青い蛙の咆哮が轟く
7月28日月曜日午前11時36分。夏休みに入っていたが、この日は生徒会役員と文化委員が集まって、今年の10月に行われる文化祭の準備をしていた。
「ふう…やっと片付いた」
私は柴田夏芽。生徒会3年書記で実質生徒会役員内をまとめる裏生徒会長。今は生徒会室で文化祭の開会式に使用する動画の作成中だったのだが、今の段階で終えられる仕事がようやく片付いたところだ。ちなみに他のメンバーにはそれぞれの仕事が割り振られている。
3年会計は現在美術部の作品を終わらせるべく美術室に籠っているため、代わりに2年会計が先生と文化祭に使用できる経費を話し合っている所。2年副会長は美術部とイラスト部を兼部していて、さらに家庭問題がありバイトをほぼ毎日しているので休んでいることが多い。2年書記は3年副会長と文化委員の後輩達と共に校内の階段装飾組として体育館に行っており、会長は文化委員の委員長副委員長と共に動画を取りに校内中を回っている所だろう。
私は少しため息を吐いてゆっくりと伸びをした。最近はクラスの文化委員たちの手伝いもしながらバイトや文化祭実行委員として動画の作成もしているため寝不足なのだ。それでいて多趣味なせいか寝る時間がほとんどとれない。流石に2か月もこの状態だと体が悲鳴を上げ始めるのだ。
しかも高校3年の夏ともいえば受験生にとってやっととれる長い受験勉強休み。それをこちらでばかり使うのはかなりまずい、と自分でもわかっているのだが、やはりどうしてもやる気が起きずこちらに来てしまう。もちろんそんな中でもオープンキャンパスは行くのだが。
さて、やっと開会式で使用する注意事項を入れた動画は次の動画待ちという事で、今度はクラスや文化祭で出し物をする団体PRどうがを作成していこうと思う。こちらはあまり考えず順番に並べていけばよいのだが、如何せん団体数が多い上に1個の動画が長い。その上各団体ごとにどの団体の者かをすぐ確認できるように動画の前に名前を奇襲していかなければならない。
なのでこれは後回しにしていたのだ。ドラマのような注意VTRを作るよりは簡単だからこういう時間の空いたときにサクッと作る方がよほど効率が良い。
そんなわけで私は目薬を両目に指すと、再びパソコンに向かった。
「こんにちは…ってあれ?夏芽先輩だけなんですか?」
午後15時29分。私以外誰もいないクーラーの利かない生徒会室に入ってきたのは2年の副会長である伊藤希望だ。この子はサラサラの黒髪に整った顔立ちをしていて声が高い割とモテるオタクくん。恐らくバイトを終えて間に合いそうだと判断してこちらにやってきたのだろう。
私は一旦パソコンから目を話すと希望に目を向けた。
「こんにちは希望くん。ここには私だけだけど、多分体育館とか3階の教室辺りに他の人たちもいるんじゃない?」
そして私は上書き保存すると、パソコンをスリープ状態にした。なんだかんだでまだお昼もちゃんと摂っていなかったし、丁度集中力も切れてきた頃だったので食事にしようと思ったのだ。まあ食事、と言ってもカロリーメイトを食べるだけなのだが。
「そうですか…ん?先輩まさかこれから昼食なんですか!?もう15時半ですよ!?」
希望はそう言って焦ったようにパソコンの辺りを見て目を見開くと、はあ…と呆れ交じりのため息を吐いた。
「まぁた先輩は自分の体調を考えずに!そんなだから身体弱くなっちゃうんですよ?」
希望の呆れた視線が捉えているのはパソコンの隣に散らばったサプリメントや薬の箱。自分でも身体に悪いなとは思っているが、時間に余裕がないこの時期はどうしてもこう言う状態になってしまうのだ。
確か去年は終わった途端ぶっ倒れた記憶がある。
しかし私は希望の責め立てるような言葉に拗ねた。
「だったらパソコンの操作覚えなさい」
その言葉に希望はぐっと言葉につまったように口をキツく結んで少しこちらを睨んでくる。私は気にしないでお昼の準備をした…とは言えカロリーメイト一袋分なのだが。それを見た希望は驚いて目を見開く…事はなく、さっさと取り上げてしまう。
「ちょっ希望くん!返して!」
希望は取り返せないように180㎝近くある身長を利用して高くカロリーメイトを上げながら、片手で何やら準備する。
「先輩はちゃんと食べる時間を設けなければダメです」
そう言って取り返そうともがく私の肩を掴んで、無理矢理椅子に座らせると目の前に弁当箱を置いた。
「…何?これ」
私はちょっと理解できなくて首をかしげながら問うと、希望は苦笑して説明してきた。
「手作り弁当です。夏芽先輩はいるだろうと思ってましたし、これ割りと簡単に作れるんですよ」
