの隣にある神社のことだ。大きなイチョウがご神木で、猫のひたいくらいの公園がとなりにある。ぽつんとベンチが置いてあるくらいで、遊具も何もないから子どもはほとんど行かないけど、朝、登校するとき横を通ると、太極拳やラジオ体操のクラブをやっているおじいちゃんおばあちゃんがよく集まっている。
「それで? なんかあったの?」
この話は、初めて聞いた。
「そしたら、トモ、やっと出てきたんだよ、その次の日の明け方に。しかも、すごいスピード安産。お稲荷さんってご利益あるんだなーって思った」
「それだけ?」
「うん」
あたしはずっこけた。何かないんかい。夢でお稲荷さんのお使いのキツネが出てきたよ、とか、帰って稲荷ずし食べたよとか。せめて、イチョウがきれいだったーとか。ああ、でも、二月じゃ、葉っぱも何にもないな。
「病院に行ったのは、その日の夜中だった。お腹がギューッと痛くなるのが、一時間に一回くらいになったら連絡しなさいって病院から言われてたんだ。十時半くらいにはそうなってたんだけど、ママが病院に電話したら、その声の感じとかで、もう少しかかるかな、日付変わってから来るんでもいいかもねって、助産師さんに言われたんだよな。日付が変わってからだと、入院料金、一日分だけ安くなるんだよ。しかも、日曜日の夜だろ。休日料金で高くなるかもしれないから夜中の十二時まで待とうって、ママが」
ママはそういうところにうるさいタイプだ。
「へえ」
「トモ、あの頃からスイッチ切り替えたら思い切りがいいタイプだったんだよなあ。まさに、マイペース。病院に着いたら、その後、ものすごく、出てくるの早かったんだ」
「どういうこと?」
あたしは眉をひそめた。
「ママはトモしか産んでないだろ。初めての出産は、普通、時間がかかるらしいんだ。入院してからでも十時間とか、普通らしい。だから助産師さんもママも、一時間半くらい、家で待っても病院でも待っても同じでしょって思ってたみたいなんだよな。だけど、病院について診察してもらったら、助産師さんが、あららー、これでよく家で待ってたねえ、痛かったでしょうってびっくりするくらいもう進んでたらしくて、トモが生まれたのは、夜明け前だったんだよ。もう、あっという間。ママも、まさかそんなに自分が我慢していたつもりはなかったみたいで、この子、のんびりしてるけど、やる気出たら早いのねーって。ほんとに、生まれた日からそんな話をママとしてたんだ」
「夜明け前ってことは」
入院が、夜中の十二時過ぎてからってことだ。あたしは頭の中で計算した。二月の朝、起きて学校の支度をする頃の六時台がだいたい夜明けかな。自分の誕生日の朝はいつも特別な気分だから、覚えてる。生まれた時間はそれよりすこし前ってことだ。
「五、六時間くらいしかかからなかったってこと? それって早いの?」
「そう。普通のだいたい半分」
「じゃあ、パパ、その後なんなら会社行けちゃう時間じゃん」
「そうなんだよ。すっかり休みとるつもりでいたんだけどさ。あれ、間に合う、って」
「まさか行ったの?」
「行った」
「マジか。自分の奥さんが出産した日に」
「だって、ママが行けって言ったんだ」
「なんで?」
「病院にいるうちは、看護師さんも助産師さんもいて、赤ちゃんのお世話のことは何でも聞けるし、ご飯の支度もそうじもしなくていい。パパは病院にいても何の役にも立たない。でも、ママが退院したら、パパは家のことも赤ちゃん――トモだけど――のことも、ママと一緒にやらなきゃいけないって。今休んでる場合じゃない、取れる休みがあるなら、退院してから取ってくれって、怒られた」
「それこそ、ツンデレどころか、ツンツンだね。きっびしい。ママらしい」
でも、赤ちゃんだったあたしのためなんだ。パパはこんなふわふわした感じだし、ママは自分がしっかりしないとって思ってたんだろう。今もそんな感じだ。あたしが小学生になって、パートも増やした。あたしの学校のことも、家のことも、ママが全部頑張って面倒見てくれてる。あたしに甘いこととか、家のことをあんまりちゃんとやらないことで、パパは家ではしょっちゅう怒られてる。
「しっかし、それじゃ、今も九年前とあんま変わってないよ。パパ、ほんとにちゃんとしないと、ママに見捨てられちゃうよ」
あたしが危機感を丸出しにして言うと、パパは口を尖らせた。
「仕事は頑張ってるんだけどなあ」
「それは知ってる。ママも知ってるよ。あたしがパパに生意気なこと言うと、後で、パパの聞いてないところで、ママいっつも締めてくるもん。パパのおかげでみんな気持ちよく暮らせているのに、そんな言い方するもんじゃないよって」
慌てたあたしのフォローをよそに、パパは遠くを見るような目つきになった。
「あの日、朝焼けがきれいだったんだ。生まれたトモが、簡単にお風呂とか済ませて、パパも抱っこさせてもらったりした後だから、六時くらいかな。病院のろう下の窓が大きくて。空の上のほうが群青色で、だんだん下の方が紫からピンクっぽくなっていってて。夕焼けと違ったのは、一番下が赤じゃなかったんだ。薄黄色っていうか、白っぽい色なんだよ。で、空の群青のあたりに、白っぽい雲がいくつか浮いていてね。パパ、トモはぜったい、晴れ女だなって思ったんだよ。ママはそのときまだ、分娩室にいたから、見なかったけど、名前決めるときにそんな話はしたんだ。だから、朝未なんだよ」
パパはうっとりして言うと、冷めてきたコーヒーをすすった。
こんなふわふわしたこと言ってる。もう。パパ、しっかりしてよ。
その後、ママの好きな音楽のこととか、本のこととか、色々話し合ってもみた。けど、ママはしっかり者だから、好きなアーティストの新譜も好きな作家の新刊もちゃんと押さえている、なのに聞く時間も読む時間もなくて寝室に積み上げてあるっていうことが分かっただけで、クリームソーダのグラスがすっかり空っぽになっても、名案は浮かばなかった。