秘剣転生
椅子部虎四郎が道場の看板を失ったのは安政五年の夏のことであった。
貧乏旗本の次男坊として生まれた虎四郎は、幼少の頃から腕力に秀でており、元服を迎えてからもその力を思うがままに振り回していたので、ついには家を追い出された。自らの腕に恃むところ厚い虎四郎は、旅をしながら各地の道場という道場を破って回っていった。なにしろ虎四郎の剛力は無手でもって牛を殺めせしめる程であったから、市井の武芸者ではまったく太刀打ちできなかった。虎四郎は道具を選ばす、ある時なぞ拾った棒切れで三人の男を一度に打ち据えてしまったことがある。虎四郎は、いずれ自分の名が天下の大剣豪として世に轟くことを確信していた、そして自分が望む全てをこの腕で手に入れて見せるのだと。
虎四郎が家を出てからすでに四年程たっていた。その日、虎四郎が門を叩いたのは甲源一刀流を祖にするという道場だが肝心の流派名は記録に残されていない。相手をしたのは師範の宇杖文之丞という男である。道場の中、虎四郎と文之丞を門弟が囲んでいる。さて、今日はどこを打ちのめしてやろうかと、構えながら思案していた虎四郎はふと門弟たちに目を向けた。そのほとんどは士族に限らない町民の子供たちであろう、皆師匠の勝利を信じ、あるいは祈っている。虎四郎はその中に一人の女を見つけた。年のころは十二、短い髪に肌は浅黒く焼けており、座っていてもわかる背丈の高さは彼女と周囲とを明白に隔てていた、何よりその薄茶色の瞳は、虎四郎に、それは今まで思い描いたどんなものにも勝る価値があると思わせた。
天啓が走った。己はこいつを娶らねばならない、と。決心するやいなや虎四郎は瞬く間に文之丞との距離を詰めると、その腕で首を抱え込んでへし折った。「看板はいらんが代わりにこいつを貰っていく」そう言って女をひょいと担ぐと、そのまま虎四郎は故郷へ走り帰った。
虎四郎の父は、勘当を言い渡した息子を決して許さず、家には戻さなかったが、女を不憫に思い、幾ばくかの金子をくれてやった。虎四郎は椅子部を名乗ると、金子を元手に小さな道場を起こし剣術の師範をやって暮らした。虎四郎は女を連れて帰って以後、その腕力を指南以外には決して使わなかった。女は最初、虎四郎の顔も見ようとはしなかったが、一年経ち、二年経ち、五年が過ぎる頃には虎四郎との間に男の子をもうけていた。虎四郎は女と自分の字を一つずつとり、虎梧と名づけて、これを猫のように可愛がった。
虎悟は十になった。父譲りの怪力と母譲りの穏やかで芯の強い心を合わせ持ち、健やかに成長していた。朝は道場で父と稽古、昼は手習い、夕にはまた門弟に混じり剣の修行に励む。一番の楽しみは夜、寝床で母と書を読み合う時間だ。幼い頃は母が虎梧に物語を読み聞かせていたものだが、この頃になると逆に、昼に学んだ事を母へと教えることもしばしばだった。そうすると父は決まって、十にもなる男子が母親と同衾するなど情けないと説教したが、虎梧にはそれが単なる嫉妬であるとわかっていたので意には介さず、母も笑っていたものだった。
そんなある日、手習いから道場へ戻った虎梧が目にしたのは、道場で向かい合う父と見知らぬ男の姿であった。二人とも真剣を手にじっと睨み合っている。道場破りであろうか。父は正眼の構え、対する男は下段陰の構えをとっている。男が斬り上げたところで、父がその腕力で刀を叩き落すかあるいは破断する。それで決着だと虎梧は考えた。普段の稽古でも、父と打ち合うことはすなわち刀を失うことであった。だから一本を取る為には、父の太刀筋をかわして打ち合うことなく斬ってしまう必要があるのだが、父もそれをわかっているのでなかなか自分からは動かない。虎梧は常日頃から父を打ち負かす方策を考えていたが、いまだ空想の中ですら一本を取れずにいた。