ですから無駄にせず食べてください、と笑う希望。私は…驚きすぎて固まった。
「え?だって今日バイトだったんでしょ?なのに作ったの?わざわざ?」
問いただす私に希望は笑って誤魔化すばかり。いや、油の臭いがするから恐らくバイトだったのだろうけど、わざわざ帰ってから作って持ってきたのだとすれば、食べないのは本当に最低だと思う。
「あ、苦手なものだったら食べなくても大丈夫ですから!」
無理して食べてしまっては余計に体調崩しますし、と心配する希望だが、基本私に苦手なものやアレルギーはない。何だか物凄く申し訳なくなって、目の前に用意された箸をちょっと戸惑いながらも持ち上げた。
お弁当は至って普通のものだった。自分でもよく作るような、そんなもの。野菜炒めにポテトサラダと唐揚げ、白米というシンプルさ。しかしすべて少し柔らかめだ。恐らくここ最近マトモに固形物を摂取してない上サプリメントや薬の類いばかり身体に放り込んでいる事を知ってのことだろう。
ただ食べ物の匂いが少し辛かった。
それでも私は黙々と食べ続ける。隣で見張るように立ち、スマホを見ながら時折ちゃんと食べているか確認してくる希望がいるから、余計に早く食べきらなくてはと思ってしまう。
あと、私は正直食事が苦手なのだ。
だからあまり長時間食事がしたくない。それもあって、わずか10分ほどでお弁当は食べきってしまった。ただ、一つだけ思ったのは。
「おいし、かった」
放心状態でもそれだけは思った。久々にちゃんとした食事をしたが、これほど美味しく感じられるとは思っていなかったのである。その言葉に希望は満足そうに笑った。私は恥ずかしさを隠すようなはにかんで言う。
「ありがとう」
次はもういいよとか、そう言う言葉はなんだか失礼な気がしたから言わなかったのは正解だな、と感じた。希望は心底ほっとした様子で言ったのだ。
「また次も作ってきますね」
と。勘違いしてしまいそうなやさしさに私は少し膨れる。何だか悔しく思った。彼にはちゃんと心に決めた人が…遠距離な上に全然会えないから付き合わないだけで、ちゃんといるというのに、全く残酷なものだと思う。
「ただいま~…あれ?柴田サンがちゃんとした弁当食ってるの珍し~」
いつもからかってくる眼鏡のちょっと不思議な三年副会長こと今枝楓が生徒会室に戻ってきた。しかし他のメンバーが見当たらない。
「お弁当の事は放っておいて…それよりお帰り楓。他の皆は?」
私は膨れながらそう言うと、彼はニヤニヤしながらも答えてくれた。
「メンバー多すぎてやることなくなったから戻ってきた。会長の方手伝いに行きたいんだけど今どこか知ってる?」
私は首を横に振った。
「時々戻って来るけど前に戻ってきたのは30分くらい前だし、行き先は聞いてないからわかんない」
そう言いながらお弁当を片付けると隣に立ったままの希望に笑顔で返した。
「お弁当わざわざありがとう…でも好きな人が別にいる時はあんまりやんない方がいいと思うよ」
その好きな人に対してだけの方が特別感が出るからね、と付け加えると、希望はハッと気づいて真っ赤になった。こういう天然なところがあるので可愛い。私は笑ってパソコンの横に散らばる薬類の箱を片付けていく。そしてついでに頭痛薬を飲んで、掃除を終えるとまたパソコンに向かった。細かな微調整はまだ終わっていなかったからだ。
その右隣に今枝がやってきてパソコンを覗き込む。
「これ、誰かに引継ぎしなくていいの?」
私は苦笑した。
「今年の実行委員の中でまともにパソコン扱える人いなくてさ…教えたくても一からとなると時間ないんだよ。だから今簡単な動画編集のやり方とか、集まりの終わった後に先生に報告してる」
するとお弁当を持ったまま突っ立っていた希望がこちらを向くのが視界の端に写った。
「俺、覚えますよ」
その言葉に吃驚して彼を見た。楓も同じことを思ったらしい…一言彼に向かって言う。
「パソコンダメなんでしょ?なんで?」
希望は少し言葉を選ぶように目を泳がせてから言う。
「来年の事を考えたら、出来ないとまずいなって」
私は少し首を傾げて…聞いてみた。
「忙しいのに大丈夫なの?」
一瞬表情が暗くなったが、苦笑する。
「夏芽先輩ほどではないので、大丈夫ですよ」
「「〈こいつ・私〉を基準にするな!!」」
思わず楓とツッコミが被ったがしかし!私のような体を現在進行形で壊している人間を基準にするのはヤバいと思う。それにちょっと気圧されたようにキョトンとする希望を畳掛けるように私は言った。
「毎日市販とは言え規定量を超えた量の薬を飲んでるような感情欠落サイコパスを基準にすると本当に辛いしろくなことないよ!?」
