自由な君にラベンダーの花束を
ある夏の暑い日に自由な君と出会った。俺は未だに忘れられずにいる。
今から五年ほど前だろうか。君もとい、矢枝と出会ったのは。小柄で華奢な可愛い少女だった矢枝は腰にまで届くまっすぐな黒髪と薄い茶色の二重の瞳が印象的だった。
俺の事を信二兄ちゃんと呼んで慕ってくれた。が、矢枝は去年の夏に風邪が悪化して肺炎にかかり十八歳の若さで逝ってしまった。
可哀想な子だと周囲は言っていた。俺もあまりのあっけない最期にショックが大きくてしばらくは食事も喉を通らなかった。
そうして、一周忌が過ぎてまた夏が来る。矢枝には双子の妹がいた。名前を結衣といって矢枝とそっくりの子だ。
結衣は体の弱かった矢枝と違い、とても頑丈で元気な子に成長している。
「…信二さん。どうしたの?」
矢枝とそっくりな顔と声で結衣が話しかけてきた。俺は答える。
「ああ、その。矢枝の事を思い出していた」
「そう。姉さんの事を。矢枝姉さんは信二さんの事が好きだったものね」
結衣はそう言いながら微笑んだ。今、俺と結衣は矢枝の墓参りに来ていた。数珠を持って屈み、死者に祈りを捧げる。
蝋燭の火とお線香の煙が立ち上る中で矢枝の笑顔を思い出した。花束のひまわりがやけに目にしみる。
俺は既に黙祷をすませた。結衣が終わるのを待っている。結衣は黙祷をすませると静かに立ち上がった。
「じゃあ、行こっか。信二さん」
「ああ。うちに来たら麦茶とスイカでもご馳走するよ。今日は無理言ってごめんな」
「いいの。信二さんと矢枝姉さんは付き合っていたんだし。辛くて当然だから」
結衣はそう言いながらほのかに笑う。俺はお墓に水をかける用の柄杓とバケツを手に持って先に近くにある水場に向かった。
柄杓とバケツを返してから霊園から結衣と出る。お寺は近くにないため、直接家に帰った。
しばらく無言で結衣と歩いた。じぃじぃと蝉の声が響き、積乱雲が空に高くそびえ立っている。強い日差しに困りながらも結衣と家に帰った。
俺の家、自宅に着くと玄関の鍵をポケットから取り出して開けた。がらがらと戸を開けると和風の家特有のひんやりとした空気が体を冷やす。クーラーはついていたので結衣にも入るように促した。
「入りなよ。母さんがいるはずだから呼んでくる」
「わかった。玄関で待ってるね」
結衣が頷いたのを見ると俺は一足先に家の中に入った。母さんを探した。
「ただいま。母さん、いるかな?」
台所を覗くと顔だけで振り向く母さんの姿があった。
「あ。信二、帰ってきたのね。結衣ちゃんも一緒なの?」
「一緒だよ。母さん、皿洗いの途中で悪いんだけど。スイカを切ってくれるかな?」
「結衣ちゃんに食べてもらうのね。わかった、上がってもらって。皿洗いが終わったら持っていくから」
母さんが頷いてくれたので玄関に急いだ。結衣が立って待っていた。
「悪い。結衣、母さんがいいって。上がってくれ。後、麦茶は用意するよ」
「ありがとう。じゃあ、お邪魔します」
結衣は礼を言ってから家に上がった。
後で麦茶を自分で入れて結衣のいる居間に持っていく。スイカは母さんが後で持ってきてくれるので待ってもらう事にした。結衣はちびちびと麦茶を飲みながら暑かったと言う。
「ふう。麦茶を飲んだら生き返る心地だわ。お墓参りは夕方にした方が良さそうね」
「けど、夕方にしたら蚊に刺されるぞ。朝方の方がよくね?」
「…信二さんの言う通りかも。蚊に刺されるのは嫌だ。朝方にしようかな」
「うーん。でも、虫除けスプレーをかけてもいいんじゃないか。結衣、持ってただろう?」
俺が問いかけると結衣はえっとと考える素振りをした。
「持ってはいるけど。虫除けスプレーと日焼け止めは塗るのが面倒だし。時間があったら塗るけどさ」
