序曲・壱〜雪〜
前作、『天の啼く狭間で』のサイドストーリーです。
上記の小説を読まなくても支障はないとは思いますが、
セットでお読みいただいた方が世界観がわかるかのではないかと。
窓を開けた。身を斬り裂くような冷気が暖められた室内に流れ込んでくる。
長身を屈め、身を乗り出すようにして空を仰ぎ見る。空は厚い雲に覆われていて、今にも天気が崩れそうだ。この寒さなら、確実に雨ではなく雪になるだろう。
背後で扉が開く音がした。それと同時に聞き慣れた声が耳朶を打つ。
「寒い。ラキ、窓を閉めろ」
抑揚を欠いた少年の声が短く告げる。
ラキは言われた通りに窓を閉めた。そして、視線を背後へと遣る。
「お早いお帰りでしたね。今日は遅くなるかと思っていたのですが」
いつもの皮椅子に深く身を沈め、目を閉じている主にラキは話しかける。
「・・・・・・」
しかし、主は何の反応も返してこなかった。彫刻と化したかのように微動だにせず、ただ一点を見つめている。
ラキはそんな彼の態度にも特に気分を害した風もなく、穏やかな微笑を湛えたまま一旦部屋を出た。そのまま薄暗い廊下を進み台所に入る。棚に並べられた何種類もの紅茶の缶の中から一つを選び、桔梗の花が描かれたカップに紅茶を淹れた。
湯気の立つカップの乗ったお盆を片手に部屋に戻ると、主は先程と変わらぬ姿勢でそこにいた。
ラキは静かに近付き、机の上にカップを置く。
コトリと小さな音がして、その音に初めて主が顔を上げた。問うような深緑の双眸がラキへと向けられる。
「ベルセルミーネです」
ラキの言葉に、主の視線が目の前に置かれたカップに落とされる。数秒間を置き、主の手がカップを握った。一口飲み、彼はふっと息をつく。
「…『露銀草』に『月の雫』。相変わらず、君の淹れる紅茶は美味しいね」
主の褒め言葉に、ラキはその紫の双眸を嬉しそうに細めた。
「お褒めに預かり光栄です」
「――ただし、さらにミルクを入れれば百点だったね」
褒めた後に一言付け加えることを忘れない。捻くれた主にラキは片眉を上げた。
「…今からでもミルクをお入れしましょうか?」
「今更だ。このままでいい」
申し出を一刀両断に切り捨て、主は再び紅茶に口をつける。
口を開きかけ、しかしラキは思い留まる。ここで主とやりあっても勝ち目は無い事は火を見えるより明らかだ。
「ラウの姿がない。どうした」
残り少なくなったカップに紅茶を注いでいると、ページを捲る音に重なって主の声が届いた。視線を上げるが、頬杖をついて本を読んでいる彼と目が合うことはない。
「兄さんなら、今朝早く出かけて行ったまま帰ってきていません」
恐らく今日はこのまま帰らないでしょうと告げると、主はようやく本から視線を上げた。
「あぁ…そうか。今日だったね、彼女の命日は」
「はい」
本のページを捲る音がする。主の興味は既に失せた。
面白いのかつまらないのか、表情一つ変える事無く分厚い本を読みふける主を見下ろし、それでもラウは思うのだ。
何事にも無関心で第三者的立場を変えない彼が、その事を覚えていてくれたことは、とても嬉しい事だと。それは裏を返せば、自分達はまだ彼の視界の中にいるという事だから。
「…あぁ、降ってきましたね」
主から視線を窓の外へと移し、ラキは一度閉じた扉を申し訳程度に再び開けた。
細い隙間から覗く、空から舞い落ちてくる白い花びら。その何処までも無垢な白さに、人は理由もなく感嘆の息をつく。それは、遥か昔に忘れてしまった、本来ならば人も持っていたものだから。
「どれ程の月日が流れようと、この日は必ず雪が降りますね。彼女の想いが…生きている証拠なのでしょうか」
窓の外で次第にその量を増してゆく雪を見つめ、ラウは淋しげに呟く。
主の深緑の瞳が一瞬だけ窓の外に移されたが、相変わらずの無表情で再び視線を手元の本へと戻してしまった。
天から落ちてくる六花を、ラキは飽きる事無く見つめ続けた。
ここではない何処かを見ている瞳。過去に想いを寄せるその紫の双眸の中に宿る輝きは、悲しみとは少し、違う気がした。