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砂時計  作者: 藤咲一
8/8

7日〜

 しんじつ


 春樹の心は、今にも爆発しそうだった。しかし、まぶたの裏に映る砂時計は、なかなか砂は落ち切らない。

(まだ生きていられるけど、これじゃあ蛇の生殺しだ)

 春樹は我慢できずに、ゆっくりとまぶたを開けた。

 次の瞬間、何事かと疑うくらいの大きな父親の声が家中に響く。

「直子、どうした? 直子ぉ!!」

 その声に驚きながらも、春樹の目線は砂時計を捕らえていた。その砂時計は止まっている。

 春樹の目前にある砂時計は、全ての砂を落としきり、その役目を終えていた。

 春樹はとっさに周囲を見回したが、死神の姿はない。

 この時、春樹は初めて気付いた。

(この砂時計は、母さんの砂時計だったんだ)

 春樹は居ても立ってもいられず、ダイニングに向けて飛び出す。

 机の上に置かれたままの役目を終えた砂時計は、その場で静かに砕け散った。


 春樹がダイニングに飛んでいくと、父親が横になった母親を抱えていた。

 春樹にはこの状況がどんなものかわからないが、母親がどうなっているのかはわかっていた。

 しかし、春樹は行動する。

(ダメだとわかってる。だけど何もしないなんてできない)

 春樹は電話台の上にある受話器を取ると、一一九番通報した。

 必死に母親を起こそうとする父親を横目に春樹は、母親の状態を確認すると、脈も、呼吸も止まっている。春樹の考えは当たっていた。

 春樹は、気が動転し、ただ母親の名前を呼ぶだけの父親に怒鳴りつける。

「何してんの!? 心臓マッサージ!」

 父親は春樹の言葉で我に帰ると、心臓マッサージを始めた。父親のその姿を確認すると春樹は母親の唇に自分の唇を重ねる。実際にやったことはないが、やり方は知っている。春樹は見よう見まねで人工呼吸をおこなった。

 救急車が到着するまでの時間、実際は二十分くらいだったのだろうが、春樹たちにはとてつもなく長い時間に感じられた。サイレンが家の前でとまると救急隊員が駆けつける。

 やってきた救急隊員に母親を任せると、春樹は父親とともに救急車に乗り込み、母親に付き添った。


 救急車が到着した病院は、この辺りでは名医が揃うという事で名の知れた病院。

 救急車から降ろされた母親は、慌しい医師たちに囲まれ、すぐさま手術室に運ばれていった。

 春樹は父親に、手術室の前で待つように指示すると、携帯電話を取り出し、冬也の携帯にコールした。

 何度もコールするが、冬也には繋がらない。

(授業中か……)

 春樹の脳裏に状況が浮かぶ。

(だったら)