「結衣。お前も女だろ。面倒とか言わない」
呆れながら言うと結衣はむくれた。今年で十九歳になるはずだがこういう表情をすると子供っぽく見える。
「信二さん。面倒くさい時は女でもあるよ。メイクとか本当に時間がかかるしお金もかかるし。嫌になるよ、本当に」
結衣はそう言いながらため息をついた。矢枝とは大違いだなと思う。
「…結衣。そうむきにならなくても。悪かったよ。ちょっと無神経だったな」
俺はそう言いつつ麦茶のおかわりは?ときいた。結衣はもう一杯だけと言ったので入れてやる。
「信二さん。別に無神経ではないよ。ただ、あたしね。肌が弱いから日焼け止めと虫除けスプレーは一緒には塗れないんだ」
「ああ、そうだったな。矢枝はそうでもなかったけど結衣は敏感肌だった」
思い出して言うと結衣は気にしないでと笑う。二人して良い雰囲気になった時にぱたぱたと足音がした。
「ああ、おしゃべりしているところ悪いわね。スイカを切ってきたわよ。冷蔵庫で冷やしておいたからおいしいと思うわ」
母さんがお盆にスイカを盛り付けた皿を乗せて立っていた。俺は礼を言いながらお盆を受け取る。
「ありがとう、母さん。じゃあ、早速いただくよ」
「どういたしまして。結衣ちゃん。ゆっくりしていってね」
「はい。ありがとうございます」
結衣がお礼を言うと母さんはじゃあ、戻るわねと口にして台所に戻っていった。俺は手に持ったお盆をテーブルに置く。スイカがあるお皿を結衣の前に置いた。
スイカは赤く熟れていて食べ頃だった。結衣が食べ始めたので俺も自分の前に置いて食べた。
しゃりしゃりと良い音をさせながら結衣はスイカを美味しそうに食べる。
「ううっ。おいしい」
「ん。んまいな」
二人してそう言いながらしばしスイカを堪能したのだった。
結衣は夕方まで俺の家にいた後、迎えに来たおじさん、父親と一緒に自動車で帰っていった。ガラス越しに手を振りながら結衣はバイバイと口にする。俺も手を振りながらバイバイと返した。
自動車はあっという間に小さくなり俺はやれやれと思いながら家に入った。居間に戻ると母さんがお盆に空いた皿を片付けている最中だった。
「もう、結衣ちゃんは帰ったの?」
「ああ。帰ったよ」
「そう。今日は矢枝ちゃんの命日だったわね。信二と矢枝ちゃんは昔から仲が良かったけど。最期には結婚を見据えたお付き合いになっていたのに。亡くなるとは思わなかったわ。矢枝ちゃんが可哀想で」
母さんはそう言いながらお盆を手に持って台所に行ってしまった。俺はしんみりとしながら矢枝の事をもう一度思い出した。
(矢枝。お前が逝ってしまった事、母さんも残念がっているよ。もしよければ、夢の中でもいいから姿を見せてくれ)
胸中でそう呟くも返答はない。矢枝は本当にもういないのだ。
それを痛感する。自室に戻っておじさんに焼き増ししてもらった写真に写る矢枝を見つめた。
「矢枝…」
目をつむると矢枝の声が聞こえそうだ。俺は結衣と一緒にいても満たされていないのに気がついていた。まだ、彼女を忘れられそうにない。
窓から見える青空は皮肉にも晴れ渡っていた。俺は泣き出したい気持ちを抑えてそれを眺めた。
矢枝、俺は元気にやっていくよ。だから、あの世で見守っていてくれよな。そう言って笑ったのだった。
来年の夏にはラベンダーの花束を供えようと決めた。自由奔放ではあったけど矢枝はラベンダーが大好きだった。ひまわりも好きだったが。
彼女が生きている内はなかなか優しくはしてやれない時もあったから。せめて、墓所で再会する時くらいは好きな花でも持っていってやりたい。
俺は決心すると目に浮かんだ涙を手で拭ったのだった。
終わり