「そうそう!去年のこの時期とか本当に今にも倒れそうなくらい青白い表情でさ!それで体調崩しても学校休まないとかそんな取り付かれたような人間になっちゃうよ?」
楓が私の意見に同意して私を軽く傷つけながら説得を試みる…って、いくら私でもそんなに言われたら結構傷つくんだけど!!という思いで楓を睨むと、希望は驚いた表情で私に詰め寄った。
「大丈夫なんですか!?規定量超えてのまで飲むのは危険なんですよ!?」
薬を規定量以上飲んでいたという事実に何故か食いついた。え、今その話になるの?という感覚である。楓も同じことを思ったようでちょっと首を傾げながら言った。
「今それは重要じゃないと思うけど…」
その言葉にバッと今枝を睨み付ける希望。それに一瞬ひるんだ楓を一気に逆転畳がけ。
「今重要なのは俺の割と健康な身体ではなく夏芽先輩の弱い身体です!去年から一緒に居ながら何故そんなにも心配せずにいられるんですか?普通であれば薬を使用しないのが健康な人なんですよ?…まさかサイコパスとか薬中とか無神経なことを言ったのも今枝先輩なんですか?」
身長180㎝の希望と身長173㎝の楓では威圧感が違う。ちょっと焦ったように後退った楓は苦笑した。
「悪かったよ、俺の負け。伊藤が無理するつもりないんだったら俺は何も言わないよ」
そう言い切った楓にほっとしたらしい希望はさっきまでの殺気すら感じそうな雰囲気が消えて、いつものほんわかした雰囲気に戻り、笑う。
「それならいいんですよ…と言う訳で、丁度俺来たばかりですし夏芽先輩、パソコンの基礎的な使い方、教えてください」
私はその言葉に頷くしかなかった。
いや、一からとは言ったけど、ここの生徒は皆休んでさえいなければ、パソコンの授業を受けていて、一通りの作業ができるはずなのだ。だから本当に動画の作り方だとか画像の持って着方だとか教えて、後は微調整の仕方を教えてしまえばいいだろうと、そう思っていた。
ついさっきまでは。
「…希望くん、なんですかそのキーボードの操作の仕方は」
私はパソコンの前に座って人差し指のみを使ってゆーっくりと文字を打っていく希望に問う。希望はあは、は…と画面を凝視しながら苦笑した。変に器用だな、と呆れて私は仕方なく希望の手を掴んで基本の位置に持っていく。
「ここに小さい凸凹したのあるでしょ?ここに人差し指合わせて…」
本当に一からだけど、ゆっくり丁寧に教えていく。
「最初はゆっくりなの仕方ないよ。その内慣れてくから気にしない!一番手っ取り早いのは自分用のパソコン買って適当に弄るとか…絵を描いてるんだったら、用意してもいいんじゃない?高いけど(笑)」
私はそこでなんか自分がマシンガントークしていることに気が付いた。やばい、さっきから全く希望が話していない…。気に障ることでも言ったのだろうか?と焦って私は言う。
「ご、ごめん!大丈夫?ずっと黙り混んでるけど…」
流れでなんとなく希望の顔を覗き込んだのが間違いだった。
顔が真っ赤になっていたのだ。
覗き込んだ私まで釣られて赤くなった。理由は、察せられる。希望はハッとこちらをみて覗き込んでいる事に気付いてそっぽ向く。
「すみませんごめんなさい!あまりに普通に触れられてちょっとどきどきしてしまってごめんなさい」
私は止まらずに言い続ける希望の手をパッと話して申し訳なくなり謝る。
「ごめん希望くん、気遣えてなかったね…あ、一旦休もう!そろそろ会長組が戻ってくるみたい」
話しているうちに廊下を歩いてくる足音が聞こえてきて、私は話題を逸らした。希望もチラッと廊下を見るなりヘラリと笑う。
「ただい「ただいま戻りましたー」」
この学校の生徒会長こと門真海人と文化委員長坂元雄大が戻ってきたのだが、いやー素晴らしいくらい会長の言葉を遮ったよ委員長クン。副委員長はあからさまに不機嫌顔で委員長を見ると1テンポ遅れて笑顔で言った。
「ただいまです柴田さん愚痴を聞いて」
ずんずんとこちらにやってくるなりそう言った彼…小坂井はるまはニッコリと笑って私の返事を待つ。ちょっと引いたが何とか笑顔で了承した。
「お、おかえり。もちろん聞くよ」
ちなみに彼は委員長の座を坂元に取られてかなりアイツを嫌っているのである。負けたことが悔しいのも理由の一つだが、何より周りを考えて行動しない独裁的な性格が一番嫌いだそう。
坂元と同じクラスである私もその独裁的な性格が嫌いという部分に共感できてしまう。
何より文化委員が文化祭中心で生徒会には頼らないと言っておきながら、集まりに遅れてくるという野郎なのだ。嫌いにならないほうが可笑しい。
