7日
すなのつきるひ
その日は生憎の雨。暗い雲が空一面を覆って、太陽の光りを遮っていた。
春樹は、朝食を食べるためにダイニングに行くと、意外な人物が食卓にいた。
「父さん……」
父親はいつもこの時間には出勤している。今日は平日だから、学校があるはずだ。現に冬也は登校していった。
春樹は食卓に着きながら、父親に声をかけた。
「おはよう」
父親は新聞を畳むと、春樹の顔を見た。
「おはよう、春樹」
「父さん、今日仕事は?」
「ん、今日は創立記念日だからな、休みだ」
「そうなんだ……」
春樹はそう言いながら、準備されていたトーストに噛り付く。
「春樹はどうなんだ?」
父親は、お茶をすすりながら春樹に聞き返す。
「今日は休み」
「そうか」
父親はそう言うと、湯呑みを静かに置いた。
春樹はいつもと違う食卓に違和感を持った。いつもいるはずの母親の姿がない。珍しい事だと、思いながら父親に尋ねた。
「母さんは?」
「手紙を出しに行ってくれてる」
予想外の回答に、春樹は言った。
「珍しいね、手紙なんて」
春樹はトーストを飲み込むと、牛乳に手をかけた。
「父さんの関係の手紙なんだが、外に出るついでに頼んだ」
「今だったら、電話とか、メールじゃないの?」
春樹の言葉に父親は、静かに笑った。
「そんなんじゃ味気ないだろ」
父親が言葉を言い終わると、玄関から母親の声が聞こえた。
「ただいま」
母親が帰ってくると、いつもと変わらない斉藤家の食卓に戻った。
降り続く雨の中、春樹はビニール傘を片手に、バイト先のコンビニに向かっていた。
その途中にある郵便ポストの前で春樹は立ち止まる。
(手紙の方が味があるか……)
春樹はポケットから封筒を取り出すと、確認した。
封筒には、自宅の住所と冬也の名前が書いてある。切手も間違いない。
春樹は、封筒が雨で濡れないように注意しながら、郵便ポストに投函した。
(しっかり届いてくれよ)
しばらくポストの前で立ち尽くした春樹だったが、雨の勢いが強くなったくると、再びコンビニへ向け歩みを進めた。
外から見たコンビニは、灰色のフィルターがかかったみたいで、淋しげに見えた。
春樹は、傘を畳むと、傘立てに差し込んだ。
入口のセンサーが反応し、自動ドアが春樹を招き入れる。
人感センサーが春樹が店内に入った事を知らせた。
「いらいしゃいませ」
店長の声が店内に響いた。
入って来たのが、春樹だとわかると、店長は首を傾げた。
「どうした斎藤? 今日は休みじゃなかったか」
店長の言葉に、春樹は笑いながら答えた。
「今日は、お客として来ました」
「そうか、珍しいな、まあ、他にお客はいないから、ゆっくりしていけば?」
「ありがとうございます。でも、この後予定があるんで……」
春樹の言葉に店長はニヤリと笑った。その顔を見た春樹は、次の言葉が予想できた。
「何だ、鈴木と……」
「違いますから」
予想通りの出だしに、春樹は最後まで言わせなかった。
店長は口を尖らせながら、不満げに言った。
「何だ、つまらん」
いつもと変わらない店長とのやり取りに、春樹は溜め息をつきながら「はい、はい」と、流した。
「だったら何か買えば? お客さん」
店長の投げやりな言い方に、春樹は微笑みながら、店長の後ろに並ぶタバコを指差した。
「じゃあ、マルボロライト、一つ」
店長は軽快なターンを決めてタバコを取ると、レジを通した。
お馴染みの電子音が鳴る。
「三百二十円になります」
店長がそう言うと同時に、三百二十円を支払った。
「はい、ちょうど」
春樹はタバコを受け取ると店長に言った。
「店長、ありがとう」
店長は、春樹の雰囲気が違う事に気が付きながらも、表に出さず言った。
「またのお越しをお待ちしております」
春樹が気持ちを抑えて、笑うと、店長はニッコリ笑って続けた。
「なんてな、明後日は昼からだから、遅れるんじゃないぞ〜」
店長の言葉に、春樹はいつもの調子で応える。
「遅れる時は、確変の時だけですよ」
「いや、遅刻がダメだから」
店長がそう言った後、珍しくお客が入って来る。
「いらっしゃいませ」
再び、店長の声が店内に響く。
春樹は、接客する店長を横目に頭を下げると、コンビニの外に出た。
雨が降り続く中、春樹は傘をさすと、自宅に向けて歩き始めた。
しにがみ
春樹が自分の部屋に戻ると、死神が砂時計を見下ろしていた。
春樹の帰宅に気付いた死神は、春樹に目線を移す。
「いよいよだ」
死神の声が、春樹に重くのしかかる。
春樹が砂時計を見ると、砂はほぼ下に落ちていた。
(でも、まだ時間はあるよな)
「多少だがな」
死神は優しく言った。
春樹は、一度まぶたをゆっくり閉じると、瞳を見開いた。
冥途の土産とばかりに、春樹は、今まで聞きたくて仕方なかった事を、口に出した。
「死神、一つ聞いていいかな?」
死神は不思議そうに首を傾げた。
「何が聞きたい?」
春樹はコンビニの事件を思い出していた。
「どうして、あの時助けてくれたんだ?」
春樹の言葉に死神は、溜め息を一つついた。
「何だ、まだそんなことを気にしていたのか? 気にしなくていいと言っただろう」
「だって、死神は見届けるだけなんだろ? あの場で俺を助ける必要はなかったんじゃないのか?」
「そうかもしれないが、私はお前を気に入ってるんだ。長い死神の仕事をしていて、ここまで話した相手はお前ぐらいでな。ほっては置けなかった」