 春樹は一度コールを切断すると、冬也の通う学校に電話を架けた。

 少ないコールで相手に繋がる。春樹は急用だと伝え、授業中の冬也を呼び出した。電話口に冬也の声が聞こえてくる。

「もしもし、兄ぃ? 何かあったの?」

「母さんが倒れた」

 春樹の一言で冬也は全てを理解した。急ぎで病院を伝えると、冬也は「今すぐ行くから」と言い残し、電話を切った。


 手術室前のソファーで項垂れ祈るように座る父親の隣に、春樹は黙って座った。

「冬也、すぐに来るって」

 父親からの返答はない。

「できることはしたんだから、後は医者に任せよう」

「ああ……」

 春樹の励ましに、帰って来たのは父親の弱く震えた声だった。


 長い長い沈黙の中、息を切らせ汗だくになりながら、冬也が春樹たちの前に駆けつけた。

「か、母さんは?」

 息も絶え絶えの冬也に、春樹は父親を一瞥すると、立ち上がり「あっちで話をしよう」と、ジェスチャーをする。

 冬也は、それに黙って頷くと、春樹とともに病院外の喫煙所に向かった。


 春樹はタバコを取り出すと、火を点けた。吐き出した煙が、雨に打たれ消えていく。

 その間に、いてもたってもいられず、冬也は口を開いた。

「母さんはどうなったの? 無事なの? 助かるの?」

 春樹は迫る冬也を静止すると、ゆっくりと言った。

「母さんが倒れる前に、あの砂時計の砂がなくなった」

 冬也は驚きの表情を隠せない。

「え、でも兄ぃは生きてるじゃないか」

 春樹は大きく息を吐き出しながら言った。

「俺も、お前と同じ勘違いをしていたみたいだ。きっとあの砂時計は、母さんの砂時計だったんだ」

 冬也の表情が凍りつく。

「じゃあ、だったら、母さんは……」

 残酷なようだが、春樹は冬也の言葉を補足した。

「助からない……だろう」

 冬也は、春樹の胸倉を掴みながら叫んだ。

「嘘だ、嘘だ、嘘だ、あんな砂時計で人が死ぬはずないじゃないか。母さんが死ぬわけないじゃないか」

 子供の様な感情を、冬也は春樹にぶつける。春樹は、それをただ黙って見つめる事しかできなかった。

 タバコのフィルターが焦げ臭くなっている事に気付いた春樹は、固定された灰皿に放り込む。

 そして、静かに冬也に言った。

「確かに、冬也の言う通りかもしれない。だけど……だけど……」

 言葉に詰まった春樹に、冬也は涙ながらに言った。

「兄ぃは、母さんが死ぬって思ってるんだろ。おかしいよ、あんな物で母さんが死ぬなんて、何も根拠がないじゃないか」

 初めて死神にあった時の冬也からは、考えられない言葉だった。

(でも、これが普通の反応だよな……)

 春樹は一人、心の中でつぶやく。

 黙り込んでいた春樹に、冬也は続ける。

「母さんは、絶対助かる。絶対、死なない」

 冬也はそこまで言うと、踵を返して病院内に戻って行く。

 春樹の冬也を呼び止めようとした右手は、肩には触れず、途中で空気を掴んだ。

(いまさら、何を言おうとしたんだ、俺は?)

 春樹は心の中で、冬也の言う通りになれば、どれだけ良いだろうかと、気持ちを巡らす。しかし、どうしても春樹の頭の中には、死神と見た交通事故が離れなかった。

 春樹はタバコを再び取り出すと、火を点け、煙りを吐き出しながら、空を仰いだ。

 雨は益々強く、音を立てて地面に降り注いでいた。


 降り続けた雨の中、冬也の期待は裏切られ、春樹の恐れは的中した。


 母親は死んだ。


 死因は急性心不全だった。

 アテローム性の動脈硬化が原因の心筋梗塞による心不全だと医師は説明したが、春樹の頭の中は、母親が急に死んでしまった悲しみと、今になって予想を裏切られた感覚で飽和状態になっており、医師の言葉は春樹の耳には届かなかった。


 てがみ


 母親の葬式が終わった。

 人生初めての葬式が自分の母親だとは予想もしなかった。

 春樹は父親の喪服に終始袖を通し、無言のまま涙を堪えていた。

 母親の死を、冬也の様に素直に悲しめない自分が悔しかった。

 そんな雰囲気が伝わったのか、冬也とは病院以来言葉を交わしていない。

 春樹は溜め息をつくと、家族が欠けたダイニングを見回した。

 葬式の間中、常に気丈に振る舞っていた父親は、そのままの服装で食卓に着いて、うなだれていた。

 本当の心の支えがいなくなった事が、父親の全てを鈍らせている。

 冬也は、焦点が合ってない瞳で携帯電話を操作して、時折溜め息をついた。

 まるで、家族の明かりが消えてしまった様だ。現に斎藤家において、その役割をしていたのは、間違いなく母親だった。

 どれだけ母親の存在が大きかったかが、今になって思い知らされた。

 春樹は、母親との思い出を巡らせていると、以前に自分が書いた遺書を思い出した。

(あの手紙、回収しとかなきゃ)

 春樹は黙って席を立つと、玄関先の郵便受けを覗き込む。

 中には数通の封筒が入っている。それを春樹は取り出すと、冬也宛てに出した封筒をポケットに押し込んだ。

 残りの封筒を元に戻す時、宛名の中に自分の名前がある事に春樹は気が付いた。

(俺宛て? 珍しいな)

 春樹は差出人を確認しようと、裏を覗いた。

 差出人は、斎藤直子、母親の名前だった。

 春樹は居ても立ってもいられず、封筒の口を不器用に破く。

 取り出した便箋には見覚えのある文字。独特の文字の癖が、間違いなく母親の物だと教えてくれた。

 春樹は迷わず、その手紙を読み始めた。

『春樹へ

 元気ですか? 風邪とか引いてないですか?