私が軽く了承したのを黙って見ていたらしい希望は言う。
「パソコンの操作は」
ちょっとトゲトゲした口調だったせいか私は焦って希望に言った。
「少し休憩しよう!あとでまた教えるから」
その言葉に一瞬影を見せる希望だったが、本当に一瞬だけだったので、私は気付かないふりをしてヘラっと笑う。希望も少し引き攣った笑みを浮かべると「わかりました」と聞き取りづらい声で言った。
よしっと思って振り返ると小坂井が私の腕を掴んで言った。
「じゃ、借りるね伊藤くん」
そしてずんずんと歩くので私はもたつきながら小走りする。後ろからの視線が気になったが、誰のものかわからなかったので気にしないことにした。
生徒会室があるのは三階だが、すぐ近くだと廊下に声が響いて聞こえてしまうだろうから、と1個上の四階の渡り廊下に行く。
ちなみに晴れているので外に出られるから休憩場所には丁度良い。
着くなり小坂井を言う。
「本当になんなのかなアイツ!」
アイツとはもちろん坂元だ。私は苦笑して先を促す。
「何があったの?」
問うと彼はバッと振り返って説明し始めた。
「アイツマジでダメ!動画撮る前に話し合いしようってなってさ、話し合うじゃん?アイツ全くこっちの意見聞かないんだよ。会長が凄く良い意見くれたのに遮るようにこっちの方が良いから、それだと何々がダメだからってしつこく言うんだよ!本当何でアイツが委員長なのかな!?」
つらつらと愚痴が優しげな顔立ちの小坂井から出てくるのを見ると、思わずため息を漏らしてしまう。アイツは普段から調子乗ってると思っていたけど、まさか会長より自分が上だと思っているのではないか?
「アイツ会長を…というか生徒会を何だと思っているんだろ」
何となく話を聞いて苛っとして言ってしまったのだが、小坂井は平然と答えた。
「ただの使い道に困る集団とでも思ってるんじゃない?」
それを聞いてアイツの顔を思い浮かべて…そうかも、と納得しかけた自分は醜い人間だな、と思った。
小坂井はとにかく、と続ける。
「アイツが今にも何かやらかしそうな気がする。本当実行委員長の座は任せたくないよ」
そしてふっと外を眺め始めた瞬間下から物凄い音が鳴り響いた。
「えっ!?」
「ちょ、何!?」
私と小坂井は思わず顔を見合わせて…走り出した。階段を駆け下りながら小坂井が確認する。
「さっきの…生徒会室っぽいよね?」
私は即答する。
「うん、何か…嫌な予感」
そして私たち二人が駆け付けた時には…もう遅かった。
「これ以上生徒会を馬鹿にするのは、いくら先輩だろうと許せませんよ」
冷気を放ちながらそう言ったのは…希望くんだった。彼が手にしているのはちょっと尖ったハサミってだけで、別に怖いわけでもないのか、向けられている張本人は嘲笑する。
「使えないのが悪いのでしょう?そんなハサミ向けて、どうするつもりなんです?」
それは、坂元雄大だった。
生徒会室に置かれている大きなテーブルの一つが横倒しになっている。恐らく希望が倒したのだと思う。それを冷たく笑っているのは…確かに坂本雄大なのだが、何だか様子がおかしい。いつも以上に相手を見下した態度を取っている。
希望は言った。
「貴方、一体何なんですか?自己中心的独裁者ですか?何故門真先輩や今枝先輩、夏芽先輩の事をそんな侮辱できるのですか?」
質問攻撃し始めたことで何となくわかった。
「坂元?何か侮辱するようなこと、言ったの?」
私はつい問い詰める形で坂元に近づいていく。坂元は私の存在に今気付いたらしく、少し目を見張ってこちらを凝視し、屈託のない笑顔を浮かべた。
「事実を述べたまで」
やっぱりおかしい。私は更に聞く。
「坂元、突然本音を漏らすようになったのは、なんで?」
坂元雄大は人嫌いで何かと考え方が独裁的なやつではあるのだが、それなりの常識人だったはず。何故急にこんな狂気的な笑い型が出来るようになったのだろう。
「それは…」
言いかける、がニッコリと笑って次に吐いた言葉は、期待を外れたものだった。そして。
「後で本人から…聞けば良い」
坂元の身体が、消えた。
え?消えた?と今目にした状況が飲み込めずに突っ立っていると、どこからか嘲笑う声が響き渡り、完全に姿が消えたあと、数秒と経たない内に地響きが襲い掛かってくる。
「え?うわっ」
「なにこれ!?」
気付けば校内が段々と形を変えていて、小坂井もその変動に巻き込まれて廊下に消える。戻ってこようとした文化委員の後輩たちが何やら遠くで叫んでいるのすら聞こえてくるほど。
もちろん生徒会室も例外ではなかった。
「うわぁ!」
楓が突然崩れた窓の辺りでこちらを向いたまま落ちていくのが見えた。
「楓!?」
