想曲・弐〜禁〜
天は何故奪う。何故奪うだけ奪って、何も与えてはくれないのだ。
雷鳴。激しい雨。まるで、誰かの死を悼む者達の悲しみの涙のようだ。
―貴方と…一緒…に…、いき…たかったの…に…な…。
脳裏に蘇る、彼女の言葉。
一緒に出かけようと、約束したのは一週間前だったのに。あの時は顔色もとても好くて、その願いは叶うと、信じられたのに。なのに、集中治療室に入れられた彼女の顔には、明らかな死相が浮かんでいた。もう長くはないと、誰もが悟り、そしていずれ訪れる死に覚悟していた。
滅菌処理された手袋越しに握り締めた細い手。殆んど音にならなかった言葉。
彼女が死ぬ?この世界からいなくなる?
そんな事、誰が認めるものか。その死を覚悟して悲壮な顔でその場に佇んでいた人間全てを殴り倒したい衝動を抑えながら、彼は飛び出した。
暗い雲を走る雷光。轟く落雷の音。叩きつけてくる春の雨。
「天よ!何故貴方は奪うのかッ!」
辿り着いた屋上で、彼は吼える。
だが、応える声などあるはずもなく。ただ激しい雨が、振り仰いだその顔を叩くだけ。
両拳をフェンスに叩き付け、己の無力さに顔を伏せると、その瞳からとめどなく涙が流れ落ちた。一度溢れ出たら止めることも出来ず、彼は絶叫した。
その悲痛な叫び声は、雷鳴と激しい雨音に紛れて周囲に響くことはなかった。
涙が、声が枯れるまで叫び続け、やがて彼は虚ろな表情で顔を上げた。
そして、その視線がフェンスの向こう側へと移されて――――。
「―――これ以上余計な仕事を増やして欲しくないな」
平淡な声音が、今まさにフェンスから飛び降りようとしていた彼の背に掛けられた。
徐に彼が振り返ると、少し離れた場所に少年が一人立っていた。腕を組み、彼を見据えるその顔は明らかに不快を示している。
「何故人間は、感傷的になるとこうも極端な行動に出るのかな」
理解不能だとぼやく彼はどう見ても十五、六歳の少年なのに、その深緑の双眸が宿す輝きは悠久の時を生きてきた者のそれだった。
普通に考えれば異常なこの状況を、しかし悲しみに心を潰された彼は不審にも思わず、感情の失せた暗い瞳でそこに佇む少年を見つめた。
「…いきたかったと、言っていた。俺には、一緒に行くことも、生きていくことも出来ない。けれど、共に逝くことは出来る」
生きて、外の世界へ行くことが出来ないのならば。ならばせめて、淋しくないように。俺も、お前と共に逝こう。
彼の独白を、しかし少年は下らないとでも言いたげに鼻で笑った。
「人はいずれ死ぬ。そのいつかが、彼女にとっては今日であっただけの話なのに」
「わかってるさッ!」
少年の言葉に、燃え尽きてしまったと思われた激情が彼の胸中を荒れ狂った。フェンスから屋上へと飛び降り、雨の中にも係わらず全く濡れていない少年の襟首を掴む。
「そんな事は、今更お前に言われなくても分かっている!彼女の命が、残り僅かだという事も!あの約束が果たされない事も、全て!」
覚悟はしていた。いつか、彼女がここからいなくなってしまうという事実に。それでも、そのいつかは今日ではなく明日だと。明日ではなく明後日だと。そう願っていたのも、また事実で。
「頭と心は別のものだ!別れの時がいつ来てもおかしくないと頭では分かっていても、心が追いつくはずがないだろう!」
窓から見える外しか知らない女性。絵を描くことが大好きな女性。大切で大切で、愛しい女性。
奪わないでくれと、ただ願う。その笑顔を。その、命を。
少年の襟首を掴んでいた手から力が抜ける。崩れるように、水溜りのコンクリートに膝をついた。枯れたはずの涙が溢れ出る。嗚咽が洩れた。
泣き続ける彼を、少年は能面のような無感動な表情で見下ろす。長い長い沈黙を経て、やがて彼は厳かに口を開いた。
「―――望みを、叶えて欲しいか?」
静かな問いかけ。
彼が顔を上げる。その頬を流れ落ちるのは、天から降ってくる雫か、それとも、彼自身の心が流す血か。
「一度鬼籍帳に名前を刻まれたならば、その運命を変える事は赦されない」
だが、と。少年は、恐ろしい程冷めた声音で、白刃の如き鋭さを宿した瞳で、彼を射抜いた。
「代償を払うというのならば、その願い、叶えてやろう」
どうすると、少年は静かに問いかけてくる。
考えなくても、答えなど決まっている。
少年の深緑の双眸を真っ直ぐに見つめ、彼は応えた。
「俺は―――――」
ΨΨΨΨ