 同じ屋根の下にいる人に手紙を書くのは、不思議な感じですね。

 この手紙が春樹の所に届いてるという事は、お母さんはやっぱり死んじゃったのかな……。

 実はね、この手紙を書いている少し前に、お母さんは死神に会いました。

 きっと春樹も知っている、あの死神です。

 その死神から、砂時計とか、死神とか、色々説明を受けて、お母さん閃きました。

 ちょっと意地悪かなって思ったんだけど、砂時計を春樹の部屋に置く事にしたの。

 母親だからね、春樹の事は誰より知っているつもり。

 春樹が沢山悩んで苦しんでいた事も、家族に心配かけない様に、バイトがない日もバイトがあるって外に出て行っていた事も、全部知ってたよ。

 だからそんな春樹に、刺激になるかなって死神にお願いしたの。私と同じ説明を、息子にもしてって。

 効果はてきめんだったみたい。

 春樹の表情が明るくなった。頑張ってる春樹はカッコ良かったよ。

 このまま頑張れば、春樹はきっと大丈夫。

 春樹は、お父さんとお母さんの、優しくて、頑張り屋で、本当に自慢の息子だよ。

 これからは、近くで見ていてあげられないけど、でも、いつでも春樹を見守っているから。

 体に気をつけて、いつまでも元気でね。

 今まで、ありがとう。


 あなたの母親、斎藤直子より』

 手紙を読み終えると、今まで流れなかった涙が溢れ出す。

 気遣いを無下にしても、優しく見守ってくれた母親。

 就職で挫折した時も、温かく励ましてくれた母親。

 あの優しかった母親はもういない。

 春樹の心が激しく熱くなってきた。

「母さん……」

 春樹の口から震えた言葉が漏れる。

 母親には、感謝しても感謝しきれない。受けた愛を何も返せていない。

「何もできなかったのに……」

 後悔の中、春樹はゆっくりとまぶたを閉じる。

 まぶたの裏には、母親の笑顔が浮かんだ。

「母さん……ありがとう…………」

 春樹は手紙をくしゃくしゃに握り締めながら、膝から崩れ落ちる。

 母親を思う涙は、とめどなく頬を濡らし続けた。


 さいかい


 年期の入った机の上には、飲みかけのウィスキーと、砂がサラサラと落ちる砂時計が一つ。

 春樹は椅子に腰掛けながら、その砂時計を見つめる。

 あれ以来、砂時計を目にする度に、母親の死を思い出す。

 春樹は一人、自分の書斎で涙を流した。

 あれから六十年、春樹は就職し、結婚し、子供を育て、子供は結婚、孫にも会う事ができた。

 今では、仕事も引退しゆっくりとした余暇を過ごしている。

(思えば、あっという間の出来事だった。私は母親の様に、家族を愛する事ができたのか?)

 春樹は思いを巡らせるが、結局答えは出なかった。

 春樹は真っ白になった頭を掻くと、引き出しの中から一つの封筒を取り出した。それを机の上に几帳面に置く。

 春樹は妻に、昨年末に先立たれていた。子供は近所に家を建て孫と一緒に住んでいる。

 冬也は父親の人生をなぞるように、教師になり、引退した後も、家族と元気にやっていると、この前春樹に電話があった。

 家族はみんな、この家を出て行き、今は春樹一人だけだ。

 誰宛てとは書かれていない封筒を見つめると、春樹は溜め息をついた。

 春樹はウィスキーに口をつけると、一気に飲み干した。

 机の上に置いたグラスの氷が、優しく音を立てる。

 春樹は気配を感じ、背中越しに待ち人が来た事に気が付く。

(時間か……)

 春樹は深く息を吐き出すと、重厚な椅子を座りながら回転させた。

 目の前には、あの頃と全く変わらないスーツ姿の男が立っている。

 春樹は目の前の男に微笑むと、口を開いた。

「久しぶりだな……」

 スーツ姿の男も微笑みながら口を開く。

「約束しただろう」

 スーツ姿の男の声は、とても優しく、春樹の心に届いた。

 スーツ姿の男に見送られながら、春樹は長い眠りにつく。

 机の上に置かれた砂時計は、役目を終え、静かに砕け散った。

読了ありがとうございます。藤咲一です。これで砂時計は完結です。いかがでしたか? 楽しんでいただけたでしょうか? 少しでも何か感じていただければ幸いです。しかし、読めば読むほど自分の文章力の低さを痛感します……書きたかった事が上手く書けず、張りすぎた伏線は全て回収できない有様。でも、今の私ではこれが精一杯。これからも、次に向かって頑張りたいと思います。それでは長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。藤咲一でした。

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