「今枝先輩!?」
「今枝!」
私が叫び、気付いた希望が手を伸ばすが間に合わない。一番近くにいた門真が迷わず楓を追って飛び降りる。
「ま、待って門真!!」
私が叫び終える頃にはもうすでに、私と希望以外のメンバーがこの崩壊したような、変に作り替えられた生徒会室に残ってはいなかった。
それはただの…始まりに過ぎない。
「夏芽先輩、大丈夫ですか?」
希望が少し苦しそうに息を吐きながら聞いてきたことで、ようやく我にかえった私は、自分の左腕に痛みのような、そうでないような違和感を感じた。
「!?…えっと、多分…大、丈夫」
冷静になろうとしても本当にこれは夢なのではないかと思ってしまう。痛みや感触的にはちゃんと、現実なのだけど。
希望が私の言葉の意味に察しがついたらしく、左腕を覗き込んできた。
「な!夏芽先輩?!本当に大丈夫なんですか?痛くないんですか!?」
左腕は人間のものではなくなっていた、というのが一見した感想なのだけど…なんと言うか、アニメとかでありそうな紫色の線がいくつも這っていて、その線をドクン、ドクン、と光るものが通っているのだ。腕自体は薄い青。
正直なところ脈打つ瞬間がかなり痛いのだが、正直に言ってしまうと変に気を遣わせてしまいそうな気がしたので、一瞬言葉を選ぶために思考を巡らす。
しかし、うまく言葉にできそうにないので、へらりと笑って誤魔化した。
「誤魔化さないでくださいよ、こんなときにまで…」
言うなり立ち上がって何かを探すように辺りを見回した。
「何か抑えになるものを、と思いましたが…どうやら荷物とか全てこの校舎に呑み込まれちゃったみたいですね。バッグどころか、何もありません」
そういってすぐ戻ってきた希望に私は立ち上がって言った。
「とりあえずみんなを探そうか」
腕の事は、考えないことにしてヘラリと笑った。
「楓~」
「会長ー」
「門真~」
「小坂井せんぱーい」
こうなってから初めて気づいたが、後輩ちゃんたちは大丈夫なのだろうか。たまたま私たちは校舎の変化に巻き込まれなかっただけで、彼女等は巻き込まれているのでは?と言う疑問が消えない。
そんな思考から段々と俯き加減になっていくのが自分でもよくわかる。
「…夏芽先輩、そんなに落ち込まないでくださいよ」
希望が立ち止まってこちらを振り返るなり、私の肩を掴む。驚いて顔を上げると、目の前には本来あるはずのなかった大きな岩が校舎に巻き込まれたかのように突き出ていて、道を阻んでいた。
「気を付けないと怪我してしまいます」
私は少し深呼吸して希望に言った。
「ありがとう」
私の無理矢理な笑みを見て苦笑するなり肩から手を離すと、今度は私の手を取った。
「…希望くん?」
ちょっと照れ臭そうに希望が言った。
「夏芽先輩ほっとくと勝手に怪我してそうなので、しばらくこのままでお願いします」
「…」
希望が頬を少し赤く染めたまま顔を覗き混んでくる。私は何となくプイッとそっぽむいてしまった。
「夏芽先輩?嫌ですか?」
泣きそうな声でそう聞いてくる希望に促されて、私は仕方なくボソボソと答える。
「嫌じゃ、ない」
ぎゅっと握り返すと、希望はさらに赤くなってはにかむような笑みを浮かべる。
「それじゃあ行きますか」
希望に手を引かれたまま、階段を降りていった。
楓も、門真も、落ちて、三年のもう一人の女子も確か下の階にいたはずだ。とりあえず上の階に残っているであろう後輩たちを探して回ることにする。見付けた後はすぐに下へ向かうように言うか、共に行動するように決めた。
そして探し初めてから15分程だろうか、ようやく4階の廊下に人影らしいものを見付けた。
「あれは!もしかして…金谷!?」
金谷凛は生徒会の2年書記の女の子で、確か今日は文化委員の後輩たちと行動していたはず。途中でバラバラになっていなければ、の話だが。
しかし私の心配は外れた。
「あ!伊藤!夏芽先輩も!無事だったんですね!」
すぐにこちらに駆け寄ってきたのは6人いる内の四人で、見たところ大きな怪我は見当たらない。安心して近付こうとすると、希望に制止をかけられる。
「何だか、怪しいです」
そう言うなり希望は凛に言った。
「そのポケット、何が入ってるの」
にこやかにそう言って鋭い視線を彼女の瞳から離さずに言う希望を見て、凛はちっと舌打ちをする。
「伊藤って案外面倒だね」
もう少しだったのに、と呟く凛の瞳は私の方を向いた。そして素早くポケットに入っていたものを取り出す…それは、先端が尖ったハサミだった。
「え、え?凛ちゃ…」
「名前を呼ばないで気持ち悪い!」
そう言ってハサミをこちらに向かって構える。思わず息を飲んだ。
