嫉妬
「じゃあニーナ、入院患者に食事を用意しておいてくれ。私はケンイチロウの様子を見に行ってくる。明日の打ち合わせは終わっただろうからな」
「はい、おとうさん」
ラクロワ家の隣の居住用ユニットを二つつなげたものがビーナスシティの病院だった。
医師はアレクサンドル・ラクロワ一人だけで検査も診断も投薬もすべて彼が行い、娘のニーナがそれを手伝うという体制だった。
「すまない。世話になる」
「いいって、いいって」
サーシャの言葉にニーナは元気な笑顔で答えた。
ビーナスシティの住宅は五つの個室とリビング・ダイニングルームそれにバス・トイレがセットになったものが一ユニットになっていた。
それを二つつなげて一〇床の病院として運用していたが現在の入院患者はサーシャ一人だけだった。
サーシャはリクライニング式の車椅子に横たわって窓の外を眺めていた。個室は全て貯水池に面しており、窓の外には水中で泳ぐ淡水魚の群れや藻類が揺らめく様子を見ることができた。
ニーナは食事の支度を開始する前にサーシャの部屋のテレビモニターのスイッチを入れた。
ビーナスシティにはテレビ局はなく、地球とその衛星軌道上の施設、月面都市、金星の浮遊都市を結ぶコンピューターネットワークに流れている動画情報がテレビ放送代わりだった。
ニーナは最近の動画ニュースをランダム再生するように設定した。
『ルナ人民共和国は徐々に落ち着きを取り戻しつつあります。反政府組織であったルナ救国戦線と人民軍による暫定政権が樹立され、新たな大統領選出のための国民投票の準備に入るとの宣言がなされました』
「月のニュースやってるね。あなたはルナ救国戦線のメンバーなの?」
「そのとおりだ」
ニーナはテレビモニターを見つめるサーシャの横顔に視線が釘付けになった。
背が高く顔は小さく、白く滑らかな肌には一点のくすみもなかった。
ニーナは、そばかすの目立つ自分の顔が気になって仕方がなかった。
『投票は三ヵ月後をめどに調整中とのことですが、旧政権の主要メンバーが排除されるのは確実で、ルナ救国戦線のリーダーであるリン・パオ氏が新大統領の有力候補と目されています』
「サーシャさんの知ってる人?」
「あぁ、立派な方だ」
声は女性にしてはやや低いが落ち着いた感じで丁寧な言葉遣いとはいえないものの嫌味はなかった。
大人の女性を感じさせる雰囲気だった。
「ふーん」
『なお、元大統領のアレン氏は依然行方不明であり、当局はその行方を必死で探している模様です』
「そうなんだ。ここにいるのにね」
「秘密にしたい理由でもあるのか?」
ルナ救国戦線も人民軍も大統領専用機が金星の浮遊都市に着陸したことは宇宙護衛艦エラトステネスからの報告で知っているはずだった。
そうでなければ援軍など派遣するはずがなかった。
サーシャは考え込んだ。そのときサーシャの携帯端末のメールの着信音が響いた。
『人民の敵アレンは捕らえなくてもよい。最善と思う方法で抹殺せよ。援軍の到着は待たず行動を起こせ』
金星上空を周回するエラトステネスからの電子メールだった。
差出人は恐らくモハド・ノラザンだ。
サーシャは『抹殺に努めます。』と短く返信した。
「ニーナはユウジやハオユーとは知り合いなのか?」
携帯端末をしまうと、サーシャはニーナにその青い瞳を向けた。
「幼馴染って言うのかな、小さいころからの友達、ご近所で年齢も同じだし。そう言えば私は十八歳だけど、サーシャさんは?」
「地球の暦に換算すると十九歳だ」
「ふーん、もっと年上かと思った。大人っぽいし」
「で、ユウジとハオユーはどんな人間だ?」
「どんなって……二人ともいい人よ。やさしいし。ハオユーは口が悪いけど……ん? で何でそんなこと聞くの?」
ニコニコと話していたニーナは急に真顔になった。
「命を救ってもらった。脱出カプセルを受け止めてくれたのはユウジらしい。それに先ほどの会議の発言、ユウジはずいぶんと頭が切れる」
「うーん、勉強はあんまりできないけどね。ひょっとしてサーシャさん、ユウジくんにその……興味とかあるの?」
ニーナはどきどきしながら聞いてみた。そして聞いたことを後悔した。
「あるから質問している」
サーシャは当然ではないかといわんばかりだった。
サーシャには自分に協力してくれる味方が必要だった。
これまでの態度からユウジには期待が持てた。
「そ、そーなんだ」
ニーナは自分の心臓が激しく脈打つのを感じていた。
自宅で父親の食事の用意をした後、ユウジはハオユーを誘ってサーシャの様子を見に行くことにした。
途中ラクロワ医師とすれ違った際、サーシャはニーナと病院にいることを確認した。