最初に男が動いた。下段右から左肩にかけての斬り上げである。父はそのまま振り下ろし、男の刀に合わせた。終わった、虎梧はそう思った。しかし、男は右手で刀を捨てると、いつの間にか空いていた左手の食指と中指で脇差をつまみ出し、そのまま父へ向けて投擲した。父の太刀筋は傾けた刀身に滑らされ男には届いていない。正中を狙い飛来する脇差を、父は体を左に引いてかわそうとするが、間に合わず左肩を貫かれた。体勢を崩した父に男は一本目の刀で右から胴を薙ぎにかかるが、父は左手でその刀身を掴んで砕くとそのまま刀ごと男を投げ飛ばした。
男はむくりと立ち上がった。父は、右手で左肩の脇差を抜き捨てると構えなおした、左腕はだらんと垂れている、もう刀を握れる状態ではない。その時、背後で叫び声が上がった。振り返った虎梧が目にしたのは顔面を蒼白にした母である。その表情は今までに目にしたことのない、尋常ならざるものであった。「母上」虎梧が声をかけようとすると、また背後で叫び声が上がった。
振り返って見ると勝負は決していた。男は息荒く、大の字に寝転んでいる。対して立ちつくす父の右肩から先には、吹き出す血の他に何もなかった。男は虎梧の方を見るとやおら立ち上がった。その間、母も虎梧も指一本動かすことはできなかった。
「この宇杖治郎、確かに父の仇討たせてもらった。奪われたものはそっくり返してもらうぞ」
宇杖治郎を名乗った男はそう高らかに叫ぶと走り出し、母をひっ捕まえそのまま駆けていった。虎梧は我に帰ると慌てて追いかけようとしたが、すでに男と母の姿は消えてなくなっていた。
安政五年の夏のことである。
虎梧は十二になった。前髪を剃り、大小をそろえると父へと報告に行った。父から亡くなる前に聞いたのは、以前各地の道場を渡り歩いていた頃に宇杖という師範を殺したこと。母とはそこで出会ったこと。母は恐らく宇杖治郎の知り合いであったろうということだ。
「己はあの頃自分の腕でこの世にある己の望むもの、全てを掴みとれると思っていた。実際そうしてきたが、それはおそらく間違っていたのだ。これはきっと報いだろう。そうしてこの報いは己だけのものであるのだから、お前が背負い込む必要はないのだ」
父はそう言って息を引き取った。しかし虎梧は思った。奪い取られたのは己なのだ。父を母を奪われて、それに目を背けて生きていくことは己にはできない。己は己の手で己の人生を取り戻す必要があるのだと。虎梧は父への報告を済ませると、武州は小沢口へと向かうことにした。父が訪ねたという宇杖の道場があったところである。
そうして虎梧が武州へ向けて街道を進んでいたところ、ごろつきが三人、一人の町人を囲んでいた。何やら金品を奪おうとしているらしい。かまっている暇はなかったけれど生来の気性からつい割って入ってしまった。それが良くなかった。虎梧がごろつきと揉みあっているうちに飛脚が走って来る、この飛脚めっぽう足が早く、江戸でも一二を争うと有名な男であったが、周りに注意がいかない慌て者としても名を馳せていた。その飛脚の目の前に、虎梧がごろつきからはじき出された。二人は真正面から衝突してしまったのである。
気がついた虎梧は体に違和感を覚えた。なんだか力が入らない。石の上に寝かされているらしく背中がひんやりしている。何をどうしてしまったのか、目を瞑ったまま反芻すると飛脚のくだりを思い出した。あれだけしたたかにぶつけたのだから力が入らないのも無理ないことだと思い、目を開け体を起こした。周りを見るとなにやら異様な雰囲気である。面妖な格好の男たちが虎梧を取り囲んでいる。正面にいたのは頭に金細工の装飾を着けて、白い口髭を蓄えた初老の男である。「成功だ」白髭がそう言うと周りの面妖共も揃って歓声を上げた。虎梧が自分の体に目をやるとやはり異様な雰囲気だ。見覚えのない面妖な長着に細長く伸びた手足、なによりおかしいのは膨らんだ乳房である。
「何だこれは」
虎梧の甲高い叫び声が、部屋に響いた。