「いつもいつも伊藤に優しくされて、それでいて門真先輩や今枝先輩と仲が良くて、見た目が良いだけの八方美人が!なんでそんなにちやほやされるの!」
言葉を紡いでいけばいくほど彼女の怒りが増していくのが見える。身体が恐怖で硬直するのも同時に。
「金谷」
「私は、私には何もないのに!!夏芽先輩は賢くて可愛くて、なんでも持ってる。勝てるわけないのはわかってるけど、さ」
希望が静かに声をかけるが、彼女には届いていない様子。それどころかさらに言葉を紡いだと思えば、今度はふっと笑みを溢した。まるで何かを吹っ切れたような、そんな…。
「ズルいですよ…先輩」
そして気が付くと彼女が私に異常な速さで駆け寄ってきて、ハサミを突き刺した。
キィーーン…
「…え?」
「夏芽先輩!」
しかしハサミは、私のおかしくなってしまった腕に当たっただけで、傷一つ付けていなかった。しかも腕は私の意思に関係なく、動いた。
「あーあ、残念」
ハサミは…弾かれて凛の太股の辺りに刺さっていた。
「坂元め…まあ良い。…金谷、貴様もこちら側に来たらどうだ」
廊下に響く聞き覚えのある声が凛の耳に届く。彼女は、叫ぶことも、呻くこともせずにただ茫然とその場に突っ立っていた。
ボソボソと呟く声が聞こえる。
「わ、私は、なんて、事を…ごめ…ん、なさ、い。な、夏芽先ぱ…」
ズズッ…。
嫌な音が廊下に響く。今目の前にいるのは、先程まで金谷凛と言う女の子だったもの…。
「夏芽先輩逃げましょう!皆も逃げろ!」
金谷の後ろで後退りつつあった後輩たちは希望の声にはっと我に返ると、すぐに歩けないのか、残りの二人を支えながら向かい側の階段に向かって逃げていく。凛はどんどんと形を変えて、今は半分ほどしか原形を留めていない。
「ウァァァア」
凛が叫ぶ。絶望したようなそんな叫びに思わず身が硬直するが、すぐに希望に手を引かれて我に返る。
「俺たちも行きましょう!」
私が頷く前に強く腕を引かれてそのまま階段を転がるようにかけおりていく。後ろからはカタツムリくらいゆっくりとした歩みで追いかけてくる凛がいるが、とりあえずはなんとかなりそうだった。
二階までかけ降りてから、先程見付けた五人の内二人と合流できた。
「他の二人は?」
希望が冷静に問い質すと、三人は顔を見合わせて後ろを見る。
「うっく…」
どうやら動けなかった二人が離れるように言ったらしい。段々と姿が青黒いものへと変化していく。
「うっ…あれ?」
一人がこちらに気づいて、身体を確認するように立ち上がった。希望が一言言う。
「自我がある?」
「うん、身体がこんなになってはいるけど、違和感とかあるだけで、特におかしくなってはないよ」
自分でもよくわからないと言いたげに首をかしげた彼女は、脚が鳥のようになり、腕には鱗が見え隠れしていて、さらに額から角が生えていたのだが、本人はいたって普通らしい。ちょっと歩きにくそうなのは苦笑してしまうのだが。
「浜村は…」
希望はいち早くもう一人の方を確認する。…が。
「…いない?」
先程までいたはずの浜村と呼ばれたーーー正直全員の名前を覚えてはいないのでわからないがーーー男子が、姿を消していた。いや、正確には、見えなくなっていただけだった。
「います。なんか透明になっちゃいました」
お茶目すぎる変化だな、とか思ったのは仕方がない。よく見ると青い光が浜村と言う男子のいた場所をふよふよと飛んでいて、そこから声が聞こえるのだ。希望が拍子抜けしたような顔で突っ込みを入れる。
「透明になったんじゃなくて、光の粒になったんじゃない?」
言われた浜村は一瞬黙り混み、唯一残っていた近くの窓に飛んでいって、叫んだ。
「わぁぁぁあ何これ何これ!俺どうなってんの!?」
うん、そういう反応が正常だ。皆はそんな彼を見て苦笑した。鳥足になってしまった女子ーーー恐らく高塚ーーーが、言った。
「そんなことより!なるべく早くここを出ないと不味くない?」
希望はすぐに真面目な表情に返ると、私を振り返る。
「僕たちは一旦一階を見て回ってから出ましょう」
「うん、梨絵が心配だし」
浜村もようやくちゃんと受け入れたのか真面目に言った。
「じゃあ僕たちは出口を見付け次第外に出ますね」
他の四人も力強く頷くと、それぞれ動き始める。私と希望は一旦階段を確認して下に向かって降りていく。もちろん状況整理とかをしつつだ。
「恐らく坂元先輩がやったんでしょうが、現状の校舎はとりあえずおいておきます。夏芽先輩や金谷、浜村、高塚を見て思ったんですが、個人差はあれど恐らく坂元先輩…に乗り移っているものが放出している毒か何かだと思うんですよ」
…?