「サーシャって女の子、美人だよな」
ハオユーと並んで歩きながら、ユウジはサーシャの笑顔を思い出して呟いた。
ビーナスシティにはいないタイプの女の子だった。
美しく、凛としていてどこか神秘的だった。
そして、金星の環境に順応していないところがユウジの保護欲をかきたてた。
「ユウジ、まさか、ああいうのが好み? やめた方がいい。あのデカ女、危なすぎるぞ。口のきき方もなってないし」
ハオユーは頭を振りながら答えた。
彼にしてみればサーシャは危険人物以外の何者でもなかった。
「いや、君に口のきき方を批判されるのは彼女も心外だと思うよ」
『今日も口のきき方が原因でグスタフ船長にアイアンクローをかけられた君が何を言うの?』とユウジは目で訴えた。
「ユウジは女にだまされるタイプだな。気をつけたほうがいい」
そんなやり取りをしているうちに病院に着いた。
玄関を入ると受付と待合用のホールがあり、奥の病室のほうからニーナが顔を出した。
「あっ、来たんだ」
「サーシャさんの様子を見に来た」
ユウジの答えに一瞬ニーナの表情が歪んだが、すぐに彼女は笑顔を取り戻した。
「サーシャさんはこっちよ」
ユウジとハオユーは『どうも』と軽く会釈しながらサーシャのいる病室に入った。
「打ち合わせ終わったんだ」
ニーナは笑顔を作ってユウジの目を見た。
「あぁ、物資の搬入作業は明日の一〇時からということになった。作業が終わり次第、元大統領一行には出て行ってもらう予定だ」
ユウジはニーナの問いにニーナとサーシャ両方に向けて答えた。
サーシャはニーナに介助してもらいながら食事中だった。
「今日は長い一日だったよね」
「まったく、とんでもない一日だったよ。たぶん明日はもっととんでもないと思うけど。俺とユウジで食糧庫と空港の間を何度も台車で往復するんだよ。」
ニーナの感想に答えたのはハオユーだった。
水の補給作業はグスタフ、マリアーノのコンビが、食糧の搬入作業はユウジとハオユーのコンビが担当する予定だった。
「さっきから聞いていると、まるで夜になったかのような発言だな。まだ外は明るいじゃないか」
サーシャは魚のソテーを飲み込むと、窓の外に視線を送って怪訝そうにたずねた。
「月ではどうだかわからないけど、ここじゃあ暗くなると夜というわけじゃないんだ」
ユウジが応えた。
「そうよ、この食事は晩御飯でえす。」
ユウジに寄り添うようにしてニーナが補足した。
浮遊都市のビーナスシティは約一八〇時間の昼と約一八〇時間の夜を交互に繰り返していたが、人間はその環境に順応できないため、一日二十四時間で太陽の見た目の運行とは関係なく暮らしていた。
「そうか、せっかくだからビーナスシティ内部を案内してもらおうと思ったんだが」
「はあ? 人使いの荒い女だ」
サーシャの提案にハオユーが鼻を鳴らした。
「じゃあ、私がビーナスシティ自慢の森を案内してあげるね」
「いや、それはユウジにお願いしたい」
三人は一瞬返す言葉を失い、テレビモニターから流れる地球のニュースだけが聞こえてきた。
「はい? それは何でかな?」
ニーナが引きつりながら笑顔を浮かべて、何とか言葉を搾り出した。
「ユウジと二人きりで話したいのだ」
サーシャはその場に流れる微妙な空気など、まるで意に介していないようだった。
「えっ? な、なんで?」
ユウジは頬を染めて口ごもった。
ハオユーはユウジとニーナに交互に視線を動かした。
いつもは機関銃のように言葉が出てくるのに、何故か何も言えなかった。
「わ、わかったわ。おふたりで、どうぞ。おじゃまさま!」
ニーナは声を震わせると、他の三人にくるりと背を向けて荒々しく病院を出て行った。
「おい、ニーナ、待てよ」
ハオユーがあわててニーナの後を追った。ユウジは目を白黒させていた。
「何さ、ユウジったら、鼻の下伸ばしちゃって!」
病院から出た瞬間、ニーナは叫ぶように言葉を吐き出した。
眼にはうっすら涙が浮かんでいた。
「あの、ニーナさん?」
慌てて追いかけてきたハオユーをニーナはきつい目で一瞥した。
「うっさい、ほっといて!」
そう言うとニーナは自分の家に駆け込んで、荒々しく扉を閉めた。
「俺、なんか悪いことしたか?」
ハオユーは途方にくれた。
病院でサーシャとユウジは二人きりになった。妙に静かになった。
ユウジは落ち着かなかった。サーシャは青い瞳でじっとユウジのことを見つめていた。
透明で澄んだ青い瞳はとても清らかな印象をユウジに与えた。
「あらためて頼む。食事が終わったら、ビーナスシティを案内してくれないか?」
ユウジは顔を赤らめたまま黙ってうなずいた。