「じゃあ、その事が死神の掟に触れたんじゃないのか?」
死神は少し黙り込むと、いつもの口調で言った。
「そうだ。死神の掟には、人間とみだりに触れ合ってはならないというものがある。私はそれに触れた」
「でも、人間は砂時計に触れないと、死神を見ることも触ることもできないんじゃ……」
死神は口元を緩めながら春樹に言った。
「その通りだが、その逆は可能だ。死神は自分の意思で物に触れることができる。だから、このような掟があるのさ」
そうだったんだと春樹は納得し、心の中で死神に感謝した。
(ありがとう)
「……気にするなと言っても、無駄だな……その言葉はありがたくいただこう」
死神はそう言うと、軽く頭を下げながら言った。
「どういたしまして」
その言葉で春樹の胸の支えが取れた。春樹の中でずっとしこりになっていた事が、解きほぐされた。そんな開放感の中、春樹は死んだ後の事が不安になった。
天国、地獄、死後の世界。自分はどうなってしまうのだろうと、不安になる。その不安を死神にぶつけた。
「人は死んだら、どうなるんだ? 天国とか地獄とかに行くのか?」
春樹の質問は唐突だったが、死神は静かに言った。
「さあ、どうだろう。私は死んだ事がないからな
」
「死んでなくても、死神だったら…………本当に知らないの?」
春樹は死神の顔色を見ながら話を切り返す。
その言葉に、死神は深く頷いた。
「私の役目は、余命と最後を見届ける事だからな。それ以降の事はわからない。人には魂がある。死ねば魂になって、天国か地獄に行き、生まれ変わる準備をする。そう思っている人間が沢山いるみたいだが、それは、自分達が信じる宗教の話だろう? 死んだ者は帰って来れない、死後の世界なんて誰にも伝える事ができないんだよ」
死神はそこまで言うと、さらに春樹に説明した。
「だから、私は知らないし、誰も正確な死後の世界はわからない」
(なんだ、やけに現実的な話だな)
春樹は想像と違う回答に、不満げな顔になった。
「現実的と言うより、冷静な客観的意見だと思うが」
死神はてぶりを交えながら言った。
「これは、あくまで私の見解だ。他の死神だったらまた違う意見があるだろう。中には、口には出さないが、人間の様に天国や地獄を信じる者もいる」
死神の言葉に、春樹は「え、そうなんだ」と、言うと、言葉を続けた。
「じゃあ、話は変わるけど、神様はいるの?」
春樹の言葉に、死神は頭を横に振った。
「私達の中に、その様な役名はない。私が知る限り神という者は存在しない」
春樹は、死神に深く迫る。
「でも死神は、死を司る神って意味だろ?」
死神は、また一つ溜め息をつく。
「確かにその通りだが、私達は『死神』と名乗りはするが、神ではない」
(どうな意味だよ?)
春樹の頭の中は、消化不良の状態になっていた。
「わかりやすく説明しよう。私達の仕事は、以前に説明した通りだが、その際に『死神』だと名乗った方が、人間がイメージしやすいから私達は『死神』と名乗る。実際私達には呼び名はないし、組織に関する名称もない」
春樹は何となく理解した。
(『死神』ってのは、人間が作った言葉で、死神はそれを利用しているだけって事かな……)
「その通りだ」
死神の言葉に、春樹は死神がかわいそうになった。
「何で、死神はいるんだろう?」
春樹の問い掛けに、死神は淡々と答える。
「わからない、私が生まれた時には、すでに、この体制は確立されていた。もしかしたら、未だ見ぬ神がそう決めたのかもしれない」
「神様は信じるの?」
春樹の意地悪な質問に、死神は笑って答えた。
「少し……な」
すなどけい
「そろそろ時間だ」
死神の言葉に、春樹の心臓は破裂しそうな力で脈動していた。
春樹の目線の先、砂時計の砂が、最後に向けて落ち続ける。
砂が本当に僅かとなったところで、春樹は目を閉じた。
春樹の頭の中で、様々な人の顔が浮かぶ。
父親、母親、冬也、雅一、店長、真奈美、そして、死神。
(思い返せば、いろんな事があったな……)
春樹は昔を振り返る。
強盗事件も、就職活動も、死神との出会いも、語る事もないありふれた日々も、今となったら良い思い出だった。
春樹はここに来て一つ、やり残した事を思い出し、恥ずかしくなった。
(あの本を処分するのを忘れた……)
しかし、すぐにどうでも良くなった。
(どうせ、死んでしまうんだ、見つかった時には、恥ずかしいなんて感情ないだろ……)
春樹の心の中を、風が通り抜ける。
(死んだら、関係ないさ……死んだら、関係ない……死にたく、ないな……もっと生きていたかった)
死神と出会う前の春樹は、つまらない人生がいつ終わっても良いと思っていた。しかし、実際は違っていた。人生をつまらなくしていたのは、自分自身。死神と出会って、約一週間。とても充実した生活が送れた。もっと早くこの事に気が付いていれば良かったと、ここになって後悔が始まる。
最近の出来事が頭をめぐると、自然と涙が溢れ出てきた。
無情にも砂が落ち続ける砂時計を想像しながら、春樹はさらに強く、まぶたを閉じる。溢れた涙が頬を濡らした。
春樹の涙が床に落ちる前に、実際の砂時計の最後の一粒が、ゆっくりと落ちきる。
それが、一人の人生が終わり、命が燃え尽きた瞬間を明示していた。