「坂元に乗り移ってるって、坂元自身がこれを引き起こした訳じゃないってこと?」
「恐らくは…。元は常識はずれかけの普通の人間だったはずですよね?さっきの怪奇現象からここ、世界変わってるんじゃないかと思うんですよ。で、なければ僕たちはここまで冷静に会話できていないかと」
「つまり坂元はなんかに乗り移られて欲望のままに力を振るってて、さらに放出しているであろう毒?で私達が良くも悪くもおかしくなっているってこと?」
「断言できるわけではないですが、それが一番納得できる現状です」
私はちょっと俯いた。言われてみれば確かに、こんな現状みて狂わないのは可笑しい。それこそ厨二病でないかぎりこの現状を受け入れがたいと思う。けど実際は冷静に行動していて、絶望的な二人の姿にも恐怖を感じたくらいで自我は失わなかった。
「…それから……」
「何?」
希望は少し迷うように視線をさ迷わせて、苦笑した。
「やっぱり、なんでもないです」
そして再び歩き出したので、仕方なしに追及はしなかった。
それからしばらく一階を歩き、恐らく元が美術室であろう場所に来た。どうやら被害は少なかったらしく、扉は変わらず佇んでいる。
ガツッズズズ…。
少し瓦礫が邪魔をしていて無理矢理開けることになったが、問題なく扉は開いた。
「日室先輩?いますか?」
希望が一歩中に踏み込みながら声をかける。
「梨絵~」
私も少し遅れて中に入るなり、愕然とした。
「…美術室が」
なかった。
正確に言えば、そこにあったはずの美術室は忽然と姿を消していて、油膜のような分厚い何かがそこにあった。
「…え?…日室先輩は…?」
「梨、絵…?」
「日室梨絵、というものならこの世界にはおらぬ」
唐突に後ろから声が聴こえた。紛れもない…坂元の声。
「っ!坂元雄大!」
勢いよく希望が振り返り、私も釣られて振り返る。坂本雄大がマスクを外してその口の端にある醜い傷を晒していた。やっぱり、希望の推測していた通り坂本雄大本人じゃない。
希望は疑っていますと言わんばかりの表情で私の前に立ちはだかる。それを見て坂元…に乗り移っている者が高らかに笑った。
「案ずるな、この世界に居ないだけで元の世界で気絶しているだけだ」
そしてすっと真顔になると、立ちはだかる希望の後ろで呆然としている私を見る。
「ふぅん…やはりそうか」
意味不明な事を呟く。次の瞬間には目の前に立っていた。
「っ!?いっ…夏芽先輩!!」
「え、え?」
希望は一瞬にして吹っ飛ばされ、気が付けばへたりこんでいた私の前に、顔を覗き込むような体勢でニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべていた。ゾワリと背中の辺りに悪寒が走る。
「まぁまだ良い」
そして坂元は姿を消した。すぐさま希望が駆け寄ってきて怪我をしていないかあちこちを確認してくる。
「大丈夫ですか?怪我は…していないようですね、良かった」
ホッと一息吐くと微笑んだ希望はあまりに温かくて、一粒だけ涙が薄汚れた頬を洗うように落ちていく。それに気が付いた希望は、今度は慌てた様子で言った。
「わ!な、夏芽先輩!?やっぱりどこか怪我を…!?」
その様子に思わず。
「ふふっあはは!そんな慌てて…面白いなぁ希望くん」
クスクスと笑いながらそう言えば、今度は真っ赤になって黙り混む。そんな表情豊かな希望が私は好きだ。
それからしばらく二人で笑い合っていたおかげか、だいぶ落ち着いてきたので再び移動することにした…のだが。
ゴゴゴゴゴ…。
「地震…いや、地鳴りか?」
希望がそう言って険しい表情をすると同時に私は嫌な予感が頭の中を過ぎって行った。
「…ねえ希望くん」
「どうかしましたか?」
「門真や楓たちは、あの時落ちた…よね?」
確認するように聞くと希望は私の意図が読めないと言わんばかりの怪訝な表情で「はい」と答える。
「もしも、もしも皆が私や後輩ちゃんたちみたいに姿が変わっていて、生きていたら…」
「それがもし今の地鳴りの原因だとしたら…?」
自分でも何が言いたいのかわからない。けど何か…一刻も早く皆を探しに外に出なければならない気がしたのだ。
「…ねえ希望くん、早く行こう!急がないと…嫌な予感がする」
「え、でも夏芽先輩…」
希望が何か言おうとしたが、それは途中で途切れた。言う事が、出来ない程驚いていたのだ。
「な、夏芽先輩!左半身が!」
気が付けば私の左半身がまるで何かを体外に出そうとしているかのように変化しており、最早原型を留めてはいなかった。それこそ化け物と称するのに相応しい容姿だ。だが今はそんなことを言っている場合ではない。
「今はそれどころじゃない!」
そう言って希望の腕を右手で取ると無理やり半壊した美術室の扉を開けて廊下を駆け抜けた。不思議なことに先程までのおどろおどろしさが消えていて、それと引き換えに外から悲鳴のようなものが聴こえて来ていた。
「!扉に鍵がかかってますよ!」
希望が向かう先の外に続く扉を指さしてそう言った。私はもちろん、止まらない。
「今の状態なら大丈夫」
何故かそう思ってそのまま殴るように扉に左腕の化け物と化した拳を扉にぶつけた。
ドッッカーーーン!!
とんでもない爆音とともに扉がはじけ飛んだ。
「何でもありですね…」
希望が啞然とした様子ではじけ飛んで行った扉を眺めている。私は彼の手を引いて外へ出た。
「…何これ」
私が目にした景色は、本当に現実離れした…それこそ異空間だという事を強調している光景だった。建物という建物は崩落しており、辺りには自我を失くした生徒や先生たちが苦しそうに咆哮していて、自我がある比較的被害の少ない者たちが、恐らく次元の境目であろう場所に向かって逃げ惑う。そんな景色だったのだ。
そしてその中に背中から黒い骨のような羽が生えた楓が苦しそうにしながらも皆を誘導するのを見つけた。
「楓ーー!!」
精一杯叫んだことで希望も正気に戻ったらしく私に続いて楓のもとに向かおうとする。と、そこで楓がこちらを振り返り…。
「夏芽!?」
私の姿に驚きが隠せないのか一瞬固まった、ように見えた。
「夏芽!逃げろ!!」
そして後ろを指差す。少し前を走り始めていた希望もその仕草に釣られて後ろを振り返る、と。
「夏芽先輩!危ない!!」
私もやっと後ろを振り返る、とそこには…。
「あ、青い…蛙?」
そう、様々な姿に変化して自我を失った先生や生徒たちを飲み込んでいくのは、巨大かつ気色悪い青色の蛙だった。そしてその青い蛙は私に気が付いて巨体とは思えない素早い動きで私のすぐ目の前に来る。
「うっ」
異臭が漂い動くことがままならない。青い蛙はにやぁと笑みをこぼした。
「どうやらゲームは我の勝利のようだ」
その言葉の意味を考える前に、青い蛙は歪んだ笑みを浮かべて大きく口を開ける。…まずい!
「夏芽先…」
「希望くん逃げて!」
思わず駆け寄ってこようとする希望を変形した左腕で突き飛ばして楓に叫ぶ。
「逃げて!」
叫んだあとの記憶は、ただただ真っ暗なだけだった。
あくる日の事。
天気は晴天。風も穏やかで比較的静かで過ごしやすい秋の初め頃。
清潔に保たれている真っ白な病室の一番窓側で、ほとんど開きもしない窓から差し込む暖かな日差しを受けながら静かに眠っている娘がいた。
それは、夏…7月下旬の辺りから意識が未だに戻らない柴田夏芽だった。
カラカラ…。
そこに一人の男子高校生が入ってくる。
「夏芽先輩、こんにちは」
穏やかに眠り続けて反応しない彼女に声をかけてから、サイドに置かれた椅子を引いて座った。何となく語り始めるその横顔は酷く悲しそうな表情。
「…早く目を覚ましてくださいよ、先輩。先輩の物語の続き、ずっと待ってますから」
そして、居たたまれなくなったのか、苦しそうに顔を歪めながら立ち上がる。それでも彼女は一向に目を覚ます気配はない。
「…また来ます」
彼はそっと病室を出ていったのである。
ここまで読んでくださった方、最後までお読みいただきありがとうございました。
現実から夢に、リアルから仮想に、果たして柴田夏芽は本当に現実に居たのだろうか。
この先はここまで読んでくださった方自身で考えてみてください。
誤字脱字など気を付けてはいますが、あったら申し訳